第一章

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 もし、あの少年があそこにいなかったら、  優衣はどうなっていたかわからない。  もちろん、何も起きなかったかもしれないが、もしも発作が起きていれば、  最悪の状態になり得る可能性はいつだって潜んでいる。  そんな出会いから数週間前、それは、まさに突然だった。  午前中まで何も変わらず、昼食だって普通に食べた。  ところが午後から様子が一気に変わる。  いつものように、午後一番に姿を見せた母親へ、  優衣はいきなり声にしていた。 「ねえ、わたしって、いつまでここにいなきゃいけないの?」  そんな何気ない口調に、母、美穂はいつものように、  ちょっとだけ困ったように笑顔を見せて、小さくコクンと頷いて見せた。  いつもなら、このあと普通に話しかければ、  いつもの優衣がそこにいる。  ところがまるでそうじゃなかった。  くたびれた切り花をとり替えてこようと、  花瓶を手にして振り向いた時だ。  お花、替えてくるから……そう言うつもりで優衣の顔を見つめた途端、  妙に沈んだ声が響いたのだった。 「わたしきっと……そのお花、なんだよね」 「え? なに、言ってるの?」 「だってそうでしょ? ずっとこの部屋の中にいて、ダメになったら、ゴミ箱  にポイっと捨てられちゃう」 「なによ、なに言ってるの、誰もあなたを捨てたりしないわよ」    驚きを抑えてそう返し、  心にあった台詞をそのまま言おうとしたのだった。  ところが〝お花〟と言ったところで、 「もういいから!」  優衣の叫びが響き渡った。 「もういい、わたしこれからおうちに帰る」  そう言った時すでに、優衣は素足で床にいた。  唖然と見守る美穂の前を通り過ぎ、彼女はさっさとドアの前まで歩み寄る。 「ちょっと優衣、あなた、なに言ってるの?」  美穂は慌ててそう言って、優衣の背中に近づいたのだ。  その時、優衣がいきなり振り向き、美穂の顔を睨みつけた。  それから「すうっ」と大きく息を吸い込み、  と同時に両眼をギュッと閉じたのだった。  その瞬間、美穂の心はあっという間に凍り付く。  体温が一気に奪われた気がして、  「あ」と言ったっきり数秒間、何も言えずにただ固まった。  優衣の目から、涙がこぼれ落ちたのだ。  瞳を包んでいた水分すべてが、閉じた瞼から一気に溢れ出していた。  優衣はそんな顔を見せてすぐ、ドアの向こうへ飛び出していく。  勢いよく開かれた扉がガンと音を立て、  再び閉まり始めて、やっと美穂は我に返った。 「優衣!!」  と、腹の底から大声を出し、  ――お願い、誰かあの子を止めてちょうだい!  そんな願いを痛烈に思った。  そうして一気に廊下へ飛び出し、美穂の心は予想以上に大きく揺れる。  きっと、そこまでは走ったのだ。  ほんの数秒しか経っていないのに、  そう近くはないナースステーション前に優衣がいる。  たまたま夏川麻衣子が居合わせて、  優衣の身体をラグビーさながらに受け止めたのか?   美穂が目を向けた時には、  大柄の夏川が細身の優衣を両手でしっかり抱きしめていた。  慌ててそこまで走っていって、美穂は思わず優衣に向かって大声を出した。 「なにやってるの! あなたって人は!」  ドッと溢れ出る涙を抑えられず、その後も何かを必死に声にした。  ところが不思議なくらい反応を見せずに、  優衣はあらぬ方を見つめたまま動かない。  そのうちに、夏川が美穂に声をかけ、その場でのことは終了となった。  結局、なんだかんだと聞いてはみたが、  あんなことをした理由ついてはっきりしたことはわからなかった。  だいたい、何も話してくれない。  ただその後すぐに、  〝もしかしたら〟という理由が美穂には想像付いたのだった。  その日は四月の第二週の水曜日で、  月曜日から様々なニュースで入学式のシーンが流されていたらしいのだ。  病室にもとうぜんテレビはあるから、  きっと優衣だって一度くらいは目にしただろう。  さらに騒ぎのあったその日とは、優衣が通う筈だった高校の入学式だった。  本当なら、彼女も新しい制服に身を包み、  そんな一コマに映り込んでいた筈なのだ。  ――だから、なの? 優衣……?  きっとそうだと思いながらも、美穂には聞くことなどできなかった。  それでもきっと、すぐに元に戻ってくれる。  両親はもちろん、  ここ数年優衣を見続けてきた医師や看護師もそんなふうに軽く考えていた。  ところがだ。  優衣の機嫌はそう簡単に直らなかった。
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