懐かしさを求めて

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懐かしさを求めて

蒸し暑い夏の夜、笛や太鼓の音が聞こえた。客の呼び込みをする屋台の人たちの声が重なり、少し耳を塞ぎたくなる。  私の左手は誰かの手に繋がれていて、人混みをすり抜けるように速足で歩いていた。その誰かの手は、少しゴツゴツして、私を決して離さないような力強さを感じる。体温のない、冷たい手だ。水色の箱いっぱいにぷかぷか浮かぶ、色とりどりの水風船が目の前に広がる。数秒立ち止まったが、視界が左右に揺れ、すぐにまた人混みを歩いた。  今度は目の前に、金魚が泳ぐプールのような箱があった。赤と黒の金魚たちが精いっぱいヒレを動かして泳いでいる。その箱の前で、男がしゃがみ込んでこちらを見ていた。プールの中で立っていた男だ。顔の部分だけ、溶かされたみたいに白く光っていて見ることができない。男は私の右手を握り、立ち上がった。その瞬間、左の手に感じていた体温のない手は離れていった。男は、金魚の入った透明な袋を私に持たせ、右手を繋いだまま歩き出した。今度は温かい手だった。 今度はあの夏祭りの夢を見た。  私は、二階の部屋で、再び眠りについていたのだ。目を覚ますと、カーテンの向こうはあっという間に暗くなっていた。  私は流れっぱなしのラジオの音量を小さくして、キッチンのすりガラスの窓を、顔を一つ出せるくらいだけ開けた。  ラジオからは「父はつらいよ川柳」のコーナーを進行する、ラジオパーソナリティの声が聞こえる。声質から、何となくだが油が額に乗った、酒をよく飲みそうな中年男性が思い浮かんだ。 「これは僕の年齢からすると辛い内容ですね。痛いほどわかりますよ。あんなに可愛かった娘に、お父さん臭いなんて言われてみてくださいよ。悔しいから余計にスキンシップしたいんだけど、そういうのはキモいって言われちゃうんです。親父はつらいね。くぅ。おっと、では、ここでCMです」  車の買い取りのコマーシャル音声が流れる中、私は電球の周りを浮遊する埃を見ながら「ち、ち、お、や」と声を出さずに口を動かしてみた。 お、や、じ。 お、と、う、さ、ん。 パ、パ。  父親の愛称と呼ばれるものを、周りの子から聞いて覚え、今までにも何度も口に出してみた。その度に唇と唇の間を乾いた空気がすり抜けて、何も収穫のないまま、すとんと床に落ちていった。  私には、父親がいない。彼について知っているのは、名前と、死んだときの年齢と、事故現場の状況くらいだ。他にも、身長が何センチだったとか、どんな食べ物が好きだったとか、家族に尋ねれば知り得る情報はこれまでに多くあった。しかし、それは他人の目から見た一人の「人間」の情報であり、私に触れ、接してくれる生身の「父親」である彼を知る機会は無い。  外側から見た当時のイメージのみで固められた父親は、私からすれば鉄腕アトムのような、アニメーションや漫画の中で死ぬことなく生き続ける英雄キャラクターのようだった。生きている姿を見たことが無いから、死んだことの実感すらも無い。それに、我が家には父の写真が一枚も無い。いや、恐らく母が持っている一枚だけだ。  幼少期は母にお願いすると、見せてくれる父の写真が一枚だけあった。覚えている限りでは、このサンドイッチハウス「正夢」の一階のカウンター席で、紙に包んだサンドイッチを頬張っている姿を撮った写真だった。ピントが合っておらず被写体がぼやけていて、何度見ても顔が覚えられないうちに、母はだんだんと私に写真を見せなくなった。私も何故か、成長するにつれ、母に写真を見せてとせがむことが無くなった。会ったことも無く、抱きしめられたこともなく、今後二度と会わない人物に対して、興味が沸かなくなったのかもしれない。  ベージュのパンツに上のグレーのTシャツの裾をしまっていて、現在だったら「パンツにインしている」と若い子に鼻で笑われそうな服装で写っていたことは覚えている。目線はカメラの方を向いておらず、目の前のサンドイッチに夢中で下を向いていた気がする。  私はさっき流れたラジオを聞いたことでハッと思い出したように、鞄から手帳を手にとり、中に挟んであるものを取り出した。  手帳に挟んであるものは昭和六十三年に発行された新聞記事を切り抜いたものだった。日付は、クリスマスを終えて世間が年越しムードを迎える、十二月二十六日。紙がよれよれにならないように、私はそれをラミネート加工で保護して固めていた。黄色く変色した、その新聞記事は、関係のない人にとっては目にも止まらないくらいの存在感だった。四方十センチ程度の小さな枠の中に印字された文字を、私はこれまで、父親を写す鏡でも覗くように何百回も、何千回も読んだ。 ──乗用車に跳ねられ男性死亡、母子は守られ助かる── 記事の続きにはこうあった。 《二十五日午後十二時五十分頃、武蔵野市吉祥寺本町一丁目の交差点で、乗用車一台が横断歩道に突っ込む事故が発生した。この事故で、男性一人が病院に運ばれたがまもなく死亡した。亡くなったのは同市に住む草野麦ノ助さん(二十九)。事故に巻き込まれた市内の女性(三十四)とその息子の男児(五才)も軽症を負い、病院で手当てを受けた。警視庁の調べによると、乗用車を運転していたのは無職の田中義一容疑者(七十八)で、男性を跳ねた後、車両が大型商業施設の一階部分に衝突して意識不明の重体。商業施設周辺では、巻き込まれた人はいなかった。目撃者の証言によれば、「当時横断歩道は青信号で、母子二人だけが渡り終えていない状態だった。高齢者の運転する車が商店街の方面から物凄いスピードで走ってくるのが見え、既に渡り終えていた若い男性が横断歩道に駆け込み、母子二人の前に滑り込んだ」という。現場にブレーキ痕は無く、現在も警視庁が原因を調べている。》  静かに読み終え、新聞記事を再び挟むと私はそっと手帳を閉じた。この記事は家の中で見つけたものではないし、事故のことは検索しても、当時普及していなかったインターネットでは出てこない。  幼少期から父の死の瞬間にはなるべく触れないように、家族からふんわりと遠ざけられていることに私は気が付いていた。  この事実に触れることができたのは小学校五年生の時で、都内の新聞社を社会科見学で訪れた日だった。編集局を見学して回り、印刷工場で巨大な輪転機を目にしてツアーを終えた後、児童たちは過去の新聞紙が収められている倉庫に集められ、新聞社の人にこう言われた。「自分が産まれた日の新聞紙をプレゼントします。持ち帰ってその日の出来事をおうちの人と読んでみよう」  クラスのみんなは、自分の生まれた日付を一生懸命に探し、ランドセルに押し込んでいた。  クリスマスに父が死んだことは、祖父と祖母の会話を聞いたことで知っていた。私は担任の先生の目を盗んで、その隣の昭和六十三年、十二月の棚を必死で背伸びして覗き、クリスマス翌日の新聞紙を抜き取った。そしてこの記事をたった一人、部屋で読み、ハサミで切り抜き、ラミネート加工をして誰にも見せることのない宝物にしたのだ。  なぜ宝物なのか?父を思い出して泣く為でもなく、父の死を乗り越えて自分は強く生きていこうというお守りにする為でも無い。何となく捨てられずにいただけだった。 「いやー、疲れた、疲れた」  階段を上がってくる母の声が聞こえ、私は何となく慌てて手帳をスーツケースにしまった。 「お疲れ様。コーヒーでも入れようか」  声をかけると母は手をひらひらと振り、「ほら私コーヒー飲むと眠くなるから」と言って冷蔵庫からちゃっかりと缶ビールを出していた。 「かの子は、今日も寝るだけの一日だったのね。全く、昨日いきなり帰ってきて、何も話さずに寝るからびっくりしたわよ。どういうつもりなの?あんた、仕事はどうしたのよ。説明してちょうだい」  缶ビールをぷしゅっと開けて、思い出したように母は顔を上げた。  私は仕事の事も、恋愛の事も、聞かれたくなかった。何となく、母のことを避けたい衝動に駆られる。気が付けば、私はニックさんの方に懐いていたのかもしれない。 「だから最初からうちで働けばよかったのよ。サンドイッチ屋で働くなんて嫌だ、つまらないって、自分で決めて、企業に就職したんだからしっかりしなさい。まさか、このまま入り浸るつもりじゃないでしょうね。今のところ従業員は足りてるのよ」  そんなことは、わかってる。わかっていることを言われると、だんだんと鬱陶しくなってきてしまう。  私は、「今度話す」とだけ言って、一階の厨房に繋がる階段をパタパタと降りて行った。カフェに顔を出すと、カウンター席の向こうから「おー、起きたか」とニックさんが笑顔を見せた。閉店後の為、店内の灯りは最小限に抑えてあり、カウンター席の頭上にぶらさがる昭和風のモザイクランプが鮮やかに色を放っていた。
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