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そして、ゆっくりと歩を進めていた白馬が私の目の前で歩みを止めた。
担ぎ役の友達三人が屈んで、伊奈さんがその上から降りる。それから、その一連の動きをじっと見つめていた私の目の前に立った。
「……言い訳だけ、させてくれ。俺は知らなかったんだ」
「はい、分かってますよ。みなさん、わざわざ準備してくださったんですね」
「幼稚園のお遊戯会よりひどいけどな。せっかくの結婚式なのに、悪い」
ぼそぼそと小さな声で謝る伊奈さんは、申し訳なさそうに眉を下げた。謝らないでください、といくら言っても今の彼の耳には届いていないようだ。
「さて、それでは新郎から新婦に一言どうぞ! 愛の言葉でもなんでもいいですよ! あ、誓いのキスをもう一度してもらっても構いません!」
「やかましい! お前らあとで話があるからな、勝手に帰るなよ!」
進行役の友達を怒鳴りつけて、伊奈さんは渋々といった様子でもう一度私に向き直った。
今日はずっとよそいきの笑顔を振りまいていたのに、すっかりいつもの仏頂面に戻ってしまっている。上司がいるのに、なんて自分で言っていたくせに、それも頭から抜け落ちているようだ。
まあ、職場関係の招待客を集めたテーブルからは「伊奈くん、頑張って!」なんて励ましの声が聞こえるくらいだから、きっと問題は無いだろう。
そして一呼吸置いたあと、伊奈さんがためらいがちに口を開いた。
「……正直に言うと、俺は未だに、お前を幸せにしてやれる自信がない。家は貧乏だし、ボロいし、それに俺は短気だから、すぐカッとなって後悔することだって山ほどあるし……」
ぽつぽつと呟く伊奈さんの瞳を、じっと見入る。
まっすぐ私を見つめるその瞳には一つの偽りもなくて、初めて出会ったときの彼とは別人のように思えた。
「でも、そんな格好悪い俺の姿を見ても、お前は引くどころか近付いてきてくれた。それが、なんつーか……嬉しかったんだと、思う」
少し照れくさそうに、伊奈さんが言葉を選びながらしゃべっているのが分かる。
先ほどまでざわついていた会場はしんと静まり返って、彼の紡ぐ言葉を皆が聞き入っていた。
「今はまだ、『俺についてこい』だなんて大層なことは言えない。……ただ、何よりも大事にするから。だから、ずっと傍にいてほしい」
そう言ってから、伊奈さんは目を見開く私の前で片膝をついた。
そして、ほんのり赤く染まった顔で私を見つめて、そっと右手を差し出す。
「俺と一緒に、生きてくれるか?」
はっきりとそう告げる伊奈さんのその姿が、ずっと夢に見ていた物語のワンシーンとぴったり重なった。
白馬に乗って現れ、真っ白なタキシードに身を包んだ王子様。
私だけを一途に愛してくれる、誰よりも大切にしてくれる運命の人。
結婚に夢を見すぎだと、現実を見ろと私を笑ったくせに、今こうして目の前でその夢を叶えてくれた。
あの時の私の直感は、外れてなんかいなかった。
小指から繋がる赤い糸の先にいたのは、やっぱり伊奈さんだったのだ。
気付いたときには、私は目から大粒の涙を零していた。
そして何度も何度も頷きながら、差し出された彼の手を取る。嗚咽ばかりで何も話せない私の代わりに、今日ここに集まった人たちが拍手で包んでくれる。その温かさにお礼を言いたいのに、泣くことしかできないのがもどかしかった。
「……大成功、かな?」
「不本意ながらな。宮原、お前いい加減そこから出てこい。今晩の夢に出てきそうだ」
すぐ近くで伊奈さんと宮原さんのやり取りが聞こえる。
伊奈さんに肩を支えられながらようやく動けるようになった私は、彼から受け取ったハンカチで涙を拭いた。さっきの芳乃のスピーチでも号泣してしまったから、きっとメイクもボロボロだろう。
「あーあ。せっかく綺麗にしてもらったのにな」
「えっ……や、やっぱり落ちちゃってますか!? メイクさんに怒られますかね!?」
「怒られやしないだろうが……まあ、別にいいだろ。可愛いよ、そのままでも」
泣き腫らした私の顔を見て、伊奈さんがぽつりとそんなことを呟く。
その一言にまた顔が熱くなって、披露宴が終わるまで私はずっと浮かれてしまっていた。
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