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あなたには、私が
「……で? これは一体、どういうことかしら?」
正面に座る加茂さんの威圧的な態度に、私はますます体を縮ませる。
家を出てこのカフェに着くまでの間、「今日一日が平穏無事に終わりますように」と祈ってきたはずなのに、彼女の様子を見る限りどうやらその祈りは通じなかったようだ。
「あのなぁ、それはこっちの台詞だろ。一体何の用だ」
そんな彼女に対しても、ちっとも臆さず言い返してしまえるのが伊奈さんだ。この場には私一人で来いと言われたはずだけど、結局こうして伊奈さんを連れてきてしまった。
そういえば、伊奈さんに話を漏らしたら取引をやめるとか言っていた気がするけれど、その点に関しては本当に大丈夫なのだろうか。
「俺ん家まで来たくらいなんだ、よっぽどの理由があるんだろうな? しかも、こいつ相手にしょうもない脅しまで使って……うちの会社との取引が無くなったら困るのは、そっちの方だろ」
「えっ!? そ、そうなんですか……?」
「ああ。まあ、桜程度なら簡単に騙せただろうけどな。お前、そのうち怪しい壺とか売りつけられないように気を付けろよ」
「うっ……は、はい……」
なぜか忠告されてしまったけれど、伊奈さんは優しげに微笑んでいる。理由はよく分からないが、今日は朝からこんな調子で上機嫌なのだ。
そんな私たちのやり取りを苦々しい顔で見つめている加茂さんに気付いて、慌てて彼女の方に向き直る。伊奈さんの言う通り、数年前に別れた恋人の家にまでやってきたのだからそれなりの訳があったのだろう。
「で? 今さら、俺に何の用があったんだよ」
伊奈さんもまた加茂さんの方に向き直って、やや低い声で問い詰める。
加茂さんは一瞬躊躇うような素振りを見せたけれど、すぐにまたキッとこちらを鋭い視線で見つめて口を開いた。
「あのね。私、結婚することになったの」
「…………は?」
伊奈さんと私の声が揃った。
加茂さんのその言葉はあまりにも予想外で、私たちはぽかんと口を開けたままその続きを待つ。
「今お付き合いしている彼から、先日正式にプロポーズを受けたの。それで、半年後には入籍して式も挙げる予定よ」
「いや、待て待て待て。それはめでたいと思うが……それを、わざわざ報告しに来たのか? 俺の家まで来て?」
「わ、悪い!? 律儀だと褒めてほしいくらいだわっ」
きゃんきゃんと言葉を返す加茂さんの様子を見る限り、その言葉は本当のようだ。
私も伊奈さんもまだ信じられずに固まっていると、彼女はばつが悪そうにぶつぶつと話し始める。
「……三年前に別れてから、最初のうちは周一郎さんを恨んでたわ。私の前ではずっと演技をしていたってこともショックだったし、それなのにあんな風に別れを切り出されたんだから」
「あー、それは……」
加茂さんの言葉を受けて、今度は伊奈さんがばつが悪そうにがりがりと頭を掻いた。それに加えて、叱られるのを恐れた小さい子のようにちらちらと私の顔を窺っている。
そんな彼の様子と加茂さんの言葉から推測すると、どうやら伊奈さんは猫をかぶったあの姿のまま、加茂さんとお付き合いをしていたらしい。
「伊奈さん、そんなに前から人を騙してたんですね……」
「おい、ちょっと待て。そんな軽蔑した目で見るな」
「あら、もしかしてあなたも騙されてたのかしら? ひどいわよね、化けの皮を剥いだらこんなガサツで口の悪い人が出てくるんだもの」
加茂さんに同調してうんうんと大きく頷くと、隣に座っている伊奈さんがじろりと横目で私を睨んだ。そんな顔をされたって、私も最初は彼にすっかり騙されてしまっていたのは事実なのだ。今でこそあの時の出会いに感謝しているけれど、彼とこんな関係にならなければ忘れたくなるくらい嫌な思い出になっていたことだろう。
「でも、あの時の私はそんなことにも気付けないくらい周一郎さんに惚れこんでたわ。だから早く結婚したくて、何度もせがんでようやく彼の家に呼んでもらったの。……まあ、そのせいで散々な目に遭ったんだけれど」
「え? 散々な目って……」
確か萌子ちゃんの話では、三年前に加茂さんが伊奈さんの家に来たあとに二人は別れてしまったのだと言っていた。そのせいで伊奈さんは珍しく落ち込んでいたと言っていたし、萌子ちゃんの加茂さんに対するあの態度を見る限り、散々な目に遭ったのは伊奈さんの方だと思っていたのだが、一体どういうことだろう。
「まず、家に着いて驚いたわ。『実家は三代続く老舗です』なんて言っていたからてっきり高級料亭か何かだと思っていたのに、あんな古臭い八百屋なんだもの! 映画のセットか何かかと思ったわ!」
「……嘘はついてないぞ。ひいじいちゃんの代からやってるからな」
「そんなの屁理屈よっ! 事前にいくら問いただしても話を濁すからおかしいとは思ったけれど、その日のためにわざわざ新しい着物をおろしていった私がバカみたいじゃない!」
当時のことが思い出されたのか、加茂さんは人目も憚らず伊奈さんに向かって怒りをぶつけている。
まあ確かに、私も出会ったばかりの伊奈さんに「実家は三代続く老舗で……」なんて言われていたら、彼女のようにお高い料亭か和菓子屋さんなんかを想像していたと思う。曖昧な言い方をした伊奈さんにも非があるのではないかと思ってしまった。
「ご家族は私を丁寧にもてなしてくれたんだろうけど、衝撃が大きすぎて覚えてないわ。ただ、あの家に嫁ぐなんてとてもじゃないけど考えられなかった」
「……まあ、そうだろうな」
「そんな私の態度を、妹さんは察していたんでしょうね。あの家にお邪魔していたのはたった数時間なのに、見るからに私を嫌がってたもの」
「ああ、それで萌子ちゃん怒ってたのかぁ……」
きっと萌子ちゃんには、加茂さんがあの家に良い印象を抱いていないことが分かってしまったのだろう。自分の家をそんな風に思われたら誰だっていい気分はしないだろうし、ましてや大切なお兄さんのお嫁さんになるかもしれない人が相手ならばなおさらだ。
「でも、一番の問題はその後よ。彼の家を出てから、私はショックのあまり周一郎さんを問いつめたの。一体どういうことかって。他にも隠していることがあるんじゃないか、って……でも、彼は謝るばかりで何も答えようとはしなかった。それでまた腹が立って、つい……」
「つい……?」
「……あんなあばら家に住んでる人の気が知れない、あなたもその家族も信じられない、って……思わず言ってしまって」
とても言い辛そうに、俯きながら加茂さんが呟いた。そんな彼女を、伊奈さんは眉間に皺を寄せてただじっと見つめているだけだ。
私もさすがに口を挟むことはできなくて、加茂さんがもう一度顔を上げて話し始めてくれるのを待った。
「私がそう言った瞬間、周一郎さんに叩かれたの。そこまで強くはなかったけど、頬を平手打ちよ」
「え……」
「しかも今まで見たこともないくらい怖い顔で、『二度とこの家に来るな』って怒鳴られて……あんな経験、後にも先にもあれっきりだわ」
「そう、だったんですね……」
「そこで初めて気付いたのよ。周一郎さんが今まで私に見せていたのは、彼の本当の姿じゃなかったってね」
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