18人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ
夢を覚えている。今朝見た夢を。
いや、夢を見たという言い方は、ちょっと違うかもしれない。なぜならあれは、夢であって夢じゃないから。
そのことを、オレは――ぼくは――嫌と言うほど知っているから。
夢の中には、あの子がいた。あの子を囲んでいるやつらもいた。
その光景を目にしたオレは、瞬時に理解していた。
ああ、これはあの時だ。あの夏の日……初めてあの子が、いじめられているのを見た、あの――。
オレは九歳で、いじめなんてものを目にしたこともなかった。ただ、何度も理不尽に殴られ蹴られ、地面に転がされ、笑われているあの子を見ていた。
見ている内に、自分のはらわたが熱くなりすぎて、体から飛び出すんじゃないかと思った。それが、憎しみという感情から来ていたものだということは、今だから分かることだ。
何にせよ、当時のオレは莫迦みたいに無力だった。だから、こっそりと隠れたまま、とうとう出て行くことはなかった。
やつらの顔は――分からない。三人くらいいたような気がするけれど、これも定かではない。見ていないわけじゃない。あの時、確かにぼくは木陰から覗いていた。ふたつの目は、ばっちりとそいつらの顔を拝んでいたはずなのだ。
それなのに、夢の中のあいつらの顔と言ったら、鉛筆でぐじゃぐじゃに塗り潰されたみたいになっていて、まるでらくがきだった。
あの子を囲む輪から少し離れたところに、ぼくはいた。
大きな木の幹に――ほんとうなら、あの子がここにもたれて本を読んでいるはずの――隠れて、あの子が殴られたり蹴られたりしている様子を黙って見ていた。
ただ見ているだけだ。助けることもなければ、助けを呼びに行くこともしない。まるで、木の一部になったみたいに、じっと息をこらしていた。
あの子の叫ぶ声や、らくがき星人たちの嬌声が聞こえる。耳の奥でずっと響いている。
やめてやめて。
くるなばいきん。
やめてぶたないで。
ばいきんはしね。
やがて、らくがきたちが去ってあの子がひとりになってからも、ぼくはしばらくそこから動けなかった。ただ、耳の奥がじんじんして、胸の奥がずきずきと痛んでいた。
そっと、勇気を出して、足を一歩踏み出した。
だって、今のオレはあの時とは違う。あんなぺらっぺらのやつらなんて、十秒もあれば、がつんとしてやれる。
これが夢なのか、現実なのか。頭のどこかでは、有り得ないと分かっているのだが――もし、やり直すチャンスを誰かが与えてくれた【今】ならば、あの子に声をかけたかったからだ。らくがきどもを蹴散らしてやりたかったからだ。それが、自己満足だということは分かっている。
ちらりと、頭の隅のほうに【卑怯者】と書かれた看板が出現した。オレは頭を振って、看板を倒した。
だが、数歩進んで気が付いた。
目の前に、透き通るような肌のあの子がいるのに。
黒御影石のような瞳で、中空を見つめているのに。
桜貝のような唇が何かを訴えかけるように小さく開いているのに。
栗色の髪が、陽の光を反射してまるでビロードのように輝いているのに――どうやら、ここから先は、行けないらしい。
まるで、オレとあの子との間に、見えない壁でもあるかのようだった。
オレは近づけるぎりぎりまで近付いて、あの子を見つめた。
あの子がゆうらりと立ち上がって、オレを見つめた。オレの背中にじっとりとした嫌な汗が浮かんでくる。見えていないはず、だよな――思うけれど、あの子は確かにオレを見ていた。
あの子の目は、明らかにオレを咎めていた。いることを知っていたと、訴えかけていた。見てるだけで、何もしなかったことを。傍観者という名の加害者になっていたことを。そんなお前が一番最低だと――双眸は語っていた。
玉のような汗が、音も立てず、一直線に背骨を滑り落ちていく。
そこで、目が覚めた。
あの子はまるで亡霊のように、からっぽの瞳でいつまでもオレを――ぼくを――見ていた。そのことを思い出して、パジャマの上から、胸の辺りに拳を押しつけた。
十一月だと言うのに、汗でじっとりと湿っている。心臓が速い。息も上がっている。枕元の時計に目をやった。午前七時十分前。そろそろ起きなければ。今日は日曜日じゃない。二重に引かれたカーテンは、朝日をちっとも通さない。
こりゃあダメだな。朝の太陽光は、莫迦にできない。母さんにひとつ外しておいてもらおう。なんてどうでもいいことを考えて、気持ちを落ち着かせようとするが、無理だった。鮮明に、あの子の顔が浮かんできて、心臓も呼気も落ち着くどころか、荒くなる一方だった。
久しぶりだった。こんなに鮮明にあの子の夢を見るなんて。オレは唇を動かせた。
「……りさ……」
そして、息を吐くと同時に、もう二度と会えない少女の名を呟いた。
最初のコメントを投稿しよう!