鈴蘭

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別に彼女とどうこうなりたい訳ではなかった。 きっと、兄の為に笑っている彼女だから俺は恋に落ちたのだ。 そういえば、と兄の魂の色を思い出す。彼は他の人とは違う不思議な色をしていた。あれは特別な色。特別な魂を持つ人だから、才能と鈴蘭さんに愛されたんだ。 「…俺の魂は、白色」 いや、ある意味魂の色を見られるなんて一つの才能でもある気がする。鏡に映る自身の心臓辺りで、ぽわぽわと丸い靄が見える。 白色だなんて、純白のようだ。俺はそんな穢れなき高尚な人間ではないと鏡に向かって嘲笑う。 やがて腕時計を見やり、時間が来た事を知る。鏡の中の自分を一睨みしてから洗面所から足早に出た。 「一間さん、本当に行ってしまうのね」 大荷物を抱え、玄関に向かえばそこには鈴蘭さんが立っていた。そんな俺を、眉を下げて見つめてくる彼女。嗚呼、そんな顔をしないでくれ。 「ええ、俺も兄を見習おうかと」 つい昨日、海外に行く事を決めた。だからこれは、彼女との別れの挨拶としての来訪だ。 何故海外か。理由は至って単純明快な──兄のようになりたいというものだった。 そしてもう一つ、彼女から離れねばいつかこの気持ちに閉じた蓋が開いてしまいそうだったからだ。 彼女も、今はもう会えない程遠くにいる兄も悲しませたくなかった。 「…そう。健さんもきっと喜んでるわ。一間さんは本当に優しい心を持っているから外国でもすぐ上手くいくわね」 「優しい…?俺が…?」 「ええ、一間さんは優しいわ」 うっそりと微笑む彼女の笑顔には相変わらず、嘘がない。 「そうですか。有難うございます。どうからお体には気を付けて」 「ええ、一間さんも。どうか旅路に幸あらん事を」 そうして、俺はいつのも笑みを貼り付けてこの家を後にした。去り際に見えた彼女の顔は、やはりどこまでも甘く、優しく、哀しいものだった。此方の心が蕩けてしまいそうな程に。 きっともうこの敷居を跨ぐ事は一生ないだろう。この家での記憶は、遠い思い出に変わるのだ。けれど、俺は振り返らなかった。 「…優しいんじゃないですよ。俺は、ただ弱いだけなんです」 玄関を閉めた瞬間、彼女の纏う鈴蘭の香りが鼻腔をついた気がした。
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