絵葉書の内側

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「何故」  呆然とした様子の賢治郎が紡いだのはそんな言葉だった。  知成は微笑んだまま「"外国になどいるはずがない"とは言わないのだね」と返す。  賢治郎は少し言葉に詰まったのちに、 「咲子は異国の地に強い憧れを抱いていましたから。英語が堪能でしたし」  となんとか吐き出す。 「そういえば、英語の本が部屋にあったね。彼女は異国で学問を続けたかったということか」 「そう、でしょうね。結婚して家に入ることよりも、学問を修め働くことに意欲を感じる女性でした。その考えが家の者とは合わなくて反対されていたのですが、俺と一緒になるために諦めてくれたとばかり……」 「諦めきれなかったのだろうね。もしかしたら学校に懇意にしてる先生がいるのかも。……所在を詳しく調べてみようか?」  その申し出に賢治郎は「いいえ」と首を振った。 「咲子にとって俺はその程度だったということなのでしょう。彼女が俺を捨て、夢に生きると言うのなら潔く諦めます」 「……そう」  知成の顔からストンと笑みが消えた。目を見張った賢治郎に、あからさまに不機嫌を隠さないで「たしかにね」と絵葉書を見ながら頷く。 「平穏も安寧も恋人も捨てて異国に飛ぶような無謀で馬鹿な女なんて、早々に見限った方が身のためだろうし」 「そんな言い方は」  声を荒げて肩をつかんでくる賢治郎に「違うのかい?」と唇の端を歪めた。 「お金も家族もない女が異国の地で何が出来る? あそこで待っているのは言語の壁と、文化の溝と、人種の差だ。大人しく窮屈な家に収まってる方がよほど平和だろうとも。……そんなことも解らぬ愚かな女の事なんて忘れてしまったらいい」  賢治郎の顔が悲壮に染まった。眉間に苦し気な皺を刻んで、引き絞るような声で「無理です」と頭を振る。 「俺が愛するのはこれからもずっと咲子だけです。……彼女を忘れる事なんてできない。たとえ、彼女の心がもう俺になくても」 「それなら、”潔く”だなんて取り澄まさないで。捨てられるのは嫌だとみっともなく泣き叫べば良いじゃないか」 「……う、うぅ」  賢治郎の身体はゆるゆると膝から地面に落ちて行き、目の前にある知成の袖口を力なく縋りながら静かに嗚咽を零し始めた。  その手を振り払うでもなく好きなようにさせていた知成は、しばらくしてから薄い笑みを戻した唇で息を吐いた。 「キミたちは考え方も泣き方もそっくりだね」 「は……」 「キミの思う彼女は何も言わずに恋人を捨てて行くような人なのかい?」  知成の問いに賢治郎は首を横に振る。  咲子は品行方正な善き人であったと思う。正義感のままに声をあげる危なっかしい男勝りな所に憧れていたのだ。 「私の考えでは彼女にもキミとの別れは辛いものであったのだと思うよ。本当はちゃんと説明をしなくてはいけない事はわかっていたんだ。けれどもそれはできなかった。面と向かって話せば縋ってしまう気がしたからだ。着いてきて欲しいと」  まるで聞いて来たかのように話す言葉は、驚くほどに賢治郎の中に落ちてきた。咲子ならそうだろうと思うし、そうであって欲しいとも思うからだ。 「彼女と違って君には家がある。捨てさせるわけにはいかない。けれども夢は諦められない。だから居なくなることは伝えなければいけない」  そう言って知成は賢治郎に絵葉書を握らせた。 「だから彼女は絵葉書を作った。気づいてもらえるかはわからない想いを込めた絵葉書だよ」  はっとして絵葉書を凝視した。  直接別れを伝えないだけなら、手紙だけでも良かったのだ。  ”夢を追うから分かれて欲しい。”  そんな風に書けば、悲しみながらも納得しただろうし、すぐに諦めただろう。  咲子は追いかけて来て欲しいのかもしれない。  そう思い至った時、なんて都合のいい解釈だと思いながらも、目の前に光明が見えたような気がした。 「鬼塚さんはどうしてそう思ったんです?」  同時に、咲子を良く知らないはずの彼がどうしてここまで言い切れるのだろうと思って尋ねると、 「それは私が名探偵だからさ」  とやはり要領を得ない答えを返した後「って言いたい所なんだけどね」と肩をすくめて、絵葉書に焦げ付いた歪な斑紋を指す。 「これはあぶり出しで出た模様だけど、ここからは蜜柑の匂いはしないんだ」  そうして囁くように告げる。 「あぶり出しは涙でもできるんだよ」
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