第一章

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              2 永井優衣 「ねえ、またお昼ちゃんと食べなかったんだって? だめじゃない、そんなん  じゃ、治るもんも治らなくなっちゃうわよ」  こう言ってしまってからすぐに、 「しまった!」  と気が付いたのだ。    しかし時すでに遅しだ。  バーンという大きな音に続いて、様々な雑音がすぐに重なり、響き渡った。  ベッド用サイドテーブルにあった病院食が、    一気にそこら中に飛び散っていた。  幸い食器はプラスチック製だったが、    その分、あっちこっちに飛び跳ね転がり、想像以上に騒がしい音を立てる。  そんな物音が消え去るのを待って、やっと彼女は動き出した。    散らかった食器を拾い上げ、それをトレーに重ね置く。  まずはこれらを戻してしまって、後はホウキと塵取りを取ってこよう……  そう思って立ち上がったのが、この病棟の看護師長であり、  この患者のことをよく知っている夏川麻衣子、五十歳だ。  そして、治るものも治らない……こんな言葉こそが一番ダメだと、  当然、夏川も知っていたのだ。  なのに、長年の習性とでも言うべきか?     ついついこのようなことを口にして、患者の神経を逆撫してしまう。  こうなってしまったら、何をしようがしばらくの間は反応なしだ。  ずっと窓の方に顔を向け、  どう声を掛けようが振り向いてはくれないだろう。  そんな姿に目を向けながら、夏川麻衣子はふと思うのだ。    ――でも、そうよね……そんな言葉、聞きたくないわよね……。  本当に治るのか......と、問われれば、  夏川自身もどう答えていいかがわからない。  小学校四年生で病気が発覚し、それから何度となく入退院を繰り返した。  中学二年生になってすぐ、満を持しての一度目の手術。  なのに、たった二年後、また別のところがおかしくなった。  中学三年の冬に再び入院。  幸い入試は終わっていたから、  合格の知らせはベッドの上で両親から聞けた。  そうしてそれから、彼女は今日まで一度も高校の門をくぐっていない。  永井優衣、十五歳。  七月七日で十六歳になるが、この調子ならその頃もきっと病院の中だ。  先天性の心疾患で、彼女の場合、  そう簡単に手術ができるような症状ではなかった。  だからまず、手術ができるような状態にすることが最優先。  ところがなかなか状態が上向かず、  入院して三ヶ月だと言うのに、一向に手術日は決まらない。  手術をし、日に日に体調がよくなっていくなら、  入院が長引こうがそれほど悩みはしないだろう。  本当に、手術はできるのか?   状態とは、いつになったら良くなってくれるのか?   そんなことは一切知らず、かと言って治療らしいことなど一切なし。  ただただ大人しくジッとしていて、  できるなら、一日中ベッドで横になれ……などと、  いったい誰が心安らかに聞けるだろうか?  それでも優衣は、  最初のひと月くらいはいつもの彼女と変わらなかった。  元々が大人しく控えめで、  まさに日本女性らしい優しい心を持ち合わせている。  そんな印象が変わり始めたのは、  日に日に景色が春めいてきた……四月のある日のことだった。
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