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「いいよ」
けろりとした声に賢治郎は顔をあげた。
そこには変わらず悠然と笑む知成がいて、幻聴だったのではと息を飲む。
「いや、幻聴ではないよ」
まるで心を読んだかのような言葉に肩が跳ねる。
知成は軽やかに椅子から離れると、賢治郎の腕を引いて立ち上がらせた。
「いやぁ、私の好みをわかってるね。私は人の苦悶と葛藤と土下座が大好物なんだよ。身分が高くて普段人の上にたつような輩が相手な時ほどいい! その点キミは随分と甘やかされたお坊ちゃんのようであるし、土下座をするなんて最初で最後だろうね! 最高だ!」
「は、はは」
ばしばしと肩を叩かれるまま、乾いた笑い声を漏らすしかない。この探偵を紹介してくれた友人が苦い顔をしていた理由がわかったような気がした。
■ ■ ■
「一人暮らしの女性にしては立派な家だね」
「咲子の祖父母はそこそこの商家だったそうで。ご両親も不慮の事故で早逝されましたが倹約家で、遺産と家は遺してくれたのだとか」
「なるほどねぇ」
大きな三角屋根の山手線渋谷駅から、路面電車と人力車に揺られること十数分。2人は渋谷区の住宅地にある咲子の自宅を訪れていた。
知成はしげしげと薄い木戸の向こうにある平屋の一軒家を眺める。
華族の知成にとっては質素すぎるように思える造りの家だが、平民の身寄りのない女性の家としては立派な部類のものだ。
賢治郎の婚約者である新島咲子は、帝都の女子専門学校に通う学生だ。近所でも評判の気立ての良い娘だという。
咲子と賢治郎が出会ったのは5年も前で、丸善で本を取ろうと背伸びしていた彼女を手助けしたのがきっかけなのだと。なんと典型的な事かと生返事を返した。
賢治郎は勝手知ったる手つきで門を開け、玄関扉の鍵を開ける。
「合鍵かい」
「咲子には他に頼れる者がいないので。もしもの時のために、と預かってたのです。もちろん普段もこの鍵の出番がなかったと言えば嘘にはなりますけれど」
がらりと引き戸が開けて「どうぞ」と中へ促す。知成は「私と妻にはそういう時期はなかったなぁ」などとぼやきながら玄関をくぐった。
大の大人が2人も入れば手狭に感じる玄関の向こうには2メートルばかりの廊下がある。左手にある厨と右手にある厠とおぼしき扉を通り過ぎれば、8畳ほどの和室があった。
2枚の座布団を添えた円形のテーブルが中央に居を構え、部屋の片隅に洋酒の瓶を並べた硝子戸の棚がある。一番奥に大きな窓があり、庭に面した縁側になっているようだった。
知成は窓に寄って外を見た。
庭は手狭だが手入れが行き届いている。雑草ひとつない土の上に空の物干し竿が立てられて、木戸の傍には青紫色の紫陽花が一株植わっているのが見えた。
「鬼塚さん」
名前を呼ぶ声に振り返ると賢治郎が引き戸の前で手招きしていた。
「ここが咲子の部屋です」
「入っても?」
頷きが返ってくるのを確認してから、知成は薄い引き戸に手をかけた。
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