もう泣かないときみが決めた本当の理由

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廊下を曲がってすぐに、異変に気がついた。 何やら人が多い。特に、廊下の一番端、オレたちのクラスである一年C組の前に。A組やB組からもひっきりなしに、生徒が出たり入ったりを繰り返している。ばたばたと妙な興奮状態にあるように見えるが。なんだ? よく見ると、この人だかりの中には、二年や三年までもがいた。 「なんだろ? 何かあったのかな?」 気の抜けた声でそう漏らした桜絵に、オレは「ふぁあ?」欠伸で返事を返した。 と、オレと桜絵との間を抜けて行った生徒数名が口にした言葉に、オレたちは揃って固まってしまう。 ――なあ、あれってさ、釘だよな。 ――腹いせなのかな。フラれたさ。 ――いじめかもよ。一年、こぇー。 「……いじめ?」 「……釘? 腹いせ?」 お互い呟いて、向かい合う。桜絵の表情が険しくなっていた。 いじめに腹いせ、それに、釘――。 整合性こそ付かなかったが、どれもが不穏な言葉だ。何か良くないことが起きている。それだけは、今来たばかりのオレたちにも分かることだった。 「他クラスのやつはもう、自分の教室へ帰れ! もうじきにチャイムが鳴る! それまでに帰らんと、全員遅刻扱いにするぞ!」 廊下の端のほうで――人で見えないが――一際大きな声が上がった。多数の生徒たちを追い払うようにがなり立てているこの声は。 「今の、生活指導の滝田先生の声だよね」 桜絵の言葉にオレも頷く。 「滝田がいるなんて、珍しいな」 そして、思わずそう呟いていた。 この滝田という教員、生活指導教員とは言っても、特定の不良連中の理解者を気取っているだけで、いざという時はまるで頼りにならないことで有名だった。 学生時代は、柔道をしていたらしく、体格は良い。体力も、オレたちの三倍は生きているけれど、体育教師とだけあって充分にある。それなのに、校内で何か問題が起こっても、自分が贔屓にしている不良グループが関わっていない場合は、なかなか重い腰を上げようとしないのだ。 そんな滝田先生がここにいるということは、何か――それも、これだけの生徒が興味を持つような無視できない問題が――起きているということになる。 これはもう、嫌な予感しかしない。 桜絵が、多数の生徒を押し退け、滝田先生の名前を呼んだ。 「お前ら……は、このクラスだったな」 閉じられた扉を背にした滝田先生の大きな肩が、力なく上下した。 「何か、あったんですか?」 切羽詰まった桜絵の声に、滝田先生は無言で大きく頷いた。眉間にも眦にも皺を寄せて、溢れ出る嫌悪を必死で押さえているかのような声で低く呟く。 「……黒板にな、ひどいらくがきがされてんだよ。それも、釘でだ」 「釘で、らくがき?」 桜絵の声が強張った。 そのまま、滝田先生によって閉じられた教室の扉を開く。オレもすぐに後を追った。 ガラリと開け放たれた扉の音が、いつもより大きく感じられ、 「まったく。たまったもんじゃない……」 滝田先生の不機嫌そうな声は、ひたりと背中に張り付いたが、すぐに消えた。 目に飛び込んできたものに、オレも桜絵も意識を持って行かれたからだ。   吉野歌織は最低淫乱裏切り女  「なに、これ……」   ようやくそれだけを口にした桜絵の声は、震えていた。 オレは黙って、その文字を見つめる。 黒板の端から端までを使って大きく長く刻まれた文字は、滝田先生や廊下ですれ違った生徒たちが言っていたように、おそらく釘を用いてのものだろう。 引っ掻かれた端々で木屑がささくれ立っていた。 更にその上から、赤いチョークで文字をなぞっている。遠目にも何と書いているのか分かるように、わざとそうしているのだと、オレには思えた。 それにしても……とオレは思う。 黒板に釘で文字を書くなんて、軽く引っ掻いた程度じゃ出来ない。この文字を書いた誰かは、相当吉野を恨んでいる――蛇が這ったような不気味な文字から目を離せずに、オレは言い様のない感覚に陥った。 「お前ら、窓閉めて、扉も全部閉めろ」 教壇に立った滝田先生が廊下を一睨みして、窓際の生徒に、施錠するよう指示した。 全て閉じられたのを確認すると、荒く息を吐く。 だがすぐに、ぎらついた目が廊下側の窓の向こうに定められた。 そこにはまだ黒いシルエットが蠢いていたからだ。滝田先生がやにわに扉を開けて一喝した。生徒たちは驚いたり不満そうに口をすぼめたり、様々な反応を示しながらも去って行った。 一年C組前には誰もいなくなった。 静かになった。 先ほどまで喧騒の中心にあった分、なんだかその静けさは、恐ろしくもあった。 オレは、前の席の坊主頭に「おはよう」も言えないまま、黙って自席に着いた。 「ふん」 滝田先生が、ため息とも鼻息ともとれるような息を洩らし、教卓に手をつく。 「まず先に言っておく。谷井先生はこの報告を受けて、卒倒された」   そうして滝田先生はオレたちという泉に石を投げた。その石はみるみる内に波紋を広げ、教室内は再びざわめき出す。 河東が坊主頭を動かせて、こちらを向けた。 「え? どゆこと? 谷井ちゃん、倒れたってこと?」 「まあ。一年目のセンセイに、こんな大事件は荷が重かったんだろうな」   目を見開いて驚きを示している。 「なるほどなあ。お嬢様っぽいもんな、谷井ちゃん」 担任の名字にちゃんを付けて、河東がひとり頷いた。 いや、別にお嬢様じゃなくても、自分の担当するクラスの黒板にこんなことが書いてあったら、逃げ出したくなるとは思うけど。 しかし、卒倒とは……やはり、お嬢様なのだろうか。 オレが苦笑を浮かべるのとほぼ同時、 「静かに!」   滝田先生が大きな声で吼えた。 ざわめきはぴたりと止んだ。もちろん、河東も前を向く。ふざけている場合じゃないことは、この場にいる誰もが分かっていたからだ。 オレは上目遣いで、滝田先生の顔を見た。 顔全体に機嫌の悪さが表れている。そのうち耳から、煙でも吹きだすんじゃないだろうか。 「だから、谷井先生の代わりに、俺がこの件を受け持つことになった」 心の底から嫌なのだろう。口にノニでも含んでいるかのような苦い顔でそう言うと、 「吉野」 出し抜けに、その名を呼んだ。まるで吉野を中心とした渦が出来たかのように、一斉にクラスの目が彼女に集まる。 実際に吉野は、教室の中央列後ろから三番目という、ほぼ真ん中に座っていた。オレはふたつ隣の列(三十人の教室なので五列目は窓際にあたる)の同じ位置にいるので、吉野の顔はよく見えた。 焦げ茶色のボブヘアから覗く横顔は、強張っている。今朝からの苦労が見て取れるような表情だった。 「ちょっと立て」 無茶を言う。 誰もがそう思っただろう。 吉野歌織は、大人しくて注目を浴びることを避ける傾向がある生徒だった。いつも、仲の良い――今も隣同士の大庭梓の陰に隠れて、周りの様子を伺っているきらいがある。 尤も、これはオレの偏った見解だが。 だけど、彼女自身は、どうしても目立ってしまっていた。それは――、 「やっぱさ、かわいいよな、吉野」 河東が無謀にもこちらに首だけを向けて、掠れた声で囁いた。 オレも首を縦に振る。 そう。かわいいのだ吉野歌織は。 かわいさには、女優系やモデル系など、様々な種類があると思う。笑うとえくぼが出て、丸顔で少し垂れ目な吉野は間違いなく、アイドル系だった。そうしてそのまま我がクラスのアイドルでもある。 「……はい」 力なく返事をして、吉野は立ち上がった。教師の命令だから――たぶん、そんなところだろう。そういう真面目さも、吉野は持っていた。 未だに伏せたままの顔は、強い緊張に晒されているように見える。 「お前、正直に言えよ」 滝田先生は念を押すように言って、 「最近、誰かと喧嘩したか?」 「え……」 吉野が少しだけ顔を上げ、不安そうに瞳を揺らした。 意味がわからない。 オレも眉をひそめる。滝田先生が、大きな息を吐いた。 「あーそうだな……何か悪ふざけをしてくるやつとかは、いなかったか? 喧嘩をきっかけに、ちょっと悪ふざけをしてくるようになった、そんなやつは、いないか?」 「…………悪、ふざけ……」   吉野の小さくて消え入りそうな声が、しんとした教室に妙に響いた。 「そうだ。悪ふざけだ」 腕を組んで、滝田先生が強く頷く。 教室内は、潮の引いて行くような空気感に包まれていた。 なるほど。滝田先生は、これを生徒同士のおふざけの延長か何かとしたいらしい。ここにいる生徒のほとんどは、こう思っているだろう。 いじめか振られた男の腹いせ――と。 それでも、教師としては、それを認めるわけにはいかないようだ。 まあ、いじめも異性との交遊も、学校側にとっては、マイナスなだけだもんな。 オレは頬杖をついたまま、細く長い息を吐いた。 目だけを動かして、吉野の顔を盗み見る。 と、吉野の隣の席にいる大庭梓と目が合った。 オレから三列離れた大庭は、確かにオレに一瞥をくれると、すぐに顎を引き上げて、滝田先生を見据えた。 オレも滝田先生に焦点を絞る。 滝田先生は、完全に俯いてしまった吉野に近づき、徐に前で止まった。また腕を組む。 「もし、あったのなら、教えてくれないか。そのことが、今回のこの、誹謗中傷文に繋がるかもしれない。みんなの前で言うのが嫌なら、あとでこっそり先生に言いに来るとかでも構わない。大丈夫だ。先生は、お前の味方だぞ」 何が味方だ――これだけ不遜な態度で吉野に接していて、よくそんなことが言えるな。やっぱりこの教師はだめだ。自分のことしか考えていない。まるで吉野にも非があるかのような言い方をして、いじめではないと――それだけはないと――決めつけにかかっているのが、その証拠だ。 オレは口元をひん曲げて、滝田先生の横顔を睨んだ。 「先生」 舌の上でそんな言葉を転がしていたので、最初誰がそう言ったのか分からなかった。もしかしたら自分? そんなことを思っていると、キィ、と椅子を引く音がした。 「そんな高圧的に物をおっしゃらないでください」 凛と通る声――大庭梓だった。 クラスで一番背が高く、一番発育の良い(噂ではFカップ)少女は、背筋を伸ばすと、肩までのワンレングスの髪を軽く指先で払った。 吉野がアイドル系なら、大庭は女優系だ。ちょっとキツめの。インタビューとかに、興味なさげな返し方をするタイプの。 大庭は、つい先ほどオレに向けた挑戦的な眼差しで、滝田先生を見据えていた。 滝田先生の顔は明らかに歪んでいる。 「どういう意味だ。一体いつ先生が、高圧的な言い方なんてした?」 教室は冷たさと一種の熱とに覆われ、妙な感じを醸し出している。 大庭の勇敢さに拍手を送るような熱と、もうとっとと解放してくれ、という冷たさ――今や教室は、このふたつの空気が混じり合って、時の流れを奇妙にしていた。 かくいうオレは、どっちだろう。 ふと、桜絵のほうを見た。 あいつの席は、吉野と同じ列の前から二番目なので、普段は背中しか見えない。今は吉野のほうに体を向け、唇を小刻みに動かせて、眉をひそめている。何か言いたそうだが「今は梓ちゃんの番!」と、自分に言い聞かせているように見えた。 「被害者です」 大庭の朱色の唇が、ゆっくりと五音を紡いだ。ひがいしゃです。目つきはもはや、睨みつけるそれだ。 「完璧な被害者です。彼女は」 同じくらいの速度でそう宣言した。 「そうだ。被害者だ。吉野は」 うむ、と大仰に胸を反らせ、滝田先生も頷く。 「だけど、こんなことをされるなんて、吉野にだって、何か非があるかもしれんだろう。喧嘩は、いつだって両成敗なものだ」 どうあっても、喧嘩発生説を唱えたいらしい。 オレはそっと口を尖らせた。 「どうしてですか? 一方的にされているのかもしれないじゃないですか」   大庭の発言に、滝田先生が目を見張った。そんなものは関係ない、とばかりに大庭がそのあとの言葉を続ける。 「いじめかもしれないじゃないですか」 滝田先生が目を見開いたままで口を半開きにする。大庭が、あまりにもあっさりと、自分が避けていた言葉を口にしたからだろう。大庭の目は、炎を宿しているかのようにぎらついていた。 「大庭、そんなことは軽々しく言うもんじゃ」 「滝田先生」 大庭が滝田先生の言葉を遮って、吉野に一歩近づいた。滝田先生が気圧されたように半歩下がる。 あまりにも真剣な眼差しに、オレも思わず息を呑んでいた。 まっすぐ向けられたその瞳から、目を逸らすことは出来ないように、滝田先生は目元を揺らしている。 「……なんだ?」 何か喉に詰まったかのような声だった。 「今すぐ、持ち物検査をしてください」 大庭がそう宣言したので、滝田先生は目を丸くした。一拍置いて、大庭は口を開いた。 「彼女の……吉野さんの、現代国語の教科書も、今朝から見当たらないのです」 一瞬にして教室はまた騒がしくなった。 そこかしこで、マジ? だの、やだだの、Switch持って来たんだけどなどといった声が交わされ出す。しまいには、吉野っていじめられてたの? え? 犯人、この中にいんの? などと少々飛躍したものが出て来たので、はっとしたように滝田先生が叫んだ。 「いじめなわけがない! でたらめを言うな!」 しかし、全く効果はなかった。ざわめきは最高潮に達し、滝田先生はまだ叫んでいるが、その声は次々に掻き消されていく。 大庭だけが、吉野に寄り添うようにして、この空間から切り離されたみたいに前を見据えていた。その様子を当事者である吉野も不安げに目を上げて見つめている。 オレはポケットの中をまさぐった。目薬が出て来る。そう言えば眠気覚ましに持ってきたんだったな。思い出すとふいにまた欠伸が出た。あとは、ガムか。これも眠気覚ましです、と言えば違反にはならなさそうだ。 吉野には悪いけど、オレは正直ほっとしていた。不意打ちに合うなんて、御免だからな。そう考えて気づく。オレはこの教室の冷たい空気を担っているかも、と。 ざわめく教室に、滝田先生の怒声はなおも飛ぶが、静まる気配はない。 そのうち、隣のクラスから、苦情が来るんじゃなかろうか。そんなことを考えていると、 「しんいちろー」 河東が泣きそうな声を洩らして、こちらを向いた。 「どうしよう……よりによって、秘蔵のパツキンちゃんなのよ、今日」 河東礼二は、オレの知る中でたぶん最もエロい。エロ本は別に常に携帯するもんじゃないと思うのだが、何故だか毎日持ってきている。 どうやら今日の携帯用エロ本は、秘蔵らしい。使い方は至って簡単で、休憩時間や隙間時間を見つけては、鼻の下を伸ばす。我慢出来ない時はトイレに駆けこむ――。 うん。今更だが、こいつ学校に何しにきてんだろうな。 「そんなに大事なら、持ってくんなよ、ンなもん」 オレは吐き捨てるようにそう言ってやった。 河東は相変わらず眉を下げたまま、どうしようどうしようを繰り返している。 はっきり言おう。別にエロ本に興味がないわけじゃないけど、これに関しては本当にどうでもいい。オレはわざと大きな息を吐いた。 「もちろん!」 大庭が一際大きな声を出した。鶴の一声――こういう場合、普段声を荒げない人間の言葉は強い。 案の定、教室はさっきまでの騒々しさが嘘のように、静まった。 大庭の目が少しだけしかめられた。 「クラスメイトの犯行じゃないかもしれません。私も、出来ればクラスのみんななんて疑いたくない。だけど……だからこそ、持ち物検査をしてほしいんです。それで何もなければ、教室外の人物の犯行だと分かりますし……歌織だって、教室にいることは怖くなくなると思うから」 滝田先生にとって、大庭の言葉は何かを宣告されたに等しかったのだろう。口を開こうとして、すぐに閉じた。 やがて真一文字に結ぶと早足で教壇に戻り、教室中を見回し、宣言した。
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