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──結婚しようか。
彼の言葉が何度も何度も脳内で繰り返される。
飾り気のないその言葉はいかにも伊奈さんらしくて、そして今までもらったどんな言葉よりも重く、大切なものに感じられた。
「これでも、色々考えたんだけどな。お前はドラマみたいなお決まりのシチュエーションを妄想してるだろうから、夜景の見えるレストランでも予約するかとか、海辺まで連れてって夕陽でも見ながら、とか。……でも、どれもしっくりこなかった。そんなとこでプロポーズしてる自分を想像したら、なんかむず痒いし」
「…………」
「それで今、お前の顔見たらどうしても言いたくなったんだ。ずっと傍にいてほしい、って……でも、やっぱり駄目だな。こんな行き当たりばったりじゃ」
そう言いながら、伊奈さんはちょっと照れたように笑ってそっぽを向いてしまう。
私が何も言えないせいで落ち込んでしまったのか、それとも本当に照れくさいだけなのかは分からないけれど、私は思わず引き留めるように彼の手をぐっと引っ張った。
「うわっ! おい、何を……」
「しっ……しますっ!」
「……あ?」
「だ、だからその、結婚を! 私も、ずっと伊奈さんの傍にいたい……っ!」
涙が出そうになるのをぐっと堪えながら、やっとのことで返事をした。
言い終わったらやっぱり涙は溢れてしまって、伊奈さんと出会ってからこんなことばかりだな、なんて冷静に思い返している自分がいることに笑う。こんなにも私の心をかき乱す人は、きっと後にも先にも彼ただ一人だろう。
「はあ、もう……泣くなよ、これくらいで」
「こ、これくらい、じゃないですよっ……! だって、伊奈さんのせいじゃないですかぁっ……!」
「あー、悪い悪い。ほら、拭いてやるから。こっち向け」
周りに人がいないとはいえ、ここは外なのに涙がなかなか止まってくれない。
困ったように笑いながらハンカチを取り出した伊奈さんの方を向くと、ハンカチよりも先に彼の唇が私のそれに触れた。
「ん……っ!」
「……ぷっ。お前、いつも顔真っ赤だな」
「なっ……、だ、誰のせいだとっ」
「俺のせい、だろ? ほら、今度こそ拭いてやるからじっとしてろ」
「む、ぶっ」
ごしごしと乱暴に私の顔を拭きながら、伊奈さんはまた嬉しそうに微笑んだ。
そして、もう私の瞳から涙が零れてこないことを確認すると、再び手を取って歩き出す。
「それで、だ。籍入れるだけだったらいつでもできるが、式挙げるのは今すぐってわけにいかねぇだろ? これは俺のわがままだが、できれば咲子がちゃんと旦那のとこに戻って、それに萌子も働き始めて少し落ち着いてからにしたいと思ってる」
「え? あ、はい、そうですよね」
「そうですよねって……いいのか?」
「え? いいのかって……何がですか?」
突然の現実的な話に付いていけずに聞き返すと、伊奈さんは眉根を寄せた。そんな顔をされたって困ってしまう。
咲子さんと旦那さんが仲直りしかけている最中だというのは聞いていたし、萌子ちゃんだって社会人になって最初のうちは忙しいことだろう。それはもちろん納得できるのだが、伊奈さんが私に何を聞きたいのかが分からないのだ。
「だから、誕生日! お前の誕生日、3月だろ? だから、結婚式はそれ以降になっちまってもいいのかって聞いてんだ」
「え……それは全然構わないんですけど……どうしてそんなこと聞くんですか?」
私がそう尋ねると、伊奈さんは一瞬目を見開いて、それから怒鳴るように答えた。
「お前、うるさいくらい言ってたじゃねぇか! 何が何でも30歳までに結婚したいって!!」
「ひぃっ!?」
あまりの勢いに思わず後ずさってしまったけれど、伊奈さんの言ったその言葉には嫌と言うほど聞き覚えがあった。聞き覚えと言うより、言い覚えと言った方が正しいかもしれない。
「あっ……、い、言いました! 言ってましたけど、忘れててっ」
「忘れてたぁ!? お前、あれだけ言ってたくせに忘れてたのかよ!」
「ご、ごめんなさいっ! だってあの、伊奈さんとお付き合いし始めてから、正直それどころじゃなかったというか……!」
素直に白状すると、伊奈さんはまたも驚いたように目を見開く。
また怒鳴られてしまうかもしれないと思いながらも、私は今の自分の想いを素直に伝えることにした。
「あの……正直言うと、最初は本当にそれだけ考えてました。早く結婚したくて、自分で勝手に期限なんて決めちゃったせいで、余計に焦って……まさに必死って感じでした」
「……まあ、そうだったな」
「で、でも、今はそうじゃないんです。ただ結婚できればいいんじゃなくて、伊奈さんとだから結婚したいんだって、思ったから……」
繋いだままの伊奈さんの手を、ぎゅっと強く握り返す。その確かな温かさを感じながら、私はゆっくりと彼に告げた。
「だから私、いつだっていいんです。30歳になろうが、60歳になろうが、伊奈さんと一緒にいられるなら、いつでも」
頭一つ分上にある彼の目をしっかりと見つめて、正直な気持ちを口にする。
こう思えるようになったことが嬉しくて思わず笑みを零すと、伊奈さんはなぜがぐっと唇を噛んで、そしてぷいっと目を逸らしてしまった。
「……さすがに、還暦までは待たせねぇよ」
「え……あ、あはは、そうですよねっ」
「はあ……なんか、もう……お前には、一本取られてばっかりだ」
また怒らせてしまったかと不安になったけれど、彼から返ってきたのは穏やかな返事だった。溜息混じりではあるが、その声音から怒りは微塵も感じられない。
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