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このD.Aという刺繍にいったいどんな意味が含まれているというのか。イレネオは頭を悩ませた。なにせ自分は生まれてから今まで一度だって名字が変わったことのないのだから。
刺繍を見つめていると糸のほつれに気がついた。爽やかなエメラルドグリーンのタオル地の大格子柄。色も模様も叔父と揃いのもの。そのDの部分から、ちょろんと出た糸を生地まで切らないよう注意しながら鋏で切る。
どれほど刺繍を凝視しようとも何の変哲もないただの名字に潜む謎は解けなかった。
彼のデ・アンジェリスという名字は、イレネオの故郷では、あまりにありふれている。
もう一度席に戻り左肘をつくと親指で下唇を押し上げる。それがイレネオが思い巡らすときの仕草だ。
画面の中にいる自分を見つめ返し、「答えは出そうにないな」と視線をわずか右へずらして目を逸らす。次に目にしたテーブルの木目もまた人間の目のようだった。
不気味だと率直にイレネオは思った。
エットーレ・クリスタルディという男は不気味だ。イレネオが今じぃっと見ているテーブルの木目も。焦げついたかのような黒黒とした模様は脚本家の片目を彷彿とさせる。
あの瞳はいつもイレネオを凝視していた。ただ見ているだけでは辛抱できず。その眼差しは矢で射抜くよう、槍で突くよう。そんな鋭さがある。
いかなる時も熱を放出していた。そう、白昼の嵐のあのひとときでさえ。彼はイレネオを見ていた。
まだ陽の高いうちの出来事がイレネオの脳裏にまざまざと蘇る。汗と欲まみれの時間。幾度も視線が出会い、身も心も交ざりあっていた。
髪の生え際から汗が吹き出してくる。体の内側が熱に耐えられなくなっていた。イレネオが手荒く自らのチョッコラータ色の髪を掻き上げる。いくつかの束になった湿り気のある毛先がはらはらと戻ってくる。
「………くそったれ……‼︎」
口許を歪めてイレネオが毒吐く。勢いのまま放った言葉が玉の形になった唾とともに飛ぶ。
煩わしかった。
あの男のせいでイレネオは自分ばかりが掻き乱されている気分だった。
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