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不本意ながら――おそらく相手は――連絡先を交換したもののエットーレからは謝罪の言葉を寄越す気などなかった。もちろん音沙汰もなし。この男、例の脚本家。
自らの正体を幾度となく偽ってきた青年はまたも癇癪玉を爆発させてしまった。いいや違う。エットーレに言わせるならば、ただの暴発に過ぎない。
彼は心身ともにすぐ熱くなる。これも昔からの悪癖だった。
親指が焦れながら口許へと近づく……血の色をした唇の間を割り隙間からは舌が見えた。ぬめり気のある動きは生々しく蛇を彷彿とさせる。指先がしっとりと濡れ、前歯で爪を噛む。
大胆ではしたない指しゃぶり!
あれから約十年が経ち年齢を重ねたエットーレはわずかながら忍耐強くなった部分もあった。可能な限りこの指しゃぶりも堪えた。しかし今も完全には抜け出していない。
精神的な強い負荷、それ故に生じる感情から注意をそらそうとする術。気を紛らわせるためのもの。
感情を立て直す方法のひとつ。
エットーレは気を紛らわせようとしていたには違いない。だが心を落ち着かせようとするほどにいらだちが募る。終いには指を噛んでしまっていた。
親指の関節が痛むと同時にガリッという音をたてて皮が剥けた。傷口から薄く血が滲む。エットーレは煩わしそうに傷を舐めた。生臭い、鉄分を含んだ味がする。舌の表面にひっかかる薄皮が不快だ。歯で挟んで引きちぎろうとすれば余計にひどくなるだろうか? 彼はささくれを指でよく引っ張って切っていたがその大抵を失敗していた。
指しゃぶりをそのままに傷口を強く吸う。消毒液や絆創膏などを使うのは面倒なのでごく簡単に止血するつもりだ。
口の中でようやく血よりも唾液が勝ったところで止めた。口唇の汚れを舌で拭う。獰猛な仕草。もしもその姿が鏡に映っていたならば、さながら捕食者のようだっただろう。
細く息を吐き、わずかに体を反らせたエットーレが横目で自身のスマートフォンを見る。他者を誘惑するための目付きはいつ何時でも――たとえこの場に彼ひとりだとしてもエットーレはよく使っていた。
片目だけが動く流し目。
彼はこうして鍛えていた。
しばらくの間エットーレは大人しくしていたが、スマートフォンは彼以上に大人しかった。
着信音も流れず振動もせず、液晶画面も光らない。ただまっくろな石のようにそこに佇んでいる。
あのイレネオ・デ・アンジェリスという男はエットーレのことなど、ちっとも気にならないらしい。その事実がなおも彼をいらだたせた。
少年の頃から一度エットーレが癇癪を起こせば誰かしらが気にかけていたというのに。……あの職員だって。
「やっぱり思っていた男とは違うな」
喉奥を鳴らしたエットーレが乾いた笑いを漏らした。
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