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【好きだよ、と】
途切れ途切れに聞こえてきたその言葉は、なんとも幼稚で馬鹿らしい願いだった。
でも、目の前のこいつがあんまり辛そうにそう言うものだから、俺は笑い飛ばすこともできずに穴が開きそうなほどその瞳を見つめる。
あの人の名前を呼ばないで、なんて。
以前までの俺なら面倒くさいと辟易しそうなそのわがままも、今はただただいじらしく思えて仕方なかった。
「……なんだ。一丁前に嫉妬か?」
「い、一丁前って……っ! だ、だって私、絶対加茂さんに勝てないもん! あんな美人に出てこられちゃったら、手も足も出ないじゃないですかっ!」
「何の勝負してんだよ。なんだ、それでさっきからべそかいてたのか」
「べ、べそかいてなんかいませんっ!」
俺の腕の中で泣きながら怒る桜は、どうやら突然現れた元恋人によってえらく心をかき乱されていたらしい。
まだぐずぐずと泣き喚いているその唇に無理やり口づけて、自然と口角が上がってしまうのを隠す。ちゅ、ちゅ、とわざと音を立ててやりながら、喜びにも似た感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
「ん、はぁっ……、い、いなさん、今キスしないでっ……」
「別にいいだろ。それより、愛華に何言われたんだよ。俺も萌子にそこまで詳しく聞いてないからな、話せ」
鼻先が触れそうなくらい間近まで詰め寄ると、桜はまた悲しそうに眉を下げた。どうやら、俺が「愛華」と親しげに名前を呼ぶのがよっぽど嫌らしい。
込み上げてくる笑いを堪えながら返事を待っていると、しばらくしてから消え入りそうなかぼそい声が聞こえてきた。
「わ……私が、伊奈さんと釣り合ってない、って……私みたいなのと付き合うなんて、彼は血迷ったんじゃないの、って」
「……へえ。それから?」
「っ……、そ、それから、背は低いし華が無いし、ち、ちんちくりんな女だって……っ」
今にも泣き出しそうな顔をしている桜には悪いが、思わず吹き出しそうになってしまう。見当違いな文句を投げつけた愛華も可笑しいが、それを間に受けてしまうこいつもこいつだ。
「それで、お前は何も言い返さなかったのか?」
「い、言い返しましたよっ! ちんちくりんかもしれないけど、伊奈さんは私を選んでくれたんだし、伊奈さんは絶対誰にも渡さないって!」
「……俺のいないところで何言ってんだ、お前は」
「でも……っ、でも、やっぱり、加茂さんの言ってることは正しいんじゃないか、って……伊奈さんは、どうして私なんかと付き合ってくれてるんだろ、って考え出したら、止まらなくてっ……!」
そこで言葉を切って、桜は悔しげに唇を噛んだ。血色の良い桃色が白に変わって、それが何だかもったいなくて再びくちづけると、今度は大人しくそれを受け入れてくれる。
その柔らかく温かな感触からしばらく離れられずにいたが、少しすると息苦しくなったのか桜がどんどんと俺の背を叩いた。
「はあっ……! い、伊奈さん、長いっ……!」
「好きなくせに」
「それ、はっ……」
顔を真っ赤にした桜が、何か言いたげな表情のまま俺の胸にこてんと顔を寄せた。こんな風に甘えてくるのは珍しいな、とは思いながらも、黙ってその頭を撫でてやる。
すると、俺の胸から顔を上げないまま、ぼそぼそと不満げな声が聞こえてきた。
「……伊奈さんは、どうなんですか」
「あ?」
「伊奈さんは、私のことどう思ってるんですか? どうして、こんなちんちくりんと一緒にいてくれるんですか」
「どうしてって……改めて言う必要ねぇだろ」
「必要ありますっ! だって、だって私、一度も伊奈さんに好きって言われてないっ……!」
それだけ叫ぶと、桜は俺の胸にぐいぐいと顔を押し付けて本格的に泣き出してしまった。
その言葉と勢いに呆気にとられていると、みるみるうちに俺の着ているワイシャツの胸元が涙で濡れていく。こいつの泣き顔は今まで何度も見てきたけれど、ここまで泣かせてしまったのは初めてのことだった。
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