第二章  

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 ちょっと見ただけで、きっとしばらくは覚えていられる。  そんな印象を十二分に身にまとい、  茶色い長髪をなびかせ、彼はそこに現れていた。  ――だから、病院にいたんだ。  昨日はしていなかったギブスをはめて、  肩からサポーターみたいなもので、右腕をしっかり固定している。  きっと骨折か何かして、この病院で治療を受けた。  そこまでは、すぐに優衣だって理解できる。  しかしどうして、病院の裏っかわ、  それも急患入り口なんかに現れたのか?   そう思って見ていると、彼は建物に面した広場で立ち止まり、  何をするわけでもなくただただ〝ぼーっ〟と突っ立っている。  そのうちに地面に寝転んで、ふと気付くと彼はどこかへ消えていた。  そうして、さらに驚いたのは、  次の日もおんなじくらいの時刻に彼はやっぱり現れたのだ。  まさかね、いるわけないよね……なんて思いながらも、  ――もしいたら、どうしよう?   などと、関係ないのに変な心配したりして、  優衣はドキドキしながら窓から下に目を向けた。  ところが彼は、そこにいたのだ。  目を離さず見ていると、十四時ぴったりに慌てるようにいなくなる。  時計を何度も見ていたから、何か約束でもあるのだろうか……。  ――でも、あんな日陰にいなくても……。  時間潰しなら、病院玄関前にある広場の方が暖かいし、  誰でも座れるベンチだって置いてあるのだ。  それから次の日も、彼は午後一時に現れて、  椅子に座って漫画本を読み始める。  そしてちょうど一時間して、漫画本を一冊残し消え去った。  きっと何か理由があって、彼は毎日ここに現れる。  それがなんなのかは知る由もないが、手にある漫画を眺めながら、  優衣はちょっとだけ不安な気持ちになっていた。  ――もし、この本を探していたらどうしよう?  家に帰って〝忘れた〟と気付き、  となればきっとあの辺りを探すに決まってる。  そうしていくら必死に探しても、本は絶対見つからない。  ――どうして、持って来て貰ったりしちゃったんだろう!?  そんな後悔しても始まらないし、後は元のところに戻しておくかだ。  ところが次の日、彼女の心配はきれいさっぱり消え去ってしまった。  彼は漫画の代わりに、なんとサッカーボールを抱えて現れたのだ。  右手をサポーターで吊ったまま、  サッカーボールでリフティングをし始める。  そんなのを目にして、優衣はなんだか嬉しくなった。  彼が忘れていった漫画もサッカー少年が主人公で、  たった一冊読んだだけだが驚くほどに面白い。  実際、今すぐにでも本屋に行って、一巻から読みたいくらいに思っていた。  ――やっぱり、サッカーが好きなんだ!  そんな一面を知っただけで、ずいぶん彼との距離が狭まった気さえする。  きっと腕だけじゃなく、どこか他も悪いのだ。  だからこの病院に入院していて、  退屈しのぎにこの裏庭でサッカーボールを蹴り始めた……と、  優衣は勝手に思い込んだ。  そもそもリフティングとは、  手以外を使って、地面に落ちないようバウンドさせ続けることなのだ。  ところがだ。  彼のリフティングは驚くほどに続かない。  もちろん、右腕を吊っているせいもあるだろう。  しかし左手で放たれたボールを、  彼はだいたい一度しか蹴ることができない。  運よく――まさにそんな印象で――二度目を蹴ることができても、  そのボールは遠くへ飛んでいってしまうのだ。  そんなのが何度も繰り返されて、  やっと三度目が続きそうになった時だった。  ボールが膝に当たろうとする寸前、彼の右脚が「カクッ」と崩れる。  そのまま膝は地面に着いて、  当然ボールは彼の脚には当たらないまま地面をコロコロと転がった。  そしてこの時、彼の印象が強烈だった。  後から思えばこれ以降、  日々の〝モヤモヤ〟が一気に少なくなっていく。  彼はこの時、不思議に思うくらいに悔しがった。  ――どうして? まだ始めたばかりじゃない?  きっとこのままやり続ければ、  絶対どんどん上手くなるから大丈夫だよ!   そんな声を掛けてあげたいくらいに、彼の悔しがりようは極端に思えた。  己の膝を左拳で何度も何度も叩きまくって、  小さな声で「ちくしょう」と何度となく呟いた。  終いには、ボールも取りに行かずにその場に寝転んでしまうのだ。  そうして彼はいつものように、  午後二時ぴったりに起き上がり、そのまま建物の中に入って消えた。  だからきっと、今でもサッカーボールは塀側の草むら辺りにある筈だ。  さすがに今度ばかりは、取りに行って貰おうとは思わなかったが、  とにかく自分でも不思議なくらいに気になって仕方ない。  ――明日も、ちゃんと来るかしら?  もし来なかったどうしよう……と、  理由もないまま、ただただドキドキしまくった。  ところがなんとも皮肉なことに、次の日は朝っぱらから大雨だ。  止んで欲しいと窓から表を何度も見るが、  午後になってますます雨脚は強くなる。  サッカーボールもびしょ濡れだろうし、  どう考えたって彼がやって来るとは思えなかった。  ところが彼はやって来たのだ。
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