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prologue
雪が降っている。
闇の空から降りて来て、辺りを白銀にする雪は、空間に静寂を与える。
それは街路に佇んでいる私の目の前をひっきりなしに通り過ぎ、夜の街を照らすネオンの光を浴びて、何色にも輝いていた。
「今からそこに行くから、待っていてね」
電話の向こうで優しく告げるあの声を聞いたのが、ついさっきのような気がする。
今にもこのポケットの携帯が鳴って、「ご免なさい、道が混んでいてちょっと遅れるけれど、でも行くからね」と少し慌てた声が延着を告げそうな気がする。
あれはもう、2年前の事なのに。
街角の景色は変わらず、行き来する人の多さも、寒さに歩みを進める急ぎ足も、全く変わっていない。
それなのに、幾ら待ったとしても、彼は絶対に来ないのだ。
いや、2年前のあの時も、彼はついにここに現れなかった。
そして代わりに齎されたのは、携帯に掛かって来た、一本の電話……
※ ※ ※
私が翔と知り合ったのは、5年前の春に遡る。
銀座の高級クラブ『鼓』で、ボーイとして働いていたのが彼だった。
そのクラブは入会規約もかなり厳しい、一流の客しか入れない所だから、当然ホステスやボーイもそれなりの人間を雇っている。
ホステス達はただ美しく愛想さえあれば良いというのは二流三流の店での話だ。
高級店ほど客の階級層も上流になり、政財界の大物や大会社を経営する人間、有名作家や芸術家が主な客筋になる。
従って上る話題も単なる天気の話などでは済む訳もなく、耳を傾けても内容は完全に理解出来る程の教養と頭が求められる。
しかも、彼らは酒や美しい女性達が目的というより、場の雰囲気を楽しむ為に来る、真の遊びを知っている粋人が殆どだ。
そんな客達を寛がせる程の応対術をこなせる人間で無ければ、絶対に雇い入れて貰えない。
だから、店に入るなりの如何にも学生風なタキシード姿の彼を見た時には、正直驚いた。
お久しぶりですと私の席に挨拶に来るママに、どうしたんだあれはと聞いてしまった程だ。
「まあ、お目の早い事――ええ、特別ですけれど大学生の彼を雇っていますのよ、臨時で」
「臨時、とは――随分思い切った決断だね」
下手な素人を雇うと、どんな失態をやらかされて店の体面に関わるかも知れないのにと言外に言った私に、ママは微笑んだ。
「真面目な子なんですのよ――確かに素人ですけど、でもあの子は性格がとても穏やかで優しいから、いらっしゃるお客様は皆様あの子を可愛がって、お小遣いを沢山置いて行かれますの」
彼女は若い頃から叩き上げた、銀座の女王との呼び名と美貌を謳われる名ホステスだ。
私も実業家として人々と組織を率いている以上、彼女がどうやって今の地位に辿り着いたか、綺麗事だけでは済まなかったであろう過去の道のりも想像は付く。
だが彼女は、姐御肌な所があった。
他人を蹴落とすという厳しさよりも先に、蹴落とされた人々を庇ってやる優しさと度量があった。
だからそれが芸術家や政治家達に愛されて、業界の仲間からも慕われ、結局女王として上り詰め、その地位に今も居続けられるのだろう。
素人だからと、私がそれだけで断罪するのを、彼女はそうやって広い視点から見て彼の長所を買い、受け入れている。
成程それもそうだと、私は彼女に一本取られた形になった。
このママの目に適う位ならば、彼という人間の確かさに間違いはないのだし。
私は素直に非礼を謝り、侘びとして、彼に倍の花代を出さなければならないなと苦笑すると、彼女は艶やかに笑って、是非そうしてあげて下さいましねと言うと、即座に彼を呼んだ。
「何か御用でしょうか?」
黒いチョッキと蝶ネクタイ、黒のスラックス姿の青年から発されたのは、物静かな、実に澄んだ声だった。
薄暗い照明の下でも、黒髪の艶やかさと凛とした眉、その下の切れ長の瞳の美しさは充分判る。
この年頃の若者にしては珍しく、肌も荒れた所は何一つなく、頬は滑らかな褐色の曲線を描いている。
何故か、その端正な佇まいは桜を思い出させた。
背は175センチ程度と、特別高くも低くもない。
すらりとした上背と長い足は、如何にも青年らしい靭やかさを持っていた。
「翔君、こちらのお客様はね、神戸で企業を経営なさっておられる、東城様と仰有る方よ――貴方とお話したいそうだから、少しお相手をして差し上げて」
「――あ…はい…」
神戸という地名と、東城という姓を聞いて、彼は一瞬表情を変化させた。
彼は神戸出身なのかと、私は推測した。
東城貿易の名は、神戸に住んでいれば知らない者は居ない。
経済界でも有名だから、そういう意味では誰が知っていてもおかしくないのだが、神戸との単語に彼は明らかに反応を見せていた。
どういう形にせよ、彼には神戸が何か関わっていると思われる。
まあ、ここでは関係がない。
話の接ぎ穂程度に頭の隅に留める事にして、その事には触れず、遠慮しないで座ってくれと彼に言った。
ママは他の客の応対の為に一礼して離れて行ったので、彼女が座っていたソファに、彼はおずおずと腰を下ろす。
「翔君と、言ったね」
「はい」
「いつから来ているのかな――私は何しろ半年振りに外国から帰って来たばかりで、ここの店には最近御無沙汰だったものだから」
「2週間になります」
「そうか…少しは慣れたかな?君の知っている有名人とかも、ここで結構見掛けただろうね」
「良く判らないんです――僕、テレビ見ないので…誰がどういう方なのかも…」
本当に彼は知らないようだった。
今時テレビを観ない大学生が居るとは。
家族と暮らしているにせよ、一人暮らしにせよ、テレビは必ずどこでも付けられているのに。
少し驚いて見せると、彼は困った風に笑った。
「僕、余り興味ないんです、そういうのは」
「私も仕事でしかテレビは観ないからね…その気持は判らないではないな」
これは実は単なる話題合わせではなく、本音でもあった。
仕事柄テレビは必要な時は観るが、それ以外は煩わしいので、付けた事はない。
彼にこの相槌を打ってやってから、またもやびっくりした。
自分の本音を他人に言うような事は、私はしたことがないのに。
いつもだったら、相手にああ説明されたなら、私はきっと『そうか、自分は普通にテレビを見る方だよ』と答えたに違いないのだ。
思わず傍らの横顔に視線を向ける。
彼は穏やかな瞳で、真っ直ぐ私を見詰めていた。
綺麗な瞳だった。
見詰め返すと、彼は長い間視線を向け合う事に慣れて居ないのだろう、しばらくしてから恥ずかしそうに俯いた。
純粋さが滲み出る一連の所作に惹かれる物を感じた私は、彼ともっと付き合ってみようと心を決めた。
それが、翔との始まりだった。
※ ※ ※
翔とは源氏名かとばかり思っていたが、意外にも本名だった。
それを後から聞いた私は、何故ママに源氏名を貰わなかったのだと訊ねると、短期間のバイトだったし、本名を名乗っても、逆にお客の皆さんはそれを源氏名と見なすだろうと思ったのだとの返事だった。
彼は本当に聡明な子で、その答えにも、世間を知らないなりに考えが纏まっているのには何度も感心させられたものだ。
通っている大学名を聞くつもりなどなかったが、付き合いが深まるにつれ、それが薄々察せられるのは仕方のない話だった。
彼は都内のとある有名私立大の理工学部に通っており、バイト当時は2回生になった段階だった。
私は、父親が京大卒だったために関東方面の大学には遣らないと反対され、仕方なく私も京大に進学したものの、実際は高校に通っている間は首都圏の大学に行きたいとずっと思っていたから、大学名を彼から打ち明けられた時、それは良いねと羨んだ。
「貴方が、そんな事で羨ましがるなんて」
翔は、彼よりも16も年上で、社会的にも経済的にも世間で一流と認められている男が、子供のように『それは良いな』などと繰り返すものだから、貴方って面白い方ですねと、キッチンで整えた酒を盆で運びながら、あの黒い瞳で微笑んだ。
個人的にそうやって会うようになり、私のマンションへ遊びに来させる事が頻繁になり始めた初夏の頃に彼はバイトを辞めたが、私達の交友は相変わらず続いた。
そのままの関係で何故終らせなかったかと、人は聞くかもしれない。
世間の事を教えたり、かつては同じ学生だった者として勉学に関する相談とかに乗ってやるだけの、言わば年上の友人としての間柄に何故止めなかったのかと。
それは他人だから言える事なのだ。
私達は会えば会う程――いや、初めて会った時からすでに、どうしようもないまでに惹かれ合っていたのだ。
引き返す事は不可能な程に……
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