第一章

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            3 ささやかな策略 「母さんさ、これ、俺が貰ってもいいかな?」  吉崎涼太はそう言って、  左腕で抱えているものを真弓に向けて掲げて見せた。 「もちろんいいわよ。あなたが使うくらいしか、うちにはもう意味ないものだ  から」  ほんの少し最初だけ、上ずった声になってはいたが、  それでもなんとか普通の感じで言えたと思う。  例の約束が四日目となる日のことだった。    いきなり二階から涼太の声が響いた。  真弓は手にしていた包丁をまな板において、  慌てて声のする二階へ向かおうとしたのだ。  階段下から見上げると、涼太が二階から真弓を見つめて立っている。    その手にあるのは久しぶりに見るサッカーボールで、  雄一が元気な頃には毎日のように見ていたそんなものも、  彼の死以降は一切目にしていなかった。  「なに、どうしたの?」  だいたい〝母さん〟と呼ばれるのは何ヶ月ぶりか……。  声を聞くのだって実に四日ぶり、なのだ。  だからこんな受け答えだってドキドキしながらの声となる。  しかしそんな問い掛けには答えないまま、  彼はすぐにそこからいなくなってしまった。   そしてそれから十分と経たずに、  涼太が玄関を出ていく音が聞こえてきたのだ。  相変わらず「行ってきます」もないが、  それでも時計を見れば十二時にもなってはいない。  まっすぐ病院に向かうのであれば、きっと十二時半には着くだろう?  ――お昼も食べずに、ずいぶん、早く行くのね……?  そう思うと同時に、四日前に言われた言葉がフッと脳裏に蘇ってきた。  「きっと、何か変化があると思うの。それはあの子だけじゃなくて、お宅の息  子さんにだって現れるかもしれないわ」    なんて言葉を、真弓はその時一切信じていなかった。  もしかしたらそれでも、少しずつ何かが変わっていくかもしれない。  そんな予兆を感じさせる、たった十数秒間の出来事だった。 「ねえ、真弓さんじゃない? 吉崎、真弓さん……違う?」  いきなり響いたそんな声に、真弓は慌てて立ち上がった。  それから声のする方に目を向けて、すぐにその姿に反応したのだ。 「夏川さん! 夏川さんですか?」 「そうよ、ちょっと見ただけじゃわからないくらい太ったでしょ? お久しぶ  り、ああよかった、わかってくれて、嬉しいわ」  なんて言いながら、夏川は真弓の隣にドカンと座った。 「さっきあなたを受付で見かけたのよ。その時はちょっとバタバタしてて声掛  けれなくてね。よかったわ、まだいてくれて……一緒にいたのって、もしか  して息子さん?」  長髪で茶髪姿の涼太を見たなら、きっと何かを思った筈だ。    少なくとも品行方正には見えないし、    真面目な少年って言葉からはなんと言っても遠すぎる。  それでも彼女は言ってきたのだ。    お互いの近況を伝えあってすぐに、涼太について聞いてきて……、 「ねえ、もしかして息子さんて、この近所の中学に通ってたの?」 「そうよ。どうして? すぐそこの公立に行ってたわ。今はもう、ぐうたら高  校生になっちゃったけどね……」  以前住んでいたマンションから一軒家に引っ越して以降、    彼女とはまったく連絡を取り合っていない。  だから今の住所を知らない筈だし、    ――なのに、どうして……?     などと、美穂は一瞬だけ感じたのだ。  ただすぐに、単にこの病院にいたからそう言っただけだろうと、    そのまま困った息子について説明していった。  高校に入って一年、一気に親の言うことを聞かなくなった。  最近は口さえ開かなくなって、日に日に悪くなる一方で困っている。  昨日も喧嘩で警察の世話になり、  朝一番で引き取りに行ってきたばかりだと告げて、 「挙げ句の果てに、骨折したらしいの。それで今、検査やら治療やら受けてる  わ……」  やれやれという顔で、フーッと大きくため息を吐いた。  そうしてさらに、茶髪やあんな格好でいられるのは、    比較的自由な都立高校だからとその名を告げる。 「へえ、頭のいい高校じゃない、うちの娘も都立だったからわかるのよ。でも  まあ、そうよね、吉崎先生の息子さんなんだもんね〜」    と言って、懐かしそうな顔をしながら上を向いた。  真弓が結婚するまで勤めた病院に、  夏川麻衣子も同じ看護師として働いていたのだ。    そして五年ほど前に、看護師長としてこちらの病院に移ったらしい。  一方夫である吉崎謙治も第二外科に勤めていたから、    当然夏川も二人の結婚式には出席していた。 「じゃあさ、ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」  ここで会えたのも何かの縁だと言って、  彼女はそこから不思議なことを話し出した。 「でね、特に何をしてちょうだいってわけじゃないの。ただそこにいてくれれ  ばいいんだけど、お願いできないかしら?」  すでにさっき学校からは、  処罰が決まるまで〝自宅待機〟という連絡があった。  そんな処罰とは〝退学〟までは行かずとも、    そこそこ長期間に及ぶ〝停学〟くらいにはなる筈だ。  となれば涼太はさっそく、明日から一日何もすることがなくなってしまう。    ――時間を持て余して、また何かしでかすよりぜんぜんいいわ。  そんな打算も手伝って、真弓は夏川の申し出を受け入れた。  しかし実際、そんなにうまくいくものだろうか?   きっと謙治に話しても、同じように言われるのは目に見えている。  ――でも、それだっていいわ。ダラダラ一日過ごすより、もしかしたら誰か    の役に立つって方が、よっぽどいいじゃない……だけど、    それより問題は……。  果たしてそんな話に、あの涼太がうんと返すだろうか?     そんなことから考えたのが、あの〝全寮制〟って話だった。  ただとにかく、今日まで四日続いている。  果たしてひと月続くかどうかは別として、  今回の話を受けてよかったと、真弓はすでに感じ始めていたのだった。
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