De Angelis - デ・アンジェリス(天使) -

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 二人の間には自然と、距離と溝ができていた。イレネオは少しだけ以前の平穏な日々を取り戻した気がしたが、どうにも心に(もや)がかかったままだ。  (しゃく)()に来客はなく彼には親族もない。ああいった厄介な男を相手にするとき叔父ならどうしただろうか? と、ふと考えた。  父の弟は、地中海のすぐ近くの町で働いていた。孤児院の職員だったと記憶している。  そうだ、あのエットーレ・クリスタルディは幼子そのもののような男。きっと叔父ならば上手く接することができただろう。  もうその人もいない。  原因不明の火事に巻き込まれたという。  義理堅く情に厚い()()だった。年の節目や祝い事には毎年カードが届いていた。イレネオは今もそのカードを大事にとっている。そしてこのハンカチも……  やわらかなタオル地にD.Aの刺繍。彼らの苗字が入ったハンカチは叔父からの贈り物(プレゼント)だった。彼も同じ物を使っていると話してくれていた。  思えばこのハンカチ、エットーレ・クリスタルディに踏みつけられた物だった。幸いにも洗ってしまえば汚れは落ちたが……ああ、あの男のことを考えると、また胸がむかむかする。  何度思い返しても無礼な振る舞いに感じるが、自分こそ過敏になりすぎていたのだろうか。たかが水兵帽くらいにむきになるなと? だがエットーレこそ感情に左右されていたではないか。  激情に駆られ、いつだって本能のまま振舞ってきたに決まっている。以前からその(へん)りんをのぞかせていた。  昼も夜も動物的な美しい青年。  ()()()()()()と自称した彼は、そのけのないイレネオにいとも簡単に火をつけた。  以来、彼の心の中では信じられないことばかり起きている。  テーブルと揃いの椅子に腰かけ天を仰ぐ。四脚あっても結局使うのは一つだ。手で顔を覆うと指先で髪の生え際が汗ばんでいることに気づいた。これは夏のせいなどではない。  嫌な汗が、あの昼間の出来事を思い出させる。よみがえってくるのも相手の汗の匂いだった。体の内外から惜しみなく放出される妖気も同然の色香。瑞々しく光る肌……薄桃に染まって。  イレネオは無意識のうちに窮屈に感じていた。火種が(くすぶ)り、導火線へ引火しようとする。彼は早急に抑えるべく浴室で頭からシャワーを浴びるはめになった。  浴室の鏡に額を押しつけ(こうべ)を垂れる。重苦しく不恰好な音をたてた水滴がタイル張りの床で次々と潰れていく。  こんなふうに奴も水を滴らせていた。足の間からイレネオを見上げる、あの顔……熱はまだ引かない。自分はどうかしてしまったのではないか? とイレネオは危惧した。今こそ、叔父の助言がほしい。
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