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「それと、これもお前に言っておこうと思ってたんだが……俺はそのうち、今の会社を辞める。それで、うちの八百屋を継ぐつもりだ」
「あ、はい。すぐにってわけじゃないんですか?」
「……やっぱり、お前は驚かないよな。まあ、想定内だが」
「えっ?」
「なんでもない。それで時期なんだが、これから家をリフォームして、それが完成したらって考えてる」
「え……リフォームするんですか!?」
思わぬ言葉に驚くと、伊奈さんはちょっと嬉しそうに微笑んだ。
それから、今までそのリフォームのために貯金をしてきたこと、このことについてはまだ家族にも内緒だということを自慢気に話してくれる。
どうやら彼の頭の中ではすでに綿密なプランが練ってあるようで、おばあちゃんが使いやすいように段差を無くすだとか、少しでもお客さんが増えるようにお店の内装もおしゃれなものにするだとか、細かな部分まで決定済みのようだ。
「あと、2階の俺の部屋はもうちょっと広くする。今のままだと手狭だからな」
「え、そうですか? 十分広いと思いますけど……」
「……あのなあ。お前も一緒に住むんだぞ? 一人ならいいが、二人であの部屋だと狭いだろ」
「あっ、え!? そ、そっか、そうですねっ」
伊奈さんのその言葉を受けて、一瞬のうちに彼と同じベッドで寝起きする様子を想像してしまった。
夜は彼の腕の中で眠り、朝は共に起きる。一緒にごはんを食べて、何でもない会話を交わして笑いあうことができたら、その毎日の繰り返しはきっと幸せなものになるだろう。
「まあ、これから実際に業者と相談したり、今の仕事を後輩に引き継いだりだとか、めんどくさいことを乗り越えなきゃいけねぇんだけどな。……でも、あの店はどうしても残したかったんだ」
「ふふっ、そうですよね。伊奈さんの前掛け姿、よく似合ってましたし」
「……馬鹿にしてんのか?」
「し、してないですよ! 褒めたんですっ!」
八百屋さんの店先に立って働く伊奈さんの姿は、スーツ姿の時よりも生き生きしていたことを思い出す。
私にはまだ分からないけれど、一家でお店を経営していくというのはとても大変なことなのだろう。でも、彼がこの先ずっとあんな風に誇りを持って仕事ができるのなら、私はその姿をすぐ傍で見つめていたいと思えるのだ。
「今のうちに言っておくが、あんまり贅沢はさせられねぇぞ。このご時世、いつ景気が悪くなるかも分からねぇし、その上うちの商売は気候にだって左右される。……それでも、いいのか?」
「いいに決まってるじゃないですか! しばらくは私も今の仕事続けたいですけど、お店が大繁盛しちゃっててんてこ舞いになったら、頑張って一緒に働きますから」
ぐっと拳を握って宣言すると、伊奈さんはおかしそうに声を上げて笑った。その明るい声を聞いていると、私まで楽しい気持ちになってしまう。
すっかり寒くなった公園を歩きながら、私たちは飽きもせず将来のことを語り合った。
「リフォームするって言ったら、萌子なんかはあれこれ細かい注文つけてきそうだな」
「うふふ、そうですね。ちゃんと聞いてあげないと」
「まあ、できるだけな。つーかお前、結婚式挙げたい場所とかもう決まってんのか?」
「えっ? いえ、それはまだ……あっでも、伊奈さんにはぜひ真っ白のタキシードを着てほしいです! 王子様みたいな! それで、できることなら白馬に乗って現れてほしいですね!」
「おい、どこから調達するんだその馬は」
「え……ぼ、牧場とか……?」
浮かれ気味に願望を語る私に、伊奈さんはそれはそれは盛大な溜息を零した。また夢見がちなことを言いやがって、と呆れているのだろう。
「それより、お前の両親に挨拶しに行くのが一番先だな」
「あ、そうですね! うふふ、お父さんもお母さんも驚くだろうなぁ」
「……一応聞いておくが、気難しい人か? 特に親父さん」
「いいえ、全然。どちらかと言えば気弱な人なので、伊奈さんあんまり怖い顔しないでくださいよ」
「それは大丈夫だ。猫被るのは得意だからな」
なんだか自信ありげにそう言う伊奈さんに、思わず笑ってしまう。
確かに伊奈さんが本気を出せば、私の両親に好印象を与えられること間違いなしだ。お母さんなんかは、伊奈さんを見たら私と同じように目をきらきらさせてしまうんじゃないだろうか。
「いろいろ楽しみですね、伊奈さん」
「能天気な奴だなぁ。……まあ、どのみち頑張るしかないからな。楽しむか」
まだ夢見心地で浮かれている私に、伊奈さんは呆れながらも同意を返してくれる。
この先のことをあれこれ相談しながら、私たちは日が暮れるまで二人で手を繋いで歩いていた。
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