希望の言葉

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3年前の確か11月のことだった 小学校の担任だった慶子先生からはがきが届いた いつも慶子先生からはご主人と立山連峰を登られた登山写真の年賀状が届く 慶子先生の古里が立山連峰の近くで子どもの頃から登ったりしていたらしい でも、待てよ まだ年賀状がくるには早すぎる なんだろう そして、写真も京都の東寺をバックに先生が笑っていた 文面を見てぼくは言葉を失う その手紙は慶子先生のご主人からだった 「新年のご挨拶を失礼させて頂きます。 絶対になりたくなんかなかったのに喪中になってしまいました。 去る5月6日午前8時、最愛の妻 慶子が静かに息を引き取りました。 ・・・・・・・・・・・」 ぼくは えっ? な、なんだって? しばらく口がきけなかった だって慶子先生まだ50歳くらいだよ あんなに綺麗で優しくて信頼できた先生はほかにいなかった ぼくが学校に行けなくて、別室登校していたとき、お母さんと交換日記をしてくれていた 当時、それも先生からお母さん、交換日記をやりませんか?と誘ってくれたんだそうだ ぼくのことを色々書いては先生に知らせていた この、ぼくが卒業するまでの2年間もつづいた交換日記もおしまいになることになった 慶子先生からの最後のページにお母さんが号泣していたのを忘れることはできない そこには お母さん、大変お世話になりました。 お母さんとしてはお辛い時期もあったと思いますがお母さんとの交換日記はとても楽しかったです。 お母さんは、いつも明るかった。 悲しいお顔をお見せにならず恭平さんに寄り添い続けていらっしゃいましたね。 私はクラスの中で恭平さんが一番好きでした。 素直で笑顔が素敵で子どもらしいお子さんです。 必ず立派な大人になります。 私が保証しますよ。 今まで私の方が勉強させて頂きました。 ありがとうございました。 どうぞお元気で。 と書いてあった この時、お母さんは慶子先生のこの言葉に明るい一筋の光を見たと言って泣いていた 不安しかなかったお母さんは一生忘れることができなかったと、あとになってぼくに言っていた そんな慶子先生が、亡くなったなんて お母さんはすぐにご主人にお線香に手紙をそえて送っていた そして長い間、泣いていた 数日後、ご主人から菓子折と手紙が届いた そこには先生の生まれ故郷の富山のことから始まり教師という仕事が大好きで一生懸命やっていたことなどが綴られていた そして、運命の日のことも 慶子が、急に夜中に苦しいと言って大学病院の救急に搬送されました 手を尽くしてもらいましたが慶子は戻って来なかった 心房細動が原因だったそうです 教師は例え夫婦であっても守秘義務がありまして、恭平さんの詳しいことは知りませんでした でも、年賀状を毎年頂いて恭平さんのはがきをわたしに見せて この子いい子なのよ 私なんて、先生に年賀状出したことないもん と、話してくれたことがあったのでお名前は承知しておりました 慶子はこれと言って賞を頂いたことはなかったのですがお母さんから頂いたお手紙が何よりの表彰状だと思いましたので声に出して慶子に読み上げさせて頂きました。 私も泣きました 本当にありがとうございました 恭平さんのしあわせを心からお祈り致しております お母さんもお元気で と、書いてあったのを読ませてもらった ぼくは悲しかった だから慶子先生が、東寺で笑っているはがきを机の前に貼った 毎日、先生に優しくして貰ったことを思い出して頑張りますと心の中で言う そして、今日もまた慶子先生に声をかけて、出掛けていくぼくがいる 先生、大学受かりましたよ 先生、就職しましたよ 先生、今度、結婚しますよ おめでとう、頑張りましたね、恭平さん と、言ってくれているのが、聞こえるようです ありがとうございます 慶子先生 でも、もう一度会って大人になったぼくを見て欲しかったです ただただ残念です 慶子先生
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