ちんちくりんな、私でも

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「あ、あの……どうぞ。水道水ですが」 「ん」  キッチンから戻って戸惑いながら水の入ったコップを手渡すと、伊奈さんは息つく間もなくそれを一気に飲み干した。喉乾いてたんだなぁ、なんて悠長にその様子を眺めていたけれど、彼は空になったコップをテーブルに置くやいなや、私の手首を強く掴んで引き寄せた。 「ひゃあっ! び、びっくりしたっ……」 「……なあ。お前、なんか俺に言わなきゃいけないことがあるんじゃないか?」  いきなり引き寄せられたことで、私の体はなんの抵抗もなく伊奈さんの腕の中にすっぽりと閉じ込められてしまった。  あぐらをかいた彼の膝の上に座るような格好になって、すぐ近くからはいつもより少し低い彼の声が聞こえる。 「い、いわなきゃ、いけないこと……っ?」 「あるだろ。もうバレてるぞ、話せ」  ──もうバレてる。  そう言われて思い当たる事柄なんて、加茂さんのこと以外考えられなかった。  思わず顔を上げてしまったけれど、喉まで出かかった「なんで知ってるんですか!?」という言葉はすんでのところで飲み込んだ。でも、その代わりの言葉はすぐには浮かんでこなくて、眉間に皺を寄せている伊奈さんの顔をじっと見つめることしかできない。 「……ほう。意外と口堅いんだな、お前」 「な……なんの、ことですかね……?」 「頑張ってとぼけてるところ悪いが、もう萌子に全部聞いた。妙な脅しをかけられたらしいが、それも気にしなくていい」 「えっ!?」  驚いて大声をあげる私に、伊奈さんは困ったような顔でふっと笑った。  それから、私の顔にかかった前髪を優しく払いながら説明をしてくれる。 「仕事終わってスマホ見たら、萌子から山ほど着信があってな。それでかけ直したら、家にあいつが来てお前にケンカ吹っかけてったって聞いた」 「なっ……、萌子ちゃん、言っちゃダメって言ったのに……!」 「萌子いわく、『何か脅してったけど、別に周にぃには多少迷惑かかってもいいかなーと思って』だとよ。本当、薄情な妹だよな」  そう言いながらも、伊奈さんはどこか嬉しそうに指の腹で私の頬を撫でた。くすぐったくて身を捩ったけれど、彼は構わずにそのまま話を続ける。 「明日、呼び出されてるんだろ? 俺も一緒に行く」 「え……で、でも」 「愛華が何の目的で家に来たのかは知らねぇが、これは俺の問題だからな。大方、昔の恨みつらみでも言いに来たんだろうが……まさかお前まで巻き込むとは思わなかった。悪い」  つい先ほどまで真面目な顔をしていたのに、なぜか伊奈さんは打って変わって優しげな表情で私を見下ろしている。  その優しい視線は私の大好きなものなのに、伊奈さんがあの人の名前を呼んだ瞬間、胸が押しつぶされそうなほどの悲しみに襲われた。 「お前のことだから、またバカみたいに悩んでるんじゃないかと思って来てみたが……正解だったみたいだな」  苦笑交じりにそう言ってから、伊奈さんはその大きな手のひらで私の背をぽんぽんと叩いてくれる。そんな仕草だけでも、彼がどれだけ私のことを想っていてくれるのかが手に取るように分かった。  でも、いくら頭ではそう理解していても、胸の中で燻りはじめた醜い感情はどうしても晴れてくれない。 「おい、どうした? 泣きそうな顔して」  心配そうな彼の声に、はっとして顔を上げる。  なんでもないです、と笑って取り繕おうとしたけれど、私にそんな高度な芸当ができるはずもなかった。声を出したら涙まで出てきそうで、私は口元を震わせながらじっと伊奈さんの目を見つめる。 「なんだ、他にも愛華に何か言われたのか? 気にするなよ、あいつは昔から口悪いからな」 「あ……、そ、の……」 「ん? どうした」  普段より幾分か穏やかな彼の声に促されるように、私はそっと口を開く。  こんなことを言っても、きっと伊奈さんは呆れるか、バカだと笑い飛ばすかのどちらかだろう。それでも言わずにはいられなくて、震える声を絞り出す。 「な……なまえ」 「あ? 名前?」  訝しげなその声に一瞬ためらうも、紡ぎ出した言葉はもう止められなかった。  向かい合った彼の瞳をまっすぐ見つめて、すがるように彼に伝える。 「なまえ……、あ、あの人の名前、呼ばないで」
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