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箍がはずれた男というのは、なるほどこういった顔になるのか。
突如として自分を探していたのだと告げられたエットーレは混乱の最中にいた。
「俺は、あなたを知らない」
息を上げ、汗を散らし、訴えかける青年にただただ目を丸くする。走ってきたのか? 行くあてもなく? 大きく揺れる肩にそっと手を添える。振り払われる素振りはない。エットーレは「無茶だな」と笑った。
そのまま指の腹で生え際の汗を拭ってやる。この手つきは脅しのつもりだ。効果は、ある。
「見知ってしまった男の侮辱は聞くに耐えない」
イレネオが苦しみに喘ぐように吐き出す。不恰好に歪む口許が紡ぐ「見知ってしまった」の一言がエットーレまでならず彼ら二人の胸を衝く。
「俺は、侮辱されていたのですか?」
「あんた、どっかで女に恨みを買ったろ。脚本家先生?」
困り顔の問いかけにイレネオは含み笑いで答えた。苦笑するエットーレの目に悪戯な光が差す。「どうだか。女のことはあまりそう記憶にないので」などとのたまった。
まったく、ろくな男じゃない。そう言ったふうにイレネオが愛好を崩す。家の中には一歩も足を踏み入れず、開け放ったドアの前で向かい合う。
「入ります?」
家主の申し出にイレネオは頭を振った。あっさりと断られた彼はふと不思議そうな顔をしたが、何を思ったか「……じゃあ、俺が招き入れる」とイレネオの腕を掴んだ。
男の太い腕に同性の大きな手が重なる。エットーレには馴染み深いものだが、イレネオはまだ違和感が拭えないでいる。
彼の縄張りに引き摺り込まれる。ともに男であるにも関わらずいとも容易く……
白い肌に長い手指は蜘蛛の糸のようにイレネオを絡めとらんとする。
体の横で相手の腕が伸び、ドアを閉めて鍵までかけてしまう。イレネオの背後で施錠の音が妙に響いた。
「俺の跡をつけて来たのか? 自宅なんか教えてもないのに」
「違……っ」
エットーレが身にひそめていた危険な色香を体中から放っていた。言葉の端々に悪質なものを感じる。反射と認識するよりも早く、否定の台詞がイレネオの口を突いたが、相手は「どうだか?」と彼を嘲る一方である。
血の色を思わせる唇の隙間から舌が覗く。蛇のごとく彼の指を這う動きが生々しい。それは赤子の指しゃぶりに酷似している。
まるで幼少期の悪癖そのものだ。
「あなたは俺が心配で心配でたまらないんでしょう。どこの馬の骨かも分からない女に侮辱されて――いったいどんな? ああ。それと、もしやその女の相手でも?」
よくもまあここまで妄執に囚われることができるものだとイレネオは嫌悪したが、その実、彼の内心はざわめいていた。いかにも現場を見てきたかのように言い当てるのだから。
「だったら……なんだって言うんだ………」
「他の女に噛みついた口で俺を語るな……」
半ば開き直る形で唸ったイレネオに、相手が奥歯を鳴らして吼えた。力ずくで迫られたイレネオの顔にエットーレの影が落ちた。
互いの肌の匂いが強くなった瞬間にイレネオはもう後戻りはできないのではないか? と危惧しはじめた……
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