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出会いから3年目の春、彼は大学を無事卒業した。 彼の就職先は聞いていたし、その際の経緯も話して貰っていた。 講座の教授が翔に勧めたのは、地元神戸を拠点とする大手鉄鋼メーカーだった。 そこは私の父方の従兄弟も重役で勤めているし、馴染みが深い名前だ。 翔は面談を受ける時はどこに行くとは言わず、試験が終ってから私に話すようにしていた。 私なら彼の為に根回しすらしかねないと危惧したのだろう。 彼は優秀だからそんな必要もないし、矜持を傷付けるような真似はする気もなかったが、しかしそうは思っても、いざ実際に事前に知らされていたら、その社の知人に、知り合いが試験に行くからといった風なことは耳打ちしたかも知れない。 そうやって幾つか面談を受けて、結局教授の後押しもあり、件の鉄鋼メーカーに就職内定を貰った。 内定が届いたと知らせがあった日の夜、彼を馴染みのレストランに呼んでお祝いをした。 この就職難の中、すんなりと職が決まった事に翔はほっとしていた。 社会人へと歩み出す第一歩を手に入れた彼の笑顔は、何時にも増して眩しかった。 レストランから帰ると、当然のように私達は抱き合い、思う存分快楽の限りを尽くし、二人で眠った。 「多分神戸の研究所に入ると思うから、そうなると、実家に帰らなきゃ――貴方に会い難くなるな…」 夜中に瞳が覚めた時、翔はぽつりと言った。 「なら私も神戸に帰るよ――元々神戸を拠点に動いて居たんだから、構わない」 「それ…僕のため?」 「当たり前じゃないか。ここに居るのだって君の為だ」 「でも――仕事はそれで都合悪くなったりしない?」 「なる訳がない」 実際にはこの三年殆ど神戸に帰らなかったから、その辺りは微妙な物がある。 東京本社と神戸本社では社員の雰囲気もやはり違うからだ。 しかしそれを言う必要はない。私一人でどうにでもなることだし、だいいち翔と離れるのは耐えられなかった。 嬉しそうに翔は笑ったが、しかしすぐに真面目な、寂し気な顔になった。 「でも…僕たち、いつまでもこうしては居られないよ…」 「………」 「貴方だって仕事があるし、僕だって就職したら、どうなるか判らない」 「どうなるか判らない、とは?」 「具体的に何って言う訳じゃない、でも、いくら世間を知らない僕だって、僕達が普通のカップルみたいに皆に認められて、ずっと一緒に居られるなんて将来がありえないことは判る」 「君は私と別れたいのか?」 「僕や……貴方の意志に関わらず、そういう状況になるかも知れないってことだよ」 貴方の、という時に躊躇った声。 私が彼と離れるとでも思っているのかと、名状し難い感情が込み上げて来た。 「たかが状況くらいで、君を私が簡単に離すと?」 「……判らない……」 この答えは何よりも私を驚愕させた。 判らないとは。 私は彼に信じてもらえていなかったのか。 それは単に自分が思い込んでいただけで、彼はそうではなかったのか。 翔は私の様子を見て、急いで言葉を継いだ。 「孝之さん、貴方のことを信じていない訳じゃない、僕には貴方が全てなんだ。でも、貴方は僕のためにこれまで随分無理をして来てくれた、神戸に帰らないで東京にずっと居たり――それで周りに生じたひずみを貴方は一人で引き受けてくれているから、その矯められたひずみがどこかで貴方に向かって一気に噴き出しそうで、怖くて――だから」 必死で掻き口説く翔の言葉は真摯で、私は彼を疑ったことをたちまち後悔した。 彼は聡い。 その純粋な瞳で私を取り巻く世間の本性を見抜いて、心配してくれていたのだ。ずっと。 彼が形容したひずみという言い方は、先刻私がちらりと思った『微妙な物』と同一の物だ。 どうして彼はこんなに聡いのだろう。 不憫で仕方がない。 安心させる為にぎゅっと抱き締めた。 「大丈夫だ、そんな物はありはしない」 けれど、翔の声は震えていた。 「貴方が僕の為にひずみをどんどん負って行くなら、僕はいいから……だってどの道、僕は一人歩きしなければならないし」 「ひずみがあったとしても私は屈する気はない、それに君は始めからきちんと一人歩きしている、自分の足で」 「………」 吐息のような笑いが聞こえた。 「僕は、貴方が居なければ何も出来ないんだよ――」 言いながら、逆に私に抱き付いて来た。 「初めて会った時から貴方が好きで好きで、ここに来る度に嬉しかった。貴方を好きっていうことに比べたら、僕にはどんな事もちっぽけで……東京に、この大学に来て良かった……僕、この3年を全然無駄にした気がしないんだ、一杯生きたなって、すごく充実感があるんだ」 私も同じ思いだった。 この3年は、彼が居たからこその3年だった。 それまでの35年を私は一体何をして生きて来たのだろうと思える位に。 「だから、いいんだ。貴方が大変になる位なら、僕は後回しになっても」 確かにそれは彼の偽らない心境でもあっただろう。 しかし私には、それを言うためにどれだけ彼が心を抑えているかが判っていたし、こんな事を言わせている自分の不甲斐無さに腹が立った。 愛おしい。 この純粋さが哀しい程に愛おしい。 「翔、翔……好きだ、君が好きだ」 「孝之さん――」 判らない。 私はただ唇にその言葉を乗せるしかなかった。 彼の胸に顔を押し付けて、繰り返しそう告げる私の髪を、翔は限りない優しさの籠った手付きで撫で続け、寄り添っていた……
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