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「あら、絵梨は?」
「ちょっと残業だってさ。一人でも帰れるから大丈夫って」
あらかじめ考えた言い訳を口にした。心臓はドッドッと小さく跳ねていたが、母さんの「そう。あの子もしっかりしてきたわね」と微笑みながら出た言葉に、密かに安堵をもらした。姑息なことをしている後ろめたさに、次は胃が少しだけ痛んだけれど。
「……母さん、何やってるの?」
夕食の準備をすると言っていたはずの母さんが、ソファに座り何やら大きな冊子を開いていた。それは見覚えのある、俺と絵梨の写真アルバムだった。
「卓也が帰ってきたものだから、思い出して。ついね」
まるでやんちゃを咎められた悪戯っ子のように母さんは笑った。手元のアルバム写真は、俺と絵梨の幼少期のものだった。俺は母さんの座るソファに近づき、斜め後ろからそれらを覗いた。
俺が幼稚園児、絵梨が小学生の頃のものだ。まだ何も理解していない無垢な俺が、前歯をむき出しにして笑っている。
「こんな小さな子たちが、もう義務教育も終わって寮生活や働いたりしてて……時間が経つのは本当にあっという間ね」
母さんの笑みは、いつだって穏やかだ。絵梨のこともあって子育てなんて大変だったろうに、どうしてそんな風に笑えるのだろう。
さっきのことで心乱れていた俺は、今までならば絶対にしなかった問いかけを母さんにした。
「……母さんは大変じゃなかった? 絵梨があんなので」
驚いたように、母さんが振り返りこちらを見た。
絵梨を「あんなの」と言った俺を、彼女はどう思うだろうか。それは意地の悪い攻撃的な衝動から出た問いだ。けれど、母さんはすぐに目尻にしわを作り──笑った。
「まぁ、大変じゃないって言ったら嘘になるわよね。でも、幸せよ」
母さんは手元のアルバムに再び視線を落とし、そっと撫でた。
「……でも卓也には大変だったり、我慢させたことも沢山あったみたいね」
「……!」
「写真見ていて気づいたの。私、絵梨とばかり写っているわね。思えばあなた、絵梨を心配してばかりの私に遠慮していたのね。弟なのに……ごめんね」
「……母さん」
気づかれていた。俺が絵梨に対して思っていた、子どもじみた嫉妬と苛立ちを。背中をこちらに向けたままの母さんの表情は見えない。
「あなたの人生はあなたのものだから、絵梨のことは私たち夫婦に任せておいてね。……でも」
母さんは視線をダイニングテーブルに移す。夕食の用意がされているそこに並んでいるのは、俺の好物のビーフシチューとポテトサラダ、それと──。
「パンくらいは、一緒に食べようね」
母さんの、柔らかな声が響いた。
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