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私は、男も抱いた事がない訳ではない。 生まれて初めて女性を抱いたのは大学生の頃だ。 女性との交流はそれからも何度かあり、人並みには経験があるものの、基本的に私は一人が好きな人間だったために、いずれも短期間で終わりを告げた。 卒業して親の会社を継ぎ、金も出来ると、遊び心に拍車が掛かる。 そしてあれこれ関西の街を遊び回り、その中で同性との関係も経験した。 確かに身体的な快楽としては、女性相手よりも上だと思える時もあった。遊んだのはいずれも高級店の玄人で、手管が一流だったこともあったが、大体が同じ男同士、どこを探ればどう相手が反応するかなど、彼らは知り尽くしていたのだ。 しかし彼らとの付き合いは好奇心的な意味合いが強く、人間はどこまでの快楽を得られるのかと言った、目先の変わった享楽を求める実験のようなものでしかなく、一通り彼らから教わると、すぐに手を引いた。 結局そうやって誰とも縁を結ばず、仕事に明け暮れた私は、30代の独身男になった。 東城は古い家柄で、京都の元公家の家にも叔母が嫁いだりしている。 その縁で、私にも結構様々な名家の令嬢との見合いの話はあったが、どれも面倒で断った。 母はそんな長男を心配し、誰か決めた方はいらっしゃらないのと良く電話で尋ねて来るが、その度に私は、弟が居るのだから別に私が結婚しなくても良いでしょうと返事を返し、両親共々嘆かせていた。 翔をあそこまで愛するとは、自分は元々同性愛者だったのかも知れない。 けれど彼がもし女性として目の前に現れていたとしても、私は翔を愛しただろうし、そして他の男には――女性にすら――彼に感じた程の愛情と欲望は生まれないのだから、結局はその論議は意味を成さないという方向に収束する。 一人の人間を愛し、相手の性別で自分を同性愛者か異性愛者と区別するのは、結果論に過ぎないと私は言い切れる。 少なくとも、翔に関しては。 彼が彼だから、私は翔が愛しかった。 翔も、私が私であるから、私を愛してくれたのだ。 私をあそこまで愛してくれた人は彼以外居ないし、これからも現れる事はあるまい。 ※ ※ ※ 秋も終わる頃になると、私は本社が東京にも有るのを良い事に、仕事が忙しいと口実を付けて神戸の実家には殆ど帰らず、日本に居る際は赤坂に購入しているマンションで暮らすようになっていた。 勿論、大学に通っている翔がなるべく会いに来られるようにするためだ。 寝室や書斎、客間以外に、ゲストルームとして確保していた8畳の洋室にはダブルベッドと机が置かれていたが、そこに泊まる彼の薫りが、その不在中も色濃く漂うようになって行った程に、彼は私のマンションを訪れていた。 彼の肌。 彼の唇。 彼の息。 その部屋で何度私達は愛し合っただろう。 艶かしく昂ぶりを迎える度に彼が纏うその男の薫りに、私は酔い痴れた。 初めて抱き合った時も、それから後も、二人で互いを求める度に。 ※ ※ ※ ――出会って半年以上が経った、12月の土曜日。 学園祭も終わって一息吐き、学生達もクリスマス前に思い思いに計画を立てているであろう中、相変わらず彼は部活と勉学の合間に時間を見付けては私の所に来ていた。 秋はあっという間に過ぎ去り、真冬と呼ぶに相応しい寒空の中、彼はいつも冷気に顔を赤くして私のマンションに入っては、ああ暖かいと一息吐くのが常だった。 下宿ではストーブは許可されておらず、エアコンだけだと彼はぼやいていた。 ちゃんとしたマンションは管理人がうるさいから仕方ないにしろ、足元が全然暖まらないエアコンでは、下宿はとても快適な環境とは言いがたい。 私の部屋の床暖房と外国製のオイルヒーターに慣れてしまったために、余計に彼はここを気に入っていた。 翔はその日の昼過ぎに、夕方5時ごろにそちらに行きますねと携帯で電話して来た。私はジムで泳いでから3時過ぎに家に帰り、オーディオで適当に洋楽を流しながら、彼が来るのを待つ事にした。 彼の好きなジャスミン茶を沸かす為の湯を用意すると、これを口にする時の笑顔が蘇り、知らず知らず私も唇が綻ぶ。 その頃には彼も自分の事を進んで語るまでに私に心を開いており、だから彼の周辺は概ね把握していた。 実家はやはり神戸で、彼も私の一族の名前を当然知っていた。 だから有名な東城家の御曹司とはこの人なのかと、初対面の際、ちょっと緊張したんですと教えてくれた。 父親はサラリーマンではあるが、東証一部上場企業の部長をしているそうで、母親も関東一帯で手広く商売をしている富裕な家の娘だった。ゆえに一般家庭と言えどそれなりの生活はしているらしく、聞いていても息子の仕送りにも鷹揚なのが窺える。 一回のボーナスで半年分の生活費も授業料もまとめて振り込まれるのを、翔は実に生真面目に生活費を計画してやりくりし、月々の出費を安定させ、赤字を出すというヘマはしなかった。 この子なら大丈夫だからと、親もその確りした性質を信頼しているのが一目瞭然だ。 携帯代も父親が「今時の子供だから必要だろう」と出してやっているとの事だが、彼は必要最小限の事にしか使っていなかった。 友達とも付き合いが広い方ではなく、『貴方の携帯の番号が発信履歴No.1なんだ』と翔は笑っていた。 生活に困っている訳でもない、育ちも良い彼が、何故クラブのボーイなどしたのか。 よく聞けば、親からの振込み額が充分過ぎる程だから、家庭教師の一つすらバイトをした事がないというのに。 詳細を訊ねると、彼は素直に訳を話してくれた。 実に彼らしいエピソードだった。 ※ ※ ※ 母親の誕生日が近いからと、プレゼントにスカーフを買うために日曜日に銀座の和光に行ったのがきっかけだった。 大学生には慣れないデパートで、入った途端彼は後悔したが、母は日頃和光を贔屓にしていたので、こうなったら是が非でも買って帰ろうと悲壮な決意をしたんですと苦笑した時の翔の顔は、本当に可愛かった。 店員も余りに世慣れていない翔の風情に却って良くしてくれたようで、婦人物の装飾品売り場で、あれこれ棚から出しては彼の予算に合う物を見付けてくれたという。何とか気に入ったスカーフを手に入れて、ついでに実家に送って貰うよう手配した。 やれやれと汗を掻きながら出口に向かい掛けると、側をいかにも高級なスーツを着た女性が通った。 後姿で、翔は彼女がどんな人であるかが全然見えなかった。 左手の肘に掛けていた黒い革鞄にはファッションの為であろう、スカーフを結んでいたのだが、それが床に落ちた。 けれど女性は気付いた風はない。 翔はそれを慌てて拾い上げて後を追い掛けたのだが、彼女はそのまま外の雑踏の中に消えて行った。 出る間際に店員達が彼女に挨拶し、本人もまたねと気軽に声を掛けていたのを見たから、ひょっとしたら店員ならあの女性の事を知っているかなと思って聞いてみると、銀座でも有名なクラブのママだとの返答だった。 弱り切ったのは翔だ。 そんな場所、一生掛かってでも自分は行きそうにない。 さっきまで散々高級スカーフを見ただけに、その品が半端な値段の物ではない事は判る。 落とした人はきっと困るだろうと思った。 店員達に「次にあの人が来た時に渡して下さい」と言付けるのも考えたが、もし行き違いとかがあっては後味が悪い。 仕方なく、クラブの場所と名前を聞いて、彼は書店で夕方まで時間を潰した後、その足で『鼓』に向かったのだった。 訪ねた時、もうすでにママは店に出ていた。 実直そうな学生が、袋から丁寧に畳んだスカーフを取り出した時、ママはまあと華やかに微笑み、本当に有難うと喜んだ。 どこで落としたかさえ判らなかったから、諦めていたのだと言って。 一緒に居たホステスやボーイ達が、見覚えのあるスカーフを見て、どうしたのと訊ねるので、翔はこれこれこうで和光で拾ったんですと説明すると、彼女達も今時珍しい翔の真っ直ぐさに、えらいわねと褒めるものだから、彼はすっかり縮こまった。 「タクシーに乗ってから、『あら?スカーフがないわ』と気付いたのよ、私も歳だわねえって、しみじみ思ったわ」 ママの冗談に、ホステス達も大笑いしたという。 その中で翔はこれで失礼しますと急いで出て行こうとすると、お待ちとママが封筒に入れた礼金を掌に押し込むように渡した。 「坊や、食事代くらいにはなるでしょう」 これは一体と見上げる学生にママは軽くウィンクしたが、渡された封筒の厚みからしてかなりの額が入っていると翔も判り、受け取れないと首を振った。 「僕、当たり前のことをしたんですから……結構です、頂けません」 「坊や、私はね、スカーフが戻って来た事じゃなくて、貴方がそうやって店員に任せたりしないで、自分の足でちゃんと届けてくれた気持が本当に嬉しかったの――好きな物を買って余ったら、お友達と焼肉にでも行って奢ってあげればいいわ」 駄目だと一生懸命返しても、銀座の女王と呼ばれる彼女が、一度出した金を『それなら』と引っ込めるなどという無様をする訳がない。 翔の頑なな遠慮に、彼女は訳知りらしく、妥協案を出した。 「なら坊や、こうしましょう――お礼代は5万として、残りの分を貴方がここでバイトしてくれたらそれでトントンになるわ、どう?」 「…それなら…」 周りのホステスやボーイ達も、翔の端正な容姿と素直な気性をすっかり気に入ってしまい、それが良いと一同の賛成の許に、彼は『鼓』でバイトを始める事になった。 「僕、皿洗いしますって言ったんですけれど、ママが、『これから社会人になって行くのだから、偉い人たちというのはどんな風なのかを見て置くのもプラスになるわ』って、フロアに出る事になったんです」 気風の良い彼女らしいと、私は心の中で微笑んだ。 これが世に擦れた若者相手だったら、彼女は礼金すら適当にして追い出しただろう。 しかし翔だからこそ彼女は丁寧に礼金を出したのだ。 彼だから信頼し、好意を持ち、バイトをさせるにしろ、客の前に出しても恥ずかしくないと判断してフロアを任せたのだ。 「この店でお礼分なんて、翔君なら1週間も働いたら充分よ」 周りのホステス達が言っても、彼はせめて一ヶ月は働かないと悪いと答え、結局きちんとその通りに勤め通した。 もし言う通りに1週間で辞めていたら――私と出会う事はなかった。 その事を指摘すると、翔は含羞んだような表情で顔を伏せ、何も言わなかったが、それは私と同様、期間を引き延ばして良かったと思ってくれているのが伝わった。 私達の心はそうやって、言葉を交わすだけで、目線を合わせるだけで寄り添い、分かち難く結び付いて行った。 それが完全な融合へと向かう日が遠くない事を、私だけでなく彼も判っていたと思う。 ※ ※ ※ 茶の用意もしたものの、まだ1時間も余ってしまい、私はオーディオを止めると、ジムで浴びて来たシャワーをもう一度浴びる事にした。 最近近所に出来たレストランが評判なので、そこに連れて行こうと思い、食事の準備はしなかった。 泳いだ後の肩をシャワーで解しながら、傍らのシャワージェルを手に取る。 私の家で遠慮がちに泊った最初の日、翔は身体を洗う石鹸がないと大真面目にドアから顔を覗かせ、私を大笑いさせたものだ。 「ボディーシャンプーがあるだろう?」 「どれだか判りません…」 浴室の説明が足りなかった事を私も謝りながら、これだよと琥珀色のジェルが入った瓶を渡すと、バスタオルに全身を包んでいた翔はええっと声を上げた。 「てっきりアフターシェーブとかだと思っていました、だってこんな綺麗な瓶だから」 「最近はこういう容器が多いんだよ、それにアフターシェーブにしては瓶が大きいじゃないか?」 「…それもそうですね、間抜けだな、僕――後ろのラベルを見れば済みましたね」 二人で笑い、私は遠慮なくローションも使うと良いと言い渡して、浴室を出た。 あの時、翔はバスタオルで身体を隠していたが、その下の若い体は、服の上からでも充分想像は付いた。成熟した青年盛りの、さぞかし美しい肌と筋肉を持っているだろうと思っただけで、今でも身体の奥が熱くなる。 ――馬鹿を考えるなと湯を急いで被り、件のジェルでざっと肌を洗った。 腰にバスタオルを巻いて髪を乾かしていた時にチャイムの音が鳴ったので、翔だろうと覗き窓を覗くと、やはりそうだった。この格好でも彼ならば気兼ねは要らないと、私は鍵を開けた。 開けるなり、翔は私の上半身裸の姿を見て、軽く息を引いた。 頬に血を上らせ、顔を背けると、玄関から部屋にすっと入って行く。 気のせいであれば、良かったかも知れない。 だがあの不自然な息遣いは、確実に私の耳にも届いていた。 彼の心も揺れたと明らかだった、あの表情。 そう。先刻目覚めてしまった私の男としての心は、ここで一気に攻勢に出る事を決断してしまったのだ。 否定はしない。 私は上に服を着もせず、ダウンジャケットを脱いで壁のハンガーに掛けている彼の側に行った。 翔は私の気配に肩をびくりとさせ、こちらがバスタオル姿のままで居るのを恐れるかのように、ゆっくりと振り向いた。 そして――何も変わっていない私の恰好を見て――壁際に、僅かに、後退った。 怯えた瞳をした彼は、私が近付いて肩を捕らえ、顔を寄せても、呆然と立ち尽くしていた。 「駄目…駄目です…孝之さん…駄目…」 譫言のように繰り返される拒絶を無視して、唇を塞いだ。 何に向かって駄目だと抵抗していたのか。 私に対してかと思ったが、それは、彼自身に必死で嵌めていた箍だったのかも知れない。 壁に彼を押し付け、自分の身体全部で押さえ込みながら舌を絡めた瞬間、翔は自分から唇を開き、応えたのだ… 貪り合う唇の甘美さ。 素肌の背に喰い込む指の強さ。 有無を言わせず彼を抱き上げ、寝室に連れて行った。 破らんばかりに服を剥ぎ取り、細いジーンズも脱がせる。 翔も私のバスタオルを落とさせ、自分から腕を回して来た。 カーテンから差し込む斜陽に彼の肌が蜜色に照らされる様は、気が狂いそうな程に欲望を掻き立てた。 理性など残る訳がない。 彼も私も、居間でのあの接吻だけで身体が奔っていたのだ。 湯で火照った私の肌に彼の汗ばむそれが蕩けるように纏わり付き、熱情を更に煽る。 唇と手で腰や背を撫でる度に、彼は切なそうに私の名前を読んだ。 女性相手に彼が経験があるかないかは、それまでの交流で想像は付いていた。 皆無なのだと。 奥手で控え目な翔は、自分から女性に対して積極行動を起こすようなタイプではないと私は見抜いていた。 そんな彼が、私の愛撫に応え、自分からも同じ愛撫を返している。 私の足の付け根に掌を遣って。 これまでの青年達のように手管を振舞うのではなく、本能に突き動かされるままにそうしているのが判るだけに、彼がどれだけこの刻の中に溺れ、私を求めてくれているのかが痛い程に感じられた。 翔の手を止めさせ、彼を唇で呑み込むと同時に、自らをも宥める。 「…もうだめっ…あ、ああっ…!」 舌を沿わせた瞬間、彼は背を仰け反らせ、震えて果てた。 私もほぼ同じだった。 四肢の細かい慄きが取れない彼を飲み干すと、また一瞬翔は身体を震わせ、甘い溜息を漏らす。 「孝之さん…」 力の入らない両腕を上げて私を促す姿は、幼子が母の腕を求めているのにも似て、あどけなかった。 可愛かった。 本当に彼が可愛かった。 彼に応じて接吻し、項に頬を埋めた時、私の心は彼への想いで破れそうだった。 濃い睫に縁取られた瞳は潤みながら私を見上げ、有りたけの恋情を示していた。 心を通わせる事の重さも、その先を考える事もなく、私達は互いを愛してしまったのだ。 予定していた茶も食事も意識から追い遣り、我々はその日の夜中までずっと抱き合い続けた。 彼と私と、双方の身体を完全に与え合うまで。
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