5人が本棚に入れています
本棚に追加
気がつけば走っていた。
そこにいなかったらどうしよう──そう考えたら余計に足はもつれて、無様な走りになった。
絵梨のことが嫌いな俺。両親を独占されているように感じて嫉妬をして、いつだって卑屈に生きていた。でも、いつだってその裏側には、たしかな愛情と優しさが伴う思い出も存在していたんだ。
小さい頃俺は絵を描くことが好きで、画用紙いっぱいに魚を描いた。それを両親は笑って見ていて、絵梨は魚が寂しくないようにとカラフルな花を池のまわりに描いてくれた。温かなその思い出を無視したまま絵梨を嫌うことなど──本当はできないくせに。
「絵梨……!」
橋の上に、絵梨はいた。
河川の向こう側では夕日が姿を隠し始め、薄闇の帳が落ちつつあった。その空気に溶けこむように、彼女は欄干に手を置き河川を眺めていたのだった。
「たっくん」
ぼんやりとした表情で絵梨は、こちらを見て笑おうとする。でもすぐに口を真一文字にした。
「……帰ろう」
彼女に近づき小さく言った。絵梨はうつむいたまま、こちらを見ない。俺のさっきの台詞が絵梨の心に鉛を落としているのだとわかった。
何を言えばいいのだろう。伝えたいことも見つからぬまま、ただ衝動のみでここまで来てしまった。うつむく絵梨に近づく。いつの間にこんなに小さくなったのかと驚いたが、俺がでかくなっただけだった。でかくなったくせに、中身は昔のままの俺。愚弟だ。
すがりつくように絵梨を抱きしめた。それは懺悔による行動だったに違いない。そうするとよけいに彼女の小ささを感じて、なぜか目頭が熱くなった。
「どうしたの?」
その問いに答えられず顔を横にふれば、絵梨の小さな声が耳朶に響いた。
「……よしよし。よしよし」
絵梨が俺の背中を抱き返し、ゆっくりとさする。
「たっくん、よしよし。たっくん、よしよし。良い子よ、良い子」
歌うように繰り返される。
……絵梨はやっぱり馬鹿だな。嫌いだと言った相手を、良い子なんて言うのだから。俺はそっと、彼女から体を離した。
「……帰ろう」
「うん!」
絵梨は元気良く返事をしてくれ、手を繋いでこようとした。躊躇したのち、俺は結局そのままにする。久しぶりに絵梨の手の温もりを感じながら、彼女の明るい声を聞く。
「今日の晩御飯は何かな?」
「ビーフシチュー。絵梨のパンも並んでたよ」
「そうなんだ。温めて食べようね。温めるとね、美味しいから」
昨日も言っていた重要事項を絵梨は念押しした。
そうだな。の一言がまだ、俺は言えない。冷めてもパンは温めたら美味しいことなど、俺にだってわかっている。でもそれを素直に認めるには、まだもう少しだけ、時間がかかるのだろう。
橋の向こうに陽は落ち陰る。家に帰ったらきっと、温かなパンが並ぶ食卓が待っている。
完
最初のコメントを投稿しよう!