暗黒郷(ディストピア)からの逃げ水

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暗黒郷(ディストピア)からの逃げ水

 ヒカリ ヴァッサー ダディランテ、十六歳はただひたすら走っていた―― 「はぁ、はぁ、はぁ……」  後ろでひとつに縛っている紺の髪は、衝撃でもつれ乱れていたが、今は直している暇はない。何度やっても、逃走という激しい運動に体は慣れてくれず、息も絶え絶え。  科学技術が著しく発達した星、カナリラ惑星。とうの昔に重力を克服した乗り物が空中道路を光の線を描いて走ってゆく。緑の輝きを放つ満月が街の灯りに追いやられ、小さな丸を空に作る。  雨上がりのアスファルトはいつもよりも暗さを増していて、車たちに見捨てられた地上は、店も何もないダウンタウン。  浮浪者か今の自分のような、移住してきて親のいない子供が生活というよりは、ただ生きてゆくだけのエリア。  人の少ない路地から、さらに細い道へ行こうと、ヒカリは角を曲がった。しかし、 「っ!」  大きなダストボックスに突っ込み、前のめりで硬いアスファルトにスライディングするように倒れこんだ。膝に一度激しい痛みが襲い、胸が路面へぶつかると、視界が急変して、空は遠くなり、冬へと向かう冷たい夜の空気が頬に広がった。  十六になったというのに、小さな子供が転んだように、まわりからは見える。そう想像すると、本のページをめくるように、物心ついて数年も経たないころの記憶が脳裏に蘇った。   十年も前の話だ。以前住んでいたスティニ惑星に、両親と双子の兄とともに暮らしていた。しかし、国家間はちょっとしたすれ違いによって、報復の延長線上で核兵器は使われ始め、たった一年で人口は十分の一にまで減った。  家族を亡くし、重い障害を背負った人々はさらなる不幸に襲われた。放射線汚染で、惑星が形を保つことができなくなり、今すぐにも爆発するというニュースが世界中に流れた。  我先に惑星から脱出しようとする人々で大混乱となり、他の惑星へ飛ぶ宇宙船乗り場は人で溢れかえった。  大人に埋もれながら、家族とはぐれないように、ヒカリは歩いていたが、今のように転んだ―――― 「いたたた……!」  あのころよりもずいぶん背も伸びた、ヒカリは痛む足をさすりながら、素早く起き上がり、自分なりの全速力で再び細い路地を走り出した。 「はぁ、はぁ、はぁ……」  足はもつれ、息は完全に上がっているが、それでも逃げ続ける。五歳のあの日も、こうやって一人遅れて、恐怖に駆られた大人たちの足にけられ避けられながらも、やっと起き上がった。  しかし、父も母も双子の兄もどこにもいなかった。はぐれてしまった。最初は自分の家に戻ろうとした。どうして、逃げることになったのかは、子供の自分にはわからなかった。  けれども、宇宙船へ乗り込もうとする大人たちに逆行するのは、小さな体ではどうにも難しく、流れに流されて、気がつくと離陸した宇宙船の中に一人乗っていた。  孤独と不安の中で、三日の時が過ぎたが、今の惑星――カナリラに到着した。にこやかな笑顔で歓迎され、近未来の国へ来たような錯覚を覚え、気持ちも明るくなった。  この星の大人に言えば、両親に再会できるのも簡単だろうと、五歳の自分はすぐに信じた。しかし、ここには闇が潜んでいたのだ。 「いたぞっ!」   逃げようとしていた先の脇道から、白衣を着た大人が突如、真正面に躍り出た。見つかってしまった。運動に向かない自分は、顔を隠すために上着のフードを抑えながら走ることはできない。 「っ!」  スプレーペンキで落書きされたビルの壁の前で、ヒカリはくるっと元来た道へ振り返って、再び走り出した。  スニーカーの足がアスファルトを蹴り上げる音が、古いビルの谷間に響き渡る。追っ手の聴覚から逃げることはできない。しかし、とにかく逃げなければいけない。 「はぁ、はぁ、はぁ……」  再び呼吸を激しくしながら、カナリラ惑星での自身の立場を振り返る。  科学で功績を残すことが、地位や名誉を手に入れる有力な術。移住してきた親のいない子どもの人権はない。科学の発展のために、子供たちは実験台(モルモット)として使われる。正当な理由として、政府によって許されている惑星なのだ。  異星人でも快く受け入れたのは、そういうわけだったのだ。そうして、ヒカリはこう呼ばれるようになった。  「B-156789、発見した!」  大きな水たまりを避け、もう少しで大通りへ出れるところだったのに、行く手を阻むように人影が飛び出してきた。  迷路のように入り組んだ路地。闇雲に逃げても捕まるだけだ。逃走しては捕まってをほぼ毎日繰り返して、十年。一度通った道は覚えている。  ヒカリは慌てて足に急ブレーキをかけ、 「っ!」  何歩か後ずさり、珍しく焦りの色をにじませている水色の瞳であたりを素早く見渡し、 「よし、こっちだ」  細い路地に滑り込むように入った。小さく切り取られた星空の下で、サイレンがぐるぐるとまとわりつくように響く。  服は最低限しか支給されず、買いに行くことなどほとんど叶わない。十二月半ばだというのに、フード付きのパーカーに、半ズボン。そうして、ボロボロのスニーカー。髪も体も一体いつ洗ったのかわからない。  ダストボックスや壊れた自転車にぶつからないよう、下水の処理もよくされていないドブくさい路上を、全速力で走り続ける。 「はぁ、はぁ、はぁ……」  最初は何が起きているのかわからなかった。子供ばかりの宿舎に、大人がやって来て、他の子が出てゆく。しかし、それっきり戻ってこない。養う親でも見つかって、どこか別のところで暮らすようになったのだろうと気軽に思っていた。  しかし、ある日、自分の番がやって来た。薄汚れたワゴン車に乗せられるが、声をかけられることはなく、それどころか物のような扱い。ガタガタ道をシートベルトもつけず、あちこちに体をぶつけながら、着いた先は、白衣を着た大人ばかりがいるところだった。  鉄のベッドみたいなものに体をくくりつけられ、何の配慮もなく注射を打たれる。すぐに意識が朦朧としたり、時にはひどい吐き気に襲われ、息苦しいほど鼓動が大きく、全身が心臓になったのかと思う時もあった。  そうして、そのあと、白衣を着た大人たちの会話が遠くから聞こえてきた。 「A薬は、心臓発作を誘発して、すでに死亡例は五十七件だ――」  自分のような惑星難民の子供にとって、ここは暗黒郷(ディストピア)だった。助けてくれる大人もおらず、惑星を脱出する術もなく、殺されてゆくしかない運命。  それでも、ヒカリは必死に抗って、逃げては捕まりの日々を、もう十年も続けてきた。出口の見えない逃走劇。  家族と過ごした平和だった日々はもう戻らない。人々の幸せは核兵器で無残にも破壊された。それは誰がどうすれば違う未来を歩めたのだろう。  まっすぐ行けば行き止まり。ヒカリは右の細道へ入った。そこは人一人が横になってやっと通れるような場所。 「はぁ、はぁ、はぁ……」  汚れた壁に背をつけ、雨どいの細い影に隠れる。研究という正義か何か知らないが、人殺しをする言い訳を掲げ、自分の体を探している大人たちを、息を潜めてやり過ごす。 「…………」  靴音が足早に近づいてくる。距離にして一メートル斜め後ろで、 「どっちに行った?」  男の声がビルの谷間にこだました。靴底が地面をする音がいくつも増えてきて、 「そっちじゃなかったのか?」  すぐ横のアスファルトの上で、靴の先が視界に入ってきた。ヒカリは雨どいと同化してしまうほど、ぎゅーっと身を寄せた。右に左に、追っ手の大人たちはウロウロする。 「どこだ?」 「こっちか?」 「確かにこっちに来たのか?」  視線がこっちへ向かないことを祈り、ごくり生唾を飲む。ドキドキと鼓動がやけにうるさい。冬へと向かうのに、手に汗がジワリと浮き出てくる。一秒が永遠にも感じられる時間。 「B-156789についての話は本当か?」 「はい」 「それなら、なおさら捕まえないとな」 「いい研究材料が見つかった」  初めて聞く話に驚いて、ヒカリの冷静な水色の瞳は大きく見開かれ、落ち着きなくあちこち眺め始めた。 (何のことだろう? 僕は人と違うのか?)  捕まったら、次は研究所から逃げ出すことはできないかもしれない。という背水の陣で、冷や汗がこめかみをつたってゆく。  「こっちにはいない」 「よし、あっちだ」  靴音は遠ざかってゆき、声も聞こえなくなり、とりあえずの危険は去った。ヒカリは安堵の吐息をもらす。 「はぁ〜」  空中道路から走行音はこぼれ落ち、野良猫がゴミバケツをひっくり返した。呪縛から解き放たれたみたいに、ヒカリはそっと通りに顔を出した。人影はひとつもない。後れ毛を耳にかけて、ボロボロのスニーカーで行き止まりから反対へ歩き出す。 「逃げ切れたみたいだ」  どの道のどこに水たまりがあるのかも、覚えているから、水が靴底を超えて中に入り込んでくることもない。それにしても、ほぼ毎日この繰り返し。  記憶が定着してから全て覚えている頭脳の中で、さっき話していた、 「いい研究材料が見つかった――」  を、土砂降りの雨でも降らせるように照らし合わせてゆく。しかし、結びつくような事実はどこにも残っていなかった。あごに指を当てて考え込みたかったが、それはとりあえずあとだ。 「隠れ家に帰って――」  来た道へ歩き出そうとした時だった。背後に人影が立ったのは。ガツンと後頭部に強い衝撃が走り、 「っ!」  それっきり、ヒカリの意識はなくなった――――     ――――混濁した闇の中で、大人たちの声がかすかに聞こえてきた。 「……の特殊能力(メシア)です」  何人か人の気配が少し離れた場所から感じる。 「メシアと名をつけたのか?」 「違います。古い文献から――」  四肢の自由を拘束する鉄の冷たい感触が、自分のいる場所が研究所だと知らしめる。そこで、交わされる会話にしては不釣り合いで、反対意見が飛び交った。 「非科学的だ」 「神が与えたとかいう特殊能力のことだろう?」 「何の根拠もない――」  バカバカしい限りの空論であったが、きちんとした研究結果があった。 「B-156789は水の中でも呼吸は可能です。十分以上も潜っていても溺死することもありません」  ヒカリは驚いて、思わず目を開けた。真昼の太陽を直視したようなまぶしさが視界を襲う。 (それが当たり前だと思っていた。他の人は違うのか?)  教育など受けていない自分。記憶力を使って、見聞きしたものを継ぎ合わせ、言葉の理解を深めてゆくので手一杯の毎日。他人がどうとか、常識がどうとか、そんなことを知る機会がなかった。  目が覚めたと気づかれれば、今している話は打ち切られてしまうかもしれない。ヒカリはそうっと声のする方を眺めた。四、五人の白衣を着た大人たちが気づかず、まだ話を続けている。 「他にもまだありまして」 「何だ?」 「水流を作り出したり、水のないところに出現させたりと、色々できます」  本当に小さい頃、水たまりで遊んでいた当たり前のことが、実はファンタジーだった。見えないものは信じない。非常に現実的な自分の一面が、どこか遠い話のように思える。 「しかし、やはり科学的根拠はない。他のことが要因ではないのか?」 「ですが、データはこれだけ取れています。こちらが科学的根拠なのではないですか?」  机上の空論みたいな議論。そうして、物と化している自身の心にこんな提案がとどろいた。 「B-156789を日照りなどの地域へ貸し出して、高額な対価を得るという方法もあります」 「それよりも、メシア自体を取り出せれば、B-156789の体はいらないのではないですか?」  雲行きが怪しくなってきて、ヒカリは強く目をつぶった。そのまぶたの裏で、今日までの日々をたどる。 「様々な方法で試みたが、取り出せなかった」  あの苦痛の連続は、これが原因だったのか。さっきの逃走劇の過激さも合点がゆく。真っ暗な視界の中で、研究者たちの話の続きが聞こえてくる。 「しかしながら、B-156789が死んだのちは、メシアというエネルギー源はどこへ行くのだろうか?」 「別の文献によると、メシアは宿っている肉体が滅びると、別の肉体へと移るそうです」  易姓革命(えきせいかくめい)――まさしくそれだった。  再び目を開けると、大きなモニター画面に、背表紙は擦り切れ、茶色く変色した本が映っていた。 「ということは、それを意図的に起こせば、メシアを取り出すことは可能かもしれないな」 「理論上はそうなります」 「しかし、それは伝承の域を出ない」 「ですが、試してみる価値はあるかと……」  ヒカリの瞬きの回数が多くなってゆく。そうして、研究者の一人から、最後の審判を下されるように告げられた。 「メシアさえ手に入れば、B-156789の死体は用済みですから、廃物として宇宙へ投げすてるだけです」  ヒカリは思わず息を飲んだ。 (――殺される!)  正気を失った研究者たちの、狂気な宴が絶体絶命へと向かう前に逃げ出さなければ。しかし、ヒカリの四肢は無情にも実験台のベッドにくくりつけられたままだった。  手首を動かすたび、鉄の硬さがアザを作ってゆく。背を向けていた研究者たちの話はひと段落して、 「とにかく、一旦会議を開い――」  その時だった。全身を貫くような鋭く緊迫した音が、ジリジリと鳴り響いたのは。研究者たちは落ち着きなくあたりを見回す。 「な、何だ!?」 「どうした!?」  そうこうするうちに、大画面は非常事態(Emergency)の文字が大きく浮かび上がり、研究室は赤く点滅を始めた。研究者たちは様子を見に、部屋から次々に飛び出してゆく。 「非常サイレン?」  記憶した言葉を組み合わせて、ヒカリは事態を収拾した。何かが起きたのは確かで、ここにいることは必然的に危険。 「何とかこれをはずさないと……」  ここがもし火の海になったとしても、くくりつけられたままでは、火あぶりの刑と一緒になってしまう。冷や汗がこめかみをつたい、手や足首に抗う跡ができてゆく。しかし、虚しいほど空回りで、加速してゆくのは焦りばかり。  その時だった。ガス爆発でもしたようなドゴーンと地鳴りが響き、ガラガラと音を立てて壁が崩れ落ち、人が一人通れるほどの穴が空いたのは。 「な、何だ!?」  砂埃が霧のように消え去ると、ニコニコの笑みが顔をのぞかせ、 「ヒカリ〜、助けに来ましたよ〜」  凛として澄んだ儚げで女性的なのに、どこからどう聞いても青年の声が、ゆるゆる〜っと語尾を伸ばして響いた。 「兄さん!」  マゼンダ色の長い髪をリボンで結わいている彼の名は、ルナス モーント ダディランテ。ヒカリの双子の兄である。あの大混乱の中で、なぜか腐れ縁の兄だけはこの星で再会し、二人でともに生きてきた。  こうやって、ヒカリが研究所に捕まるたび、ルナスがいつも助けてくれる。ただ、助け方に問題があるのだ。  慣れたように実験台のそばにある操作盤の前へ、ルナスはやって来た。人差し指をこめかみに当てて、困った表情をする。 「確かこの辺だったと……」  この、人を人とも思わず、さっきの研究者より、いや死神よりもタチの悪い兄。ニコニコしながら、平気で人を地獄へ突き落とす。何度この兄に痛い目に遭わされてきたのかわからない。ヒカリは拘束された身で必死に懇願する。 「わざと間違ったボタンを押すのだけはやめてくれ」 「おや〜? そんなことはしませんよ〜。うふふふっ」  兄の不気味な含み笑いが、弟の耳に入り込んだ。そうして、ヒカリはルナスの助け方にダメ出しを始める。 「というか、助けるなら、非常サイレンだけ鳴らせばいいじゃないか」 「念には念をです〜」  何を言ってものらりくらりとかわしてくる兄。しかし、未だにベッドにくくりつけられている弟は負けているわけにはいかない。言い返してやった、何が間違っているのかを。 「大きな音を立てたら、気づかれる可能性が上がるじゃないか。もう少し静かに助けてくれ。これじゃ、追っ手がつくのもの時間の問題――」  拘束がはずれたと同時に、ドアの外がにわかに騒がしくなった。 「何があった?」 「C89室だ」 「メシアの暴走か?」  壁破壊のせいで、逃走時間が大幅に短縮されていた。ヒカリはベッドから起き上がり床に足をつけて、さらにピンチに陥れようとしているとしか思えないルナスに向かって、珍しく吠えた。 「ほら、来たじゃないか! これじゃ、ミイラ取りがミイラだ」 「君の水のメシアを使うという手があります〜」  兄はいつもこんな感じで、弟は疑いの眼差しをやった。 「なぜ、兄さんが今話していたメシアの話を知っているんだい? しかも、水と断定するなんて」  理論的にありえないのだ。しかし、ルナスにとってはごくごく当たり前のことだった。 「先ほど、とある女性からうかがったんです〜」  破壊した壁へ急いで向かって行きながら、 「兄さん、その女の人には会ったことがあるのかい?」 「それが〜、どちらでも会ったことがないんです〜。ご親切な方が世の中にはいますね〜」  この緊迫した状態で、兄の珍回答を聞いて、ヒカリはあきれた顔をした。 「また知らない人の話を信じて……。それで正しいんだから、兄さんの特異体質も研究対象に十分なる――」 「ヒカリ〜、置いていきますよ〜」  ちゃっかり、鉄鋼を避けて、壁穴を潜り始めている兄を見つけて、 「助けに来たのに、置いていくなんて、意味がないじゃないか」 「おや〜? バレてしまいましたか〜?」  本気で置いていくつもりだったらしい兄のあとに続きながら、ヒカリはかがみこんで、研究所の外へ出た。 「なぜ、兄さんは失敗することを選ぶんだい?」  今も鳴り響くサイレンの中を、兄弟は進んでゆく。走りもせず、のんびりと。 「成功することはみんなが選びます。ですから、誰もしない失敗することが、本当に失敗するかどうか知りたいんです〜」  ある意味純粋な追求心を、さも正当と思わせるような言い訳だったが、このニコニコしている天使みたいな兄の腹黒さを、ヒカリは小さい頃から何度も目の当たりにしてきた。 「そうやって、何人兄さんは他の人を犠牲にしてきたてきたんだい?」 「おや〜? 人聞きが悪いですね〜。ぜひやってくださると言うので、お願いしたんですが、他の方が失敗だったと伝えにきて、その方にはその後一度も会えずじまいです〜。お礼をしたいんですが……」  人生失敗したら、死が待っている。それなのに、こんなことを言う兄。ヒカリのため息が冬の夜空に舞った。 「はぁ〜、ご愁傷様です……」  ルナスの極悪非道ぶりに圧倒されている暇はなく、追っ手が来る前に研究所からせめて外へ出たい。 「とにかく逃げないと……」  何度も逃走した場所。もう頭の中におおよその地図は入っている。ヒカリはルナスの先を歩いてゆく。すると、凛とした儚げな声が、背後からかけられた。 「ヒカリ、先ほどの水のメシアについての話ですが――」  兄は執念深い。弟よりもずっと。ヒカリは前を向いたまま、ブリ返された話をばっさり切り捨てた。 「兄さんの提案は聞かない」 「そうですか〜? 万が一、成功するということがありますよ〜。可能性はゼロではないんですから」  逃げているのに、緊迫感のないゆるゆるとした口調。それなのに、この青年は人生をうまく生きている。 「なぜ、兄さんは研究所の人間に捕まっても、いつも無事で逃げ出して、隠れ家に帰れるんだろうな? 僕と同じ環境なのに……」 「捕まりそうになると、必ず知らない女性が僕を助けたり、身代わりになってくれるんです〜」  他力本願という特異体質。本人が助けを求めていないのに、大きな運命でも働いているかのように、まわりが勝手に動いてゆく、強運なルナスの人生。 「兄さんは女の人がいるところなら、どんな過酷な状況でも生き抜いていくのかも――」  ブツブツつぶやいている途中で、とうとう追っ手が迫ってきた。 「いたぞっ!」  慌てて、建物の角を曲がったが、 「っ!」 「おや〜? 挟まれましたか〜。死生有命(しせいゆうめい)ということでしょうか」  ジリジリと前後から忍び寄る追っ手。ヒカリとルナスは背中合わせで対峙する。 「何、のんきなこと言っているんだい?」 「水は別世界への入り口だという話を以前聞いたことがあります〜。ですから、君が持っているメシアの力で僕たちは脱出です〜」  同じ話をまた持ち出す、執念深い兄。緊迫した状況のはずなのに、兄のお陰でまったくシリアスにならない。ヒカリはあきれたため息をつく。 「そんな非現実的なことを、兄さんまで言うなんて……」 「僕の特異体質で脱出してもいいんですが……。光がすぐに捕まってしまい、そちらを見知らぬ女性の力を借りて、僕が助ける〜というパターンからそろそろ抜け出したいと思いまして……」  星空が建物の間から見える外だというのに、何かの前触れみたいな無風。 「それが、僕のメシアに頼るだなんて。兄さんは神頼みよりも不可能なことを望んでいる」  猛吹雪を感じさせるほと冷たい表情で、ヒカリは言って返すが、ルナスはニコニコの笑みのまま、ああ言えばこう言う。 「何事もやってみないとわかりませんよ〜」 「僕は大体メシアなどという非科学的なものは信じていないし、たとえ信じていたとしても、どうやって使うのかも知らない」  ルナスはこめかみに人差し指を突き立て、小首かしげると、マゼンダ色の長い髪が肩からさらっと落ちた。 「そうですね〜? 念を込める」 「思い願うだけでは現実は変わらない――」  紺の長い髪を結わいていた細い紐がほどけて、急に中性的な雰囲気になってしまったヒカリ。長い髪の兄弟ふたりに、魔の手が迫る。 「生きていれば、何をしてもいい」  研究者たちの瞳には、人の命はもう映っていない。メシアという特殊能力――研究材料に踊らされ、目を血走らせている大人たち。  ヒカリは思い出す。聖書とかいう本に書いてあった(しゅつ)エシャロット記を。モーゼが奴隷解放を王に頼み続けたが、交渉は上手くいかず、海を割り奇跡を起こし、強引に王から逃げてゆくという話だ。  しかし、そんな非現実的なことが起きるはずもなく、いやそもそも期待もしておらずだが、今この時だけは起きてほしいと願うのだった。  生かして捉えられたとしても、どのみち殺される。自分の命を狙っているものから逃げようとしない者はいない。あの投下され続ける核兵器から逃げようとして、自分と同じように家族と離れ離れになった、他の子供は幸せで生きているのだろうか。  負の連鎖はいつどうやって起きて、どうやったら止められるのだろう。限られた情報しか与えられていないヒカリには答えは出なかった。  スタンガンの青白い光がバチバチと脅迫じみた奇声を上げて、近づいてくる。気を失ったら最後、次に目が覚める時は、あの世かもしれない。  その時だった。ヒカリたちが背中合わせで立つ横で、小さな扉が鉄の歪む音をさせながら開き、綺麗な女が顔をのぞかせた。 「こっちです!」  会ったこともない女なのに、ルナスはニコニコの笑みで、丁寧に頭を下げる。 「おや〜? ご親切にありがとうございます。ヒカリが先に行ってください〜」  このマゼンダ色の髪を持ち、天使のように見えるのに、悪魔も震え上がる振る舞いをするルナスに、ヒカリは疑いの眼差しを向けた。 「兄さんが譲るってことは、失敗する可能性が高いってことだろう?」  全身で白の服を着ているルナスを前にして、ヒカリは思う。誰が、白が善で、黒が悪と決めたのだと。それこそ、見た目に騙されて、本質を見落とす原因なのではと。色に善悪はそもそもないと。  語尾はゆるゆる伸びているのに、ルナスの言葉が極悪非道だった。 「疑心暗鬼ですよ〜。彼女は僕にしか眼中にありませんからね。僕が先に出てしまうと、無情にも君の前で扉はギロチンをするようにガチャンと閉まって、今日がヒカリの命日になってしまいます〜」  身も蓋もないことを言う。ある意味、一番の危険人物は兄である。  命が狙われていると言うのに、さらにそこに輪をかけて殺そうとする兄。あんまりな言動で、かえって緊迫感が薄れるというものだ。 「兄さんは人が死ぬことを楽しんでいるみたいだ」  いつの間にか硬直していた手足が逃走のために正常に動き出す。運動に向いてはいないが、瞬発力だけはあるヒカリは、研究者たちの意表をついて、横へぱっと飛ぶように向かった。 「っ!」 「あぁっ!」 「逃すな!」  ワンテンポ遅れて、追っ手が突進してくる。切羽詰まった状況でも、兄はのんびりとこんなことを言う。 「ヒカリ〜、話しながら走ると、舌を噛んでご臨終ですよ〜」 「言っているそばからこれだ」 「さぁ、君が先です〜」  とうとうたどり着いた、逃走路。素早くかがみこんで、ヒカリはそこへ出て、さらに遠くへ行こうと走り出そうとしたが、目の前に広がった風景に目を疑った。 「ここはっ!」 「ヒカリ〜、どうしたんですか〜?」  後ろからルナスが出てくると、扉はキキーと悲鳴を上げてしっかりと閉まった。青い月明かりが宝石のようにキラキラと地上で光り輝く。  遠くには赤や緑のライトがゆっくりと動いていて、ボーッという法螺貝(ほらがい)を吹いたような汽笛の音が聞こえる。 「……水平線が見える。兄さん、海へと続く排水溝だ」 「溺れなければ死にませんよ〜」 「兄さん、いつ泳ぎ方を教わったんだい?」  いいところに弟は気づいた。五歳でこの惑星に来て、モルモット生活。教育などされていない。 「おや〜? 気づかれてしまいましたか〜」  実の兄にも死亡フラグが立てられていた。というか、邪悪以外の何物でもない。騙して海に沈めようとしていたのだから。ルナスはマゼンダ色の長い髪をさらっと背中で揺らして、他の逃走方法を模索しようとするが、 「それでは別の道を――」  その時だった。ヒカリの背中が押され、 「うわっ!」  叫び声を上げると、大きなしぶき上げて、ザバーンと海に転落したのは。着ていた服が海水を含み重たくなり、塩辛い水が喉をヒリヒリさせる。紺の長い髪を海面に漂わせながら、ヒカリは極悪兄に振り返った。 「今わざと押しただろう?」  ルナスは否定もせず、涼しい顔をしてこんなことを言ってのける。 「えぇ、君には(いさぎよ)く死んでいただこうと思いまして。君が狙われていますから、君が死ねば狙ってこなくなるという寸法です〜」  弟を盾にして、逃げようとする兄。 「何のために助けに――」 「さぁ、ヒカリ、メシアを使ってください」  文句をさえぎれた挙句が、さっきからの非科学的要求だった。溺れそうになっている、言葉が巧みに操られている。他の人なら混乱するところだろうが、ヒカリはそうはいかない。 「兄さん、なぜ強引に話を進めてるんだい?」 「おや〜? 呉牛喘月(ごぎゅうぜんげつ)もしくは杯中蛇影(はいちゅうのだえい)でしょうか〜? ただ急いでいるだけです〜」  はぐらかしてうやむやにしようとする兄に、弟が詰めようとするが、 「何を企んで――」  さっきからやたらと被せ気味に言葉を発してくるルナスだった。人差し指をこめかみに突き立てて、小首をかしげる。 「困りましたね〜。少々手荒い方法ですが、潜在能力を引き出すためには、窮鼠(きゅうそ)猫を嚙むです〜。わざと追い詰めたんですが、こちらでは足りないみたいです〜。それでは次は即死の毒でも飲ませてみましょうか〜?」  研究者から逃げても、結局そこに待っていたのは死だった。溺れないという研究結果が出ていても、海水は飲むのだ。 「ぶつぶつ言っていないで、助けてくれ」 「こちらのようにしてみましょうか〜?」  弟の意見は亡き者にして、 「っ!」  ルナスはジャバーンと海面に白い服を浸した。 「兄さんまでなぜ、海に飛び込んだんだい?」  いつもニコニコしている兄の表情は、今はとても真剣で、声色もトーンが下がっていた。静かに、少し苦しそうに言葉を紡ぐ。 「ヒカリ、僕はもう疲れたんです。こうやって逃げる日々に。君と兄弟でいられたことは地獄へ行っても忘れません」  遺言――最後の言葉を残してゆく兄。五歳で両親とはぐれ、実験台にされそうになっては、知らない女に助けられる月日。さすがのルナスも心を病んでいたのか。  ――とは、弟はだまされなかった。惑星が粉々に砕け散ったとしても、この兄だけはしぶとく生きているだろう。それは間違いない。 「兄さん、いきなり何の話だい?」 「さよなら、ヒカリ……」  しかし、今回はどうも冗談ではなく、見知らぬ女が助けに来る気配もなく。ルナスはゴボゴボと泡を立てて、海底に向かって沈み始めた。 「兄さんっ! 兄さんっ!」  ヒカリが手を差し伸べても、無情にもそれをすり抜け、マゼンダ色が海の青に染められて、紫色へと変わってゆく。張り付いている服が手足を拘束して、助けようとすることを邪魔する。そうして、無慈悲にも時間切れ――大人たちの大声が響いた。 「いたぞ!」  時間がない。四面楚歌。孤立無援。気息奄々(きそくえんえん)。 (兄さんを助ける。研究者から、いやこの惑星から逃げる。ふたつを叶える方法……? 可能性の数値が低くても、これが一番成功する可能性が高い)  神経を研ぎ澄ますため、水色の冷静な瞳はそっと閉じられた。ヒカリは呪文のように何度も心の中で必死に繰り返す。 (水……が流れてゆくように、どこかにたどり着いて……)  防波堤でせき止められていた海面は波をほとんど作っていなかったが、不意にぐるぐると渦潮を作り出した。ヒカリとルナスのまわりに水はなくなり、青白い光が兄弟を包み込む。 「な、何だ?」  どよめく研究者たちも放り出して、ヒカリは心の中で、イメージを形作る。水のメシアを使おうとして。 (流れてゆくように、どこかにたどり着いて……)  青白く輝く雪のような水滴が、天へ龍が登ってゆくように舞い上がる。ヒカリとルナスの体も光に包み込まれて、海からまっすぐ上へと浮き上がってゆく。天と人が結ばれる神柱(かみばしら)のようだった。 (たどり着いて……!)  逆巻く風の中で、ふたりの長い髪はゆらゆらと空へ向かって揺れていたが、やがて夜という裂け目から光が突然差したように、あたりを真昼よりも明るくして、大人たちは思わず、腕で目を覆った。 「うわぁぁぁっ!?!?」  大波が堤防で砕けるように、ザバーンと全身に浴びると、寝耳に水でも入れられたように、我に返った研究者たちは目を開けた。  すると、あの幻想的な青白い光も、ヒカリとルナスの姿もどこにもなく、夜の海が少し荒れたように広がっていただけだった。 「どこへ行った?」 「メシアの力か?」 「探せ!」  遠くの汽笛が何かの始まりを告げるように、ボーっと大きく響き渡った――
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