究極の愛とツナマヨサンド

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究極の愛とツナマヨサンド

 翌日の午前中、私は駅の南側にある古本屋に入り浸っていた。タイムスリップとか、超科学現象についての本を探す為だった。それでも参考になるものは見当たらず、帰ろうと思ったところで見覚えのある人物に目がいった。 「ハギちゃん」  私は古本屋の中で彼女に声をかけた。ロングヘアーの女性が振り返る。やっぱり、ハギちゃんだ。小学生の時から知っているから、後ろ姿でもすぐにわかる。サラサラの黒髪も、あの時から変わらない。 「かの子、久しぶりじゃない」  ハギちゃんは開いていた本をパタリと閉じると、棚に戻し、右の髪の毛を耳にかけて少し控えめに笑った。  彼女は我が家のサンドイッチを、何度食べに来てくれたかわからない。親同士も顔見知りだし、自転車でお互いの家を行き来することが昔はしょっちゅうだった。  中学から別の学校になり、それでも頻繁に顔を合わせるようにはしていたが、社会人になってから会う頻度が急激に変わった。会えない、という感覚よりも人と会うことを日々の忙しさの中に置いてきてしまったという表現の方が正しいのかもしれない。付き合いの長さに甘えていたといっても間違いではないだろう。それでも、髪を切る時は必ずハギちゃんのお店に通った。髪を切ったり染めたり、少し気合いを入れる時に訪れることでハギちゃんと会う口実ができたのだ。最後に会ったのは昨年の冬にパーマを当ててもらった時だ。近くに住んでいるのに表参道で会うのは、いつも不思議な気分だった。  目の前のハギちゃんは、最後に会った時に比べ、驚くくらい痩せている。 「かの子、仕事は?今日休みなの?」 「うん、ちょっといろいろあって。ハギちゃんこそ、休み?」  ああ、と言ってハギちゃんは古本屋の外を指差し、にこりと笑った。 「かの子にもいろいろあるのね。さっき、実はかの子の家でサンドイッチを買ったんだ。時間があったら、三鷹の方まで散歩しない?一緒に食べようよ」  薄桃色の唇の向こうに、白くて小さな歯が覗いた。ハギちゃんは、カゴのバッグを片手に持っていて、それを少し持ち上げて見せた。中には「正夢」の茶色い髪袋が入っている。ハギちゃん、うちに立ち寄っていたのか。  散歩というワードが、実にハギちゃんらしいと思った。小学生の時からそうなのだが、彼女といると、時計の存在を忘れてしまう。今だって、白くて透き通るようなハギちゃんの肌を見ているだけで、時間の流れなんかどうでもよくなってしまう。この子はいつまで経っても不思議な子だ。  私たちは古本屋を出て、井ノ頭公園を通って玉川上水を挟む横断歩道へ出た。公園を背にして玉川上水の右側を御殿山通り、左側を「風の散歩道」がまっすぐ前方に向かって伸びている。目の前の吉祥寺通りは車がやや多い。左手に歩いていくと国民的に有名なアニメーションの美術館があり、チケットを持った人々が多く訪れるスポットになっていた。私たちは横断歩道を渡ると、静かな玉川上水の左側、風の散歩道を歩いていった。左手に並ぶのは住宅がほとんどだ。右側には、井の頭公園の中の動物園である井の頭自然文化園の敷地がある。  ハギちゃんは牛乳をこぼしたみたいなミルク色のリネン生地の長袖ワンピースを着ていた。飾り気のない生地だけが、身を纏う。元から細身ではあったけれど、体もかなり痩せてしまった気がする。そういえば、化粧も薄くなった。  ハギちゃんと私は大した会話もせず、玉川上水がおとなしく流れる緑道を、ひたすら歩いていった。気持ち良い程に生い茂る木々が、足元に影をつくる。  しばらくするとハギちゃんは私の頭部に目をやり、少し困ったような顔で訪ねてきた。 「かの子、そろそろ髪切る頃でしょ」 「うん、そろそろ連絡しようかなと思ってた」 「ごめん、実はね、仕事、辞めちゃったんだ」  仕事を、辞めた?一瞬自分の口から出た言葉だと耳を疑ったが、その言葉はハギちゃんの口から出た台詞だったらしい。 「え、美容師の仕事ってこと?」 「うん。もうね、人の髪に触ることはできないの」  どういうことだ。意味がわからず、私は「は?」という一文字をひたすら繰り返していた。すっとんきょうな反応を私が繰り返しても、ハギちゃんはいたって冷静だ。高校を卒業した後、専門学校で国家資格を取って、夢を叶えたハギちゃんが、何故仕事を辞めなければいけないのか。 「結婚するの?寿退社?」 「うーん。そうじゃないのよ。まだ結婚はしない」  ハギちゃんは長い黒髪をするっと風にさらし、振り返った。透き通るように白い肌は昔のまま変わらない。化粧だけが以前より薄く、なんだか彼女の存在自体が玉川上水を囲む緑に透けて、溶けてしまいそうだった。三十路近くにもなれば、人それぞれ事情がある。肝心なことは話してくれなそうなので、私はこれ以上聞くのをやめてしまった。  再び無言になり歩き出すと、ハギちゃんは「この道を曲がると太宰治の文学サロンがあるから行ってみない?」と声をかけてきた。そういえば、三鷹駅から吉祥寺にかけての南側のエリアは文豪地区と呼ばれ、太宰治ゆかりの地で有名だった。近所に住んでいるにもかかわらず、こういった地を巡ったことが私には無かったのだった。  文学サロンは、三鷹市下連雀にあり、駅からもアクセスよい細い路地の一角にあった。建物はこじんまりとしていて、私はこの中で時間を潰すには限られているだろうなと失礼ながらも思ってしまった。ハギちゃんも、実はここへ来るのは初めてだという。  館内には太宰の手書き原稿のレプリカや彼の生涯を説明した年表、彼の愛した三鷹ゆかりの地を示した地図等が、壁やプラケースに隙間なく展示されていた。大した時間は過ごせないと思っていた私は、気がつけば手を後ろで組んで、じっくりと展示物に見入っていた。 「太宰治って、意外といい男よね」  ハギちゃんの声に振り返ると、彼女はある一枚の写真の前で立ち止まっていた。  私は「あっ」と声を出した。  この写真に映っているのは、私の父親を名乗っている麦ノ助だったからだ。カウンターの椅子に腰掛け、両手で抱えたサンドイッチを夢中で食べる姿が、そこにあった。 「どうしたの?」  ハギちゃんが私の声に反応し、少し眉毛を上げてきょとんとしている。 次の瞬間、「あれ?」と私は目をこすった。写真に、麦ノ助の顔なんて映っていなかったのだ。  その写真には、太宰治が映っていた。背の高いバーカウンターの椅子に腰掛け、体育座りのような格好で、もう一つの椅子に靴を履いたままの両足を乗せている。どこかのバーで飲んでいる時の写真だろうか。白いシャツにベストを着た太宰の顔は酒に心地よく酔い、リラックスしているかのように柔らかい。私の中の太宰治はひたすらに暗くて、笑顔のイメージなんてこれっぽっちも無かったのに、不思議な気持ちだった。  それにしても、なぜ麦ノ助の姿とかぶったのだろう。幼き時に見た麦ノ助の写真が、この写真と似ている構図だったのかもしれない。確かあの写真も、被写体が椅子に腰掛け、写真の右側に配置されるカウンターテーブルに向かいあう姿を、遠くから撮ったものだった。顔は似ていないはずなのに、やつれた頬から生み出される物憂いな雰囲気には既視感がある。 「この写真は、太宰が愛した銀座のバーで撮られたものですよ」  声をした方に目を向けると、首から名刺をぶら下げた係員らしき男性が声をかけてきた。七十は超えているだろうか、醸し出す落ち着いた雰囲気から、ここの重役だろうと私は思った。
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