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そこまで話し終えて、加茂さんはようやくティーカップに口を付けた。そして一息ついてから、先程から固まってしまったように口を開かない伊奈さんに視線を向ける。
「騙されてたことも、ひっぱたかれたことも、ずっと恨んでた。それに、周りの人には私の方から別れを切り出された、なんて気を遣って嘘をついているのも気に食わなかったわ」
口を噤んだままの伊奈さんを、ちらりと窺う。
きっと加茂さんに恥をかかせないようにそんな嘘をついたのだろうけど、当時の彼女にとっては余計なお世話だったのだろう。私も元彼に振られたばかりの頃は、自分のせいでもあるのに彼がどうにも憎らしくて、芳乃やほかの友達に恨み言をこぼしていたことを思い出す。
「でも、そのー……自分でも調子がいいとは思うんだけれど。今の彼と出会って、こうして結婚も決まってみたら、あのとき周一郎さんになんてひどいことを言ったんだろう、ってすごく後悔したの。それを彼に思い切って相談したら、気になるなら謝っておいで、って言ってくれて……」
「……なるほどな。事情は分かった」
伊奈さんもまたカップを手にして、嘆息しながら頷いた。そういうことなら、加茂さんが今になってわざわざ家まで訪ねてきた理由も納得できる。
しかし、伊奈さんはもう一度彼女をまっすぐ見つめて、問い詰めるように言った。
「でもそれなら、こいつにケンカ売っていったのはどういうことだ? あんたにとってはもう関係ないことだろ」
「そ、それは……」
問いただされて、加茂さんは少し動揺したように目を泳がせた。
確かに、今彼女が話した通りなら二人は和解して、この件はそれで解決していたはずである。加茂さんの答えを待っていると、彼女は口元を歪めて叫ぶように言った。
「だって、悔しかったのよ! 周一郎さんに未練があるわけじゃないけれど、どうしてこの子は良くて私は駄目だったのかって! 私と違ってあの妹さんとも仲良さそうにしてるし、周一郎さんの素顔も知ってるようだったし!」
「はっ……!?」
「わ、分かってるわよ! 自分でもなんであんなことになっちゃったんだろうって、また後悔してたの! 悪かったわねっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ加茂さんに対して、私たちはまたぽかんと口を開けることしかできなかった。昨日の高飛車な態度はどこへやら、今日の加茂さんはなんだか子どもっぽいというか、ちょっとひねくれただけの女の子のようにしか見えない。
「付き合ってた当時、周一郎さんは私の自慢の彼だったわ。だって顔も整ってるし、折り目正しくて紳士的で、会社内での評判も良かったもの」
「あ、私も最初はそう思ってました」
「でしょう!? あの彼の顔と声で『初めまして、お隣いいですか?』なんて言われたら、そりゃ誰だってときめくわよ!」
「わー、すごい分かります……」
しみじみと頷きながら同調する私を、伊奈さんがまたぎろりと睨んだ。その様子を見ていた加茂さんが、心底残念そうにぼそっと呟く。
「……それがまさか、嘘だったなんてね。悪いけれど、あなたはどうして周一郎さんと付き合ってるの? 私と違って、あなたは彼の本性だってもう知ってるのに」
加茂さんの素朴な疑問に、私はしばし考え込む。どうして、と聞かれても、はっきりとした理由があるわけではないのだ。
ただ、伊奈さんと一緒にいるうちにだんだんと彼と過ごす時間が楽しくなってきて、いつの間にか伊奈さんのことばかり考えるようになってしまっていたのだ。
「え、えっと……好きだから……?」
「だから、その理由を聞いてるのよ。しかもあなたたち、結婚するんでしょう? よく嫁ぐ気になったわね」
「あ、ま、まだちゃんと決まったわけじゃないんですけどね!? ……でも、あの、伊奈さんと一緒にいたら、おじいちゃんおばあちゃんになっても、毎日楽しく過ごせそうだなって……最近、よく思うんです」
ちゃんと答えになっているかどうかは分からないが、とりあえず頭に浮かんだ思いを口にした。
自然と彼との未来が想像できて、しかもそれが幸せなものだったから。だからこうして伊奈さんと一緒にいるし、これからもずっと過ごしていきたいと思えるのだ。
こんな理由じゃ駄目かな、と加茂さんの顔を恐る恐る窺う。しかし、私の予想に反して、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。
「……なーんだ。周一郎さんにはあなたが合ってた、ってだけのことね」
「え……?」
「なんでもないわ。よかったわね周一郎さん、あなたもやっと結婚できそうで」
「うるさい。余計なお世話だ」
私の曖昧な答えに、加茂さんはなんだか納得したようだった。
伊奈さんはさっきから口数が少ないながらも怒ってはいないようだし、この場の空気が和らぐのが分かったから、私はそれ以上そのことに触れなかった。
その代わりに、加茂さんが幸せそうに結婚式や結婚指輪の話をしてくれたので、私は興味津々で彼女の話に聞き入った。伊奈さんは半ば呆れていたけれど、やっぱりこういう話は聞いている側も楽しい。それに、高飛車で気が強そうだと思っていた加茂さんだけど、話してみれば明るくて可愛らしい人だった。まあ、ちょっと気の短いところはあるようだけど。
そして小一時間ほど経ったところで、私たちはようやくカフェを後にすることにした。
お店の外に出ると涼しい秋の風が吹き抜けて、その冷たさに少し身震いする。
「すっかり長話しちゃったわね。どうなることかと思ったけれど、今日は楽しかったわ」
「あっそ。そりゃよかったな」
「はあ……その顔からそんな台詞が出てくるなんて、未だに信じられないわ」
私はすっかり慣れてしまったけれど、伊奈さんのぶっきらぼうな物言いに加茂さんは残念そうに溜息をついた。でも、その顔はどこか晴れやかに見える。
「桜さん。今回は、その……ごめんなさい。何も知らないくせに、あなたに突っかかったりして」
「いえ、私は別に……」
「……それと、周一郎さん。三年前あなたに向かって言ったこと、取り消すわ。私があなたのことを受け入れられなかっただけなのに、ひどいことを言ってごめんなさい」
そう言って加茂さんは、私たちに向かって深々と頭を下げた。
その姿を目の当たりにした伊奈さんが、居心地が悪そうに眉根を寄せて口を開く。
「……いや。俺も悪かった。あんたに嘘をついてたことも、あの時ひっぱたいたことも、ずっと引っかかってたんだ」
苦しげな表情でそう言った伊奈さんを見て、初めて彼の家を訪れたときのことを思い出した。
あの時の彼は、私を家に入れることを極端に嫌がっていた。結局お母さんが押し切って招いてくれたけれど、彼は何度も私に確認した。俺がこんなあばら家に住んでいても驚かないのか、と。
あれはきっと、加茂さんに言われた言葉をずっと気にしていたからこそ出てきた言葉なのだろう。そして同じように、加茂さんもあの時のことをずっと気にかけていたのだ。
「それじゃあ、もう行くわ。二人とも、お幸せに」
「ああ。あんたもな」
にっこりと笑ってから、加茂さんは身を翻して去って行った。
その満足げな後ろ姿を見ていたら、彼女がよっぽど勇気を出して伊奈さんに謝りにきたのだと分かる。これで彼女も伊奈さんも、もう当時のことを気にして心苦しくなることはないだろう。
「俺たちも行くか」
「あ、はい……もう帰りますか?」
「いや。ちょっとぶらぶらしてから、家まで送ってく」
「え。いいですよ、遠回りになっちゃいますから」
「いいから。黙って送られてろ」
また強引な言い方だなあ、と思いつつも、伊奈さんの優しさが嬉しかったので私は笑顔で頷いた。
そして伊奈さんの隣に立って歩き出すと、すぐに手を繋いでくれる。その温かさにまた顔を綻ばせながら、ぎゅっと彼の手を強く握り返した。
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