飛び水はオアシスへ

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飛び水はオアシスへ

 全身を包んでいた青白い光のまぶしさから解放されると、人々の感嘆はどこにもなかった。  ジリジリと灼きつける夏の日差しも乾いた風もなくなり、目を開けなくとも、ヒカリは別の世界へまた来てしまったことを感じ取った。  いつの間にか閉じてしまったまぶた。目を開けた向こうにはどんな世界が広がっているのかと思うと躊躇する。そうっとゆっくり視界が広がると、真っ白な天井に今はついていない電気が大きな円を描いていた。 「今度はどこだ?」  上半身だけで起き上がる。すると、毛布と掛け布団が体を滑るように膝へと落ちた。冷静な水色の瞳で自分の体を見下ろす。濃紺――ネイビーのツルツルとした生地を全身にまとっていた。  肌寒さを感じるが、人の気配がするわけでもなく、何度も殺されかけた実験室でもない。昔々、まだ両親と暮らしていた頃まで記憶をさかのぼって、ヒカリは答えを見つけた。 「ベッドに普通に寝てる?」  本棚と机の上にある電気スタンド。何の装飾もない白い壁と黒いドアがひとつ。自分の部屋のようだった。  床の上に両足を垂らし、少しだけ立ち上がると、窓にかけられた遮光カーテンを開けた。色あせた青空が見え、スズメがちゅんちゅんと楽しげに歌い、隣家の屋根が静かな海のように広がっていた。    見下ろしたアスファルトの上で、ゴミ捨てをする人の脇を自転車に乗った人が通り過ぎてゆく。当たり前の平和な日常。押しつぶしそうな空中道路も耳鳴りするような車の走行音もどこにもなかった。    実験台として捕まえられる子供の存在を、絶望という黒いペンキで塗りつぶすような高層ビル群。ダウンタウンと化した街は、朝が来ても日陰ばかりで、まともな太陽に出会えたことはなかった。  腐臭ばかりが漂い、有害だと判断した体は自然と呼吸を浅くした。しかし、今は体の隅々まで新鮮な空気を吸えるような、すがすがしい気分だった。  青い絵の具で塗った空に電線の黒く細いラインが時々茶茶を入れる。建物の群れの谷間で、朝焼けのオレンジ色が目に染む。直射日光に目をくらませて、ヒカリは自分の居場所を模索する。 「カナリラ星じゃないのか……」  いつまで外を眺めていても、時は平和に流れ、太陽は人々を優しく照らし出す。不意に冷たい風が吹いて、ヒカリは窓を慌てて閉めた。  肩を両手でさすりながら振り返ると、壁に張り紙がしてあった。 「あれは……?」  裸足に床の冷たさが広がるが、ヒカリにとってはどうでもいいことで、とにかく自分の飛ばされてきた世界の情報を手に入れないと、何か起きてからの対処ができない。 「現国? 数学? 倫理? 何かのスケジュールだろうか?」  見慣れない文字を読んで首をかしげると、ハンガーにかけられた洋服が目に入った。黒のトレンチコート。それから、何かはわからないが、グレーと赤のストライプで紐のようなものがかけられている。 「これは……制服というものだろうか?」  五歳で人権は踏みにじられ、学校に通う前に平和な日々はなくなった。ガラス窓のそばを通り抜けてゆく、風のひゅるひゅるという音がどこまでも平穏で真新しかった。  その時、部屋の扉がノックされた。ドアの向こうに危険が待っているかもしれないと、一瞬体は硬直した。 「はい?」  黒いドアを真正面にして一人対峙する。また体の自由を拘束する何者かだろうか。少しの間身構えていたが、凛とした澄んだ女性的でありながら少年の声がゆるゆる〜と返ってきた。 「ヒカリ〜? 入りますよ〜」  弟はほっと胸をなでおろし、 「兄さんも一緒だったんだな。本当に腐れ縁だ」  ドアが開くのを視界の端で捉えながら、部屋を見渡した。 「ここはどこなんだろうか?」  何冊かの本を抱えたルナスは、モヘアのようなピンクのモコモコしたパジャマ姿で弟の隣へやってきた。 「起きてから、いろいろ探してみたんです〜。こちらを見てください」 「……歴史?」  ヒカリは表紙の文字を読んだが、中身と用途がわからず首をかしげた。 「学校で教育を受ける際に使われる教科書というものです〜」  通り過ぎてきたふたつの世界では、無縁の本。教科書を手にしたまま、ヒカリは導き出した答えをつぶやいた。 「また違う世界に来たみたいだ」 「そうとは言い切れないんです〜」  ルナスの声で、ヒカリは本から視線を上げた。 「どういうことだい?」 「この本の五十一ページ、十七行目に書いてあることが原因みたいなんです〜」 「原因……?」  兄に言われた通りの箇所を開き、ヒカリは書かれた内容を読み始めた。 「クズリフ教の改革派と保守派で九年間続いた紛争は、改革派の教皇、リンレイ メデューム サシュレの立憲君主制の導入や外交問題の解決により、終結し二度と勃発することはなかった」  さっき過ごしてきた時の中で、見聞きしたものが歴史教科の最初のほうに載っている。こんな時間軸がおかしな出来事に出くわしたことなど今までなかった。理論的に説明がつかない。 「僕が……」 「え……?」  ルナスの声につられて顔を上げると、兄は窓の外をじっと眺めていた。葉がすっかり落ちた木々の枝が風に寒々と揺れる。 「僕が君を、カナリラ星の研究所から助ける前に、とある方からいただいた本が、以前住んでいたスティニ惑星で使われていた歴史の教科書だったんです」  一緒に移動しなかった本の中身は、兄の精巧な頭脳の中にきちんとしまわれていた。 「そちらにはこう書いてあったんです。改革派と保守派で九年間いさかいが起きていたが、百九一年八月に、第一次東西聖戦争が勃発した」 「八月? 夏!」  あのジリジリと燃える太陽。乾いた風。湿った緑の匂い。虫の音。それらがまるで今目の前にあるように、鮮やかに蘇った。  そのあとに続くルナスの声は、凛として澄んだ儚げな響きだったが、いつもと違ってどこまでも物悲しげだった。 「その後は戦争の歴史といっても過言ではありません。元は同じクズリフ教ですが、いくつもの宗派に分裂し、それが原因で常に戦いは起きていました。そして、それはとうとう核戦争へとつながり、僕たちはスティニ星から脱出せざるを追えなくなったんです」 「幼くてわからなかったけれど、宗教間の争いだったんだな。それじゃ……」 「えぇ、僕たちが歴史を変え――」  綺麗に話をまとめようとしたルナスを、ヒカリが素早くさえぎった。 「それは置いておいて、兄さん、世界移動した時、最初の戦争だと気づいて、わざと別々に捕まったんだな?」  あの戦場の真ん中での有無を言わせない、不自然な言葉の数々がヒカリの脳裏に鮮明に浮かんでいた―― 「僕たちがヒーローになるかもしれません〜」 「シャアアアアアッッ!!!! はい、そこまでですっ!!」 「平等です! 僕がこちら、君はそちらです」 「黙らっしゃいっ!!」  ――自分と同じレベルで会話ができる頭のいい兄。確かに運の強さで生きているところはあるが、理論はそこにきちんと根付いている。ルナスは「うふふふっ」と不気味な含み笑いをして、 「おや〜? バレてしまいましたか〜」  ニコニコの笑顔をしおどけた感じで言った。シャンと鈴を鳴らしたような清楚な声で、戦場へと飛ばされた時、弟の話を聞きながら何をしていたのか語り出した。 「歴史の教科書通りとは限りませんが、状況から判断して、第一次東西聖戦争の戦場である可能性が高いと判断したんです」 「それに関しては理論的に説明がつく。でも、水のメシアが逃げている時に使えるってどうやって判断したんだ? これは説明がつかないじゃないか」  兄と同じように頭のいい弟は矛盾点を突きつけた。すると、ルナスは別の本を差し出した。 「こちらの本もいただいたんです〜」 「……世界メシア全集?」  辞書のような厚さの本を前にして、ヒカリは古びた表紙をめくる。ルナスは空に居残ったままの白い月を見上げた。 「潮の満ち引きは月の引力と関係していると知っていますね?」 「そういうことか……」  それだけでヒカリは、兄が何を言わんとしているのかわかった。これも、あの教皇のお陰なのだと思う。何事にも意味がある――自分たちが双子であるということさえも。何もかもが神が計算しつくした大きな運命の中だったのだ。ルナスは「えぇ」と短くうなずいて、 「月のメシアを持っている僕がそばにいれば、ヒカリの水の力は強くなる。と考えるのは普通ではないでしょうか〜?」  同じ物事を見ても、そこから導き出す可能性は人それぞれ違う。兄の計算の仕方に弟は物言いをつけた。 「あくまでも可能性の問題だ。絶対じゃない。兄さんの運の強さも神様からの贈り物なんだな」  まったくもってその通りだった。ルナスが小脇に抱えていた本を抜き取ると、マゼンダ色の長い髪がゆらゆらと揺れた。 「それから、このようなものが部屋の本棚にあったんです〜」 「宗教と戦争……」  次々と手渡される本。ヒカリは神経質な指先で、後れ毛を耳にかけながら、ぺージをめくった。まぶたにいつも隠されているヴァイオレットの瞳が姿を現し、平和な街並みを窓から眺めた。 「歴史研究家の方々の論文集です。僕たちが居合わせた戦争が起きていたら、世界は崩壊の危機を迎えていたかもしれないという見解が圧倒的でした」  もしそうだったらという世界は存在しない。しかし、それを踏まえたとしても、世界の行く末を大きく左右する場面に、兄弟は神の力によって飛ばされたのだ。  そうして、最後の一冊をルナスは差し出した。ヒカリは開いていた本を素早く閉じて、その題名を読む。 「奇跡の一生……?」  今度は宗教研究家による論文のようだった。 「そちらにはこんなことが載っています〜。リンレイ メデューム サシュレは一生涯独身で通したそうなんですが……」 「結婚しなかった……!」  ヒカリは嫌な予感がして、冷静な水色の瞳は少しだけ見開かれた。ルナスは振り返って、弟に意味ありげに微笑む。 「戦争終結の翌年に子供を産んだそうです〜。処女 懐胎(かいたい)と認識され、さらに人々から尊重を得たという話です〜」  たった一週間だったが、数々の夜が脳裏を駆けめぐり、ヒカリは盛大にため息をついた。 「僕の子供だ……。複雑な心境だ」  医学的に考えたら、それしかない。しかし、認知も権利も、すでに時効である。後悔しても始まらない、ヒカリは冷静な頭脳でささっと片付けた。 「でも、もう大昔のことだ」  ルナスから渡された本をヒカリは全て返して、こんな言葉を口にした。 「それにしても兄さん、歴史の教師みたいだ――」 「うふふふふふふっ」  ニコニコのまぶたにヴァイオレットの瞳は隠され、いつもよりも長々と含み笑いをしていた。神経質な手の甲は瞬発力抜群というように、中性的な唇にパッとつけられ、くすくすと笑い出し、 「…………」  それきり何も言えなくなって、肩を小刻みに揺らし、ヒカリなりの大爆笑を始めた。いつまでも笑い合っているふたりは、なぜか十六歳の兄弟ではなく、ピアニストと小学校の先生のように見えた。  ふと階下から、優しげな女の声が響き、 「ヒカリ〜? ルナス〜? 朝よ、起きなさ〜い」 「ふたりとも遅刻するぞ」  遠い昔に聞いたことがある男の声が聞こえてきた。もう一度聞きたいと何度も願ってきたが、今ようやく叶い、ヒカリの視界はゆらゆらと涙で揺れた。 「父さん、母さん……。四人で今も暮らしている……」  取り戻せないと思っていた平和な日々が、何の予告もなく目の前に広がっていた。ルナスはヒカリのそばに寄って、身を切り裂くような逆風が吹く中で兄弟ふたりで生き抜いてきた日々を振り返る。 「僕たちが行った世界は異世界ではなく、以前暮らしていたスティニ星の過去だったみたいです。そうして、僕たちは歴史を変えてしまい、その未来に戻ってきたみたいです〜」  時空という水面に波紋を残す飛び石ならぬ、飛び水は癒しの象徴であるオアシスへとたどり着いていた。  同じ時代には生きてはいないけれども、その部分だけ取り出して並べた時、リンレイが懸命に采配を取っている姿がはっきり浮かんだ。本の内容を伝えただけで、未来を大きく変えた少女を、ヒカリは誇りに思った。 「彼女こそ、神の御使だったのかもしれない。もう会うことは――」  しかし、のどがしめつけられて、涙で急に視界が歪み、神経質な頬を伝い始めた。苦しい胸の中で続きを綴る。  ――もう会うことはできないけれど、君に会ってお礼を言いたいんだ。君がいたから、今の僕が平和な日々を送れているんだと……。できることなら、あの時代の変革を隣で見ていたかった――  たくさんの人の幸せで平和な未来のために、自分の心は置き去りのまま。それでもいいと願ったから、今がある。そう割り切ろうと思ったが、ヒカリはなかなかできないでいた。     *  家族そろっての朝食も終え、制服のネクタイ結びに奮闘し、暖かいコートとマフラーに身を包んで、教科書やノートを慣れないながら入れたバックを、ヒカリとルナスは肩にかけて、玄関から外へ出た。 「行ってきます」 「行ってまいります」  紺とマゼンダ色の髪がお辞儀をして肩から落ちると、玄関の中で寄り添っていた両親が、笑顔で手を大きく振った。 「行ってらっしゃ〜い!」  住宅街の真ん中で、通勤や通学の人々が歩いたり自転車に乗って近づき遠ざかってゆく。ヒカリたちにとっては真新しい日常。あらかじめ携帯電話で試行錯誤しながら探した学校へと、兄弟で歩き出す。  グレーのマフラーを見よう見まねで首に巻いたヒカリは、手触りを味わいながら、 「学校ってどんなところなんだろう? 兄さ――」 「おや〜? ご親切にありがとうございます〜」  お礼を言っている凛とした澄んだ声を聞いて、ヒカリはあきれた顔で振り返った。そこには、知らない少女からプレゼントを受け取っている兄がいた。 「兄さんの特異体質だけは、時空移動しても治らないんだな」  狂った研究者ばかりのダウンタウンよりも、平和な住宅街は豊かで、ルナスが歩くたびに品物は山のように増えてゆく。  持ちきれなくなると、今度は荷物持ちの人が現れるという、不思議な現象が起き続けていた。しかし、ヒカリにとっては驚くに値しなかった。兄ときたら、逃亡ばかりの日々なのに、初対面の女からよくプロポーズもされていたのだから。  学校の校舎が見えるくらいに近づくと、ヒカリとルナスのまわりで黄色い声が上がり始めた。百九十七センチの長身。そんなふたりの少年が通り過ぎると、色白の滑らかな肌の後ろから、同じ学校の女子生徒が何人かで興奮気味に話し出した。 「きゃあ! 朝から素敵!」 「双子王子に会えるなんて!」 「やっぱりかっこいいよね〜」 「ふたりのあの中性的な美しさが、朝日よりまぶしい!」  夢見がちに両手を胸の前で組んで、ダディランテ兄弟を見送っていた。ヒカリは浮かれることもなく、あごに手を当てて、途中から突如始まった高校生活のために、情報収集をして、頭に記憶してゆく。 「兄さんは昔から、女の人に声をよくかけられていたから当たり前だけど、僕もモテるとは知らなかったな。恋愛とかできるような世の中でもなかったし……」  学校もなく、殺されかける毎日。自分の身を守ることで手一杯。他の人に興味を持つ余裕のない人生だった。  紺の長い髪が冬の風に吹かれ、背中に流れ落ちる。中性的な唇から寂しげな遊線が螺旋を描く声がもれ出た。 「王子……姫……教皇……。誰かと恋愛? 彼女とのことはどうやって清算すればいいんだろう? 僕も一生独身になりそうだ」  クルミ色の瞳を持ち、ブラウンの長い髪が鎧の上で、堂々と揺れる様が今目の前にいるように思い浮かび、朝聞いたリンレイの生き方が今さらながら、ヒカリにも痛いほどわかった。  冬の空気に白い吐息が混じると、女子生徒たちの残念そうな声が聞こえてきた。 「でもね?」 「しょうがないよ」 「ラブラブだもんね〜」  さっきまでの盛り上がりが嘘のように、少女たちは名残惜しそうに、紺とマゼンダの長い髪と、すらっとしたふたつのシルエットの違う黒のコートを眺めていた。  その視線を感じながら、慣れない日常を考えようとすると、 「どういう――」 「ヒカリくん! おはよう!」  元気な少女の声があたりに響き渡った。 「ん?」  自分を呼ぶ人がいる。しかも、名前で。いつも番号だった。戸惑いの嵐に見舞われ、返事を返さないでいると、すぐ斜め後ろで、さっきと同じ少女の声が不思議そうに聞こえた。 「あれ? ヒカリくん!」 「ヒカリ〜、呼ばれていますよ〜」  どこかの国の王子が買い物にでも行ったように、今やなってしまっているルナスのAラインのコートはヒカリの方へ揺れ動いた。 「ルナスさん、おはようございます」  ピンクのポンチョコートを着た、赤茶の髪と黄色の瞳をした少女が、兄の向こう側でにっこり微笑んでいた。驚いた時に必ず言う口癖を、ルナスはしたが、 「おや? おはようございます〜」  あっという間に馴染んでしまっている兄。仲良く普通に話し出したルナスと少女はまるで恋人同士のようだった。  ヒカリはあごに当てていた手を解いて、 「誰が?」  振り返ると、クルミ色の瞳で、ブラウンの長い髪をした少女が自分の顔をのぞき込んでいた。 「どうしたの? ルールはルール。順番は順番。挨拶は大切だっていつも言ってるのに、返してこないなんて、珍しいね」  ダッフルコートと巻き慣れたマフラー。チェックのミニスカートに紺のハイソックス。黒のローファー。服装はまったく違うが、どこからどう見ても、クズリフ教の教皇だった。  ヒカリは思わず息を飲み、珍しく言葉をなくした。 「君は……」 「ん?」  少女にとっては、昨日の今日で、毎朝の習慣なのに、おかしな反応をしている男子を前にして、まぶたをパチパチと(しばた)かせた。  ヒカリにとってはさっきの出来事だ。しかし、少女は知らない素振り。ちょっとした混乱状態になって、彼は思わずこう言ってしまった。 「あ、あぁ、初めましてだろうか?」  冬の日差しを頬に浴びて、少女はさらに不思議そうな顔をした。 「どうしたの? どこかに頭ぶつけたとか? 全て覚えてるヒカリくんが記憶違いだなんて……」  ヒカリは慌てて首を横に振って、この世界の日常に身を預けようとした。 「あっ、あぁ。いや、何でもないんだ。おはよう」 「もう少しで冬休みだから、今日も寒いね」  少女は手に息を吹きかけて、隣を歩き出した。ヒカリの黒い革靴は歩幅の長さであっという間に追いついて、 「…………」  物思いにふける。隣にいる少女の名前は何なのだろうか。本人に聞いては、さっきと同じ反応をするだろう。  そうして、ヒカリにとって最大の疑問は、思春期を何の障害もなく生きていける十六歳の少年らしいものだった。 (この世界の僕と君の関係はどうなっているんだろう?)  あごに手を当て、再び思考のポーズを取る。冷静な水色の瞳には正門へと入ってゆく他の生徒たちが遠くのほうに映る。  左隣では兄ともう一人の少女が、何の支障もなく楽しげに会話をしているのがかすかに聞こえる。  右隣を歩いている教皇にそっくりの少女を視界の端に映す。手をつなぐわけでもない。あとはどんなことで、お互いの関係性を探れるのだろうか。  いつまでも黙り込んでいるヒカリに、少女は何か思いついたように言った。 「あぁっ、もしかして! 様子がおかしいのって……」  情報を手に入れるのなら、疑問形が基本。冷静な頭脳で、ヒカリはポーカフェースで聞き返した。 「何だい?」 「今日も、クズリフ教のお祈りしてこなかったでしょ?」  今も続いている古い宗教。 「何のお祈りだい?」 「またとぼけて」  少女は表情を渋らせて、ヒカリの右腕を軽く叩き、言葉を続けた。 「目に見えない非科学的なものは信じないって言い張って、メシアの力は神様からの贈り物だからって説明しても感謝しないから、うまく使えるようにならないんだと思うんだけどなぁ〜」  デジタルな頭脳に浮かび上がる。夏の夜が広がるバルコニーで、教皇として自身に教えてくれたことのひとつが。  ――神からの贈り物なのだろう。  この頭の良さを当たり前だと思わないように、新しい考え方を知った時だった。彼女の生まれ変わりかは知らないが、同じ人物だと願いたい。  唇にかかった紺の髪を神経質な指先で払う。 「神様からの贈り物……」  メシアがあったからこそ、少女に出会って、世界の未来は変わって、今自分はここに無事でいる。時空移動をすることがなければ、今も感謝などせず、ずいぶん傲慢に生きていたのかもしれないと深く反省する。  少女は人差し指を突き立て、わざとらしく声を低くした。 「ヒカリくんがいつも言ってる事実と可能性で説明しよう。メシアという力はすでに事実として確定してる。だから、それを否定したら、理論的に矛盾が出る。でしょ?」  双子が凶事だと信じていた保守的な教皇と、話した自分の言葉が鮮明に浮かび上がる。  ――すでに存在しているという事実が起きている。それを否定したら、理論的に説明がつかないじゃないか? 矛盾が生じる。  偶然なのかもしれない。しかしそれでも、少女が自分の話したことと似たようなことを言っているということが、肉体は違ったとしても心が今もそばにいるようで、ヒカリは嬉しかった。 「教えてくれてありがとう」  冷静な水色の瞳の中で、少女は疑いの眼差しを向けた。 「あれ? ヒカリくんが素直に認めるなんて、やっぱりどこかに頭ぶつけたんじゃないの?」  いい思い出として浸っていたのに、ぶち壊しなことを言われて、ヒカリの滅多に見せない陽だまりみたいな暖かな雰囲気は一気に、氷河期のようになった。 「失敬だな、君は」 「勝ち負けにこだわるところは子供だよね」  少女は少しだけ微笑んで、さっさと歩き出した。そうして、ふたりの言い争いが始まる。 「君だって子供じゃないか」 「どこが?」 「悩んでたことがあっただろう?」  疑問形。それが情報収拾の罠だとは気づかず、少女の黒いローファーはアスファルトの上で歩みを止めた。どんな返事を返してこようとも、ヒカリにはやりようがある。 「ん〜〜、女の子らしくないって話だよね?」  予想した通りだった。さっきから教皇と話した内容を言ってくる少女。悩みも同じという可能性は自ずと出てくる。ヒカリは「そうだ」とうなずいて、表情を曇らせている少女――いや教皇にもう一度伝えた。 「君の個性で素敵なのに……」  クルミ色の瞳はこっちに向いて、世界で一番大切な宝物でももらったように微笑んだ。 「あぁ、それはありがとう。言われた時嬉しかったよ」  同じ話を前にした時、教皇はこう言った。  ――すてっ! そ、そうか。褒め――いや、指摘してくれたこと、感謝する……。  もうわかった、自分たちのこの世界での距離感が。ヒカリはふと立ち止まり、少女へとかがみ込んだ。紺の長い髪が世界をふたりだけに切り取る。あの時言えなかったことを伝えよう。 「――好きだ、僕だけの教皇さま」  少女は後ろへ下がるわけでもなく、怒るわけでもなく、ヒカリの言った言葉のこの部分に引っ掛かりを覚えた。 「教皇さま? それって、宗教の一番上に立つ人で、戦争も政治もする人のことだよね? 何でそんな言葉が急に出てきたの?」  スルーしていったところは、すでに言っていて、知っているということだ。ならば、教皇と一度もできなかったことを、ヒカリは叶えようと思った。 「僕と手をつないでくれたら教えるかもしれない」  神の御使と教皇だとまわりから思われている日々。節度を持って接していたからこそ、神の御言葉は人々に現実味を持って伝わり、信じられたのだ。だからこそ、ふたりきりになる夜以外は何もなかったのだ。  少女の小さな手は、細く神経質な少年の手を優しくつかんで、 「あぁ、うん。やっぱり気のせいだった? いつも通りだ」  学校へと再び歩き出した。ルナスともう一人の少女も手をつないで、双子王子は女子生徒たちの憧れの眼差しを浴びながら、正門へ近づいてゆく。 「ねぇ?」  ヒカリは急に右手が引っ張られた。 「どうしたんだい?」 「何回も言ってるけどさ。やっぱり、ヒカリくんはずっと昔にどこかで会ったことがある。そう思う。こうやって触れるたびにさ」  神はやはりいたのだ。輪廻転生という運命の歯車の中で、自分と彼女を再び出会わせることができるのは、神しかいない。  たくさんの人のためにと思ったが、人である自分は弱く、見返りを期待する。しかし、平等に神は幸せを与えてくれたのだと、そんな考え方ができるようになって、例え自分にしか記憶が残っていなくても、ヒカリは素直に同意した。 「僕もそう思うよ」  右手は今度強く引っ張られて、少女は再びいぶかしげな顔をした。 「ん? やっぱり変だな。いつも、僕の記憶にないんだから、それはおかしいって言い張るのに」  以前の自分だったら、きっとそう言っていただろう。理論ばかりで柔軟な発想はなく、一生終えたのかもしれない。しかし、もう変わったのだ。ヒカリは紺の長い髪を揺らして、無理やり歩いて行こうとした。 「いいんだ。今日はおかしくて。僕だけの教皇さま」 「だから、どうして教皇さまに――!」  少女はやっと気づいた、話がそらされていたことを。小走りになって、神経質な横顔を見せるヒカリに食いつく。 「手つないだら、理由を教えてくれるって言ったよね? また罠で巻こうとしたでしょ?」  冷静な水色の瞳はゆっくりと横に揺れた。 「それは君が間違っている」 「え、どういうこと?」  神が与えしデジタル頭脳が披露された。 「今から十一個前の言葉は僕で、『僕と手をつないでくれたら教えるかもしれない』だった。だから、教えないかもしれないだろう?」  少女はやられた的に頭を抱えた。 「また可能性〜〜〜! うぅ……」 「僕の勝ち」  まだ勝ち負けにこだわっていた十六歳の少年を前にして、少女は大人なびた顔をした。軽く返事を二回して、一緒に門をくぐる。 「はいはい。でも元気でよかった」  あとからついてきたルナスは、荷物持ちの人たちに住所を言い渡して、プレゼントは学校の正門から家へ向かって運ばれ始めた。 「シルレ、僕たちも行きましょうか〜?」 「はい、ルナスさん」  可愛らしい声が響くと、ルナスは今まで弟が話していた内容から可能性を導き出した。 「君は教祖ということでしょうか〜?」  すると、どこかとぼけた顔の少女からこんな言葉が返ってくるのだった。 「どこを走るんですか?」 「うふふふっ。競争に話を飛ばしたみたいです〜」  マゼンダ色の長い髪が揺れる前で、ヒカリは綺麗に晴れ渡る冬空を見上げる。  ――僕たちがいた過去はどこかに今も存在しているのだろうか。それはわからない。でももしも、僕たちが体験した核戦争の末に惑星消滅という未来へ続く時空があるのなら、そこへたどり着かない選択肢を選びたい。いや選んでほしい――  朝の予鈴が鳴り響く中で、銀の飛行機が空に白い線を引いて遠くへ飛んでゆくと、画面はすうっと暗くなり、  =CAST=  ヒカリ ヴァッサー ダディランテ/光命(ひかりのみこと)  ルナス モーント ダディランテ/月命(るなすのみこと)  リンレイ メデューム サシュレ/倫礼(りんれい)  シルレ メデューム ルトゥリック/知礼(しるれ)  白字も全て消え去った。fin――――
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