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     コンコン。運転席のウインドウを叩く音。 「あの――!」  外から呼びかけてくる声。  葛木潤は目をこすり、窓の外を見やる。そこに立っていた女性から渡された携帯電話。それがすべての始まりだった。  梅の花が散り始め、桜のつぼみが膨らみ始める季節。葛木が眺める富士山の頂上にはまだ白い雪が残っていて、それが夕日に照らされ、幻想的な光景だった。この季節に静岡へ来たのは初めてだ。本当ならゆっくり観光でも楽しみたいところだったが、しかし今は目の前の仕事に集中しなくてはならない。  後部座席に座る連続窃盗犯の男は、東名高速を降りたあたりからは全く下を向いて、顔を上げようともしなかった。パトカーに乗せられて間もなくは余裕の表情を崩さなかったのだが、しかしそれも、東京を出発し静岡に近づくにつれて、少しずつ落ち着きを失っていった。半年以内に五十件以上もの連続窃盗をたった一人でやってのけた強者でも、故郷にはやはり特別な思い入れがあるらしい。  葛木潤は自ら、この男の移送任務に志願したのだった。男は名を阪口といい、名古屋から東京の間を転々としながら犯行を重ねていた連続窃盗犯で、現在五十五歳。前科二犯。今回は、東京都あきる野市で五十三件目の犯行に及んでいたところ、付近を警戒中だったあきる野警察の刑事に発見され、現行犯逮捕となった。葛木自身が、直接手錠をかけた刑事だった。  葛木は今年、刑事になったばかりの二十六歳。刑事になってすぐは、誰しもが盗犯捜査を経験する。その日は指導役のベテラン刑事と組んで、夜間の盗犯警戒で回っていたところの、本当に偶然の発見だった。刑事になっていきなりの大手柄だった。運も実力の内、と指導役のベテラン刑事は言うが、広域事件の連続窃盗犯を逮捕したという大手柄を称えるというよりは、どちらかというと嫉妬心のほうが大きいような物言いが引っかかった。  だからこそ、葛木はあえて、誰もがやりたがらない移送の任務を引き受けることにしたのだった。  この事件は複数の都府県にまたがった広域事件であり、愛知県警、神奈川県警、山梨県警、千葉県警、そして警視庁の合同捜査となっていたが、捜査の主となるのは事件に最初に着手した警察署になる。阪口が最初の犯行に及んだのはこの静岡県富士市であり、最初に捜査に着手したのが富士川警察署だったため、警視庁から阪口を移送することになったのだ。  移送は、ほとんどの刑事がやりたがらない任務だ。まず、ずっと被疑者と同じ車の中に座りっぱなし。被疑者を置いてパトカーを離れられないので、気楽にトイレに行ったり休憩を取ったりもできない。そして、パトカーの中での犯人との会話は、正式な取調べではないため、何か重要な告白があったとしても、それを自白証拠として扱うことはできない。それがもしも重要な情報を知る容疑者なら、黒幕の組織が殺し屋を差し向けてくることだってある。  そして、移送先の警察署への引き渡す場面では、相手方から感謝されることは、まずない。何故なら、警察という組織は、競争社会であり勝ち負けが全てだからだ。他所の管轄にホシを挙げられたということは、その捜査本部にとっての敗北であり、その悔しさは事件解決の嬉しささえも塗りつぶしてしまうのだ。そんな相手に会うのは気が重い。  しかし、葛木にはそんなことは関係なかった。そんなことはすべて警察内部の大人の事情であり、どこの警察が犯人を逮捕しようとも、事件が解決したことには変わりない。そのことの方が大切だと、葛木は思う。事件を解決することで救われる人がいるなら、その方がいい。 「俺、雪の残る富士山を生で見たの、初めてなんですよ」  葛木は窓の外を見つめながら、阪口に語り掛けた。「阪口さん、この辺で生まれ育ったんなら、いつも見ていた景色だろうけど」  阪口は顔を伏したまま、「見飽きちまったよ、そんなもん」と呟いた。 「そうなんだ。でも、俺、ちょっと感動ですよ。やっぱり雄大ですね、富士山って」 「見た目だけだ。登ってみれば、大したことねえよ」 「阪口さん、登ったことあるんですか?」 「あるよ。何度もね。親父と、お袋と――」  阪口が言葉を詰まらせる。「また、両親に迷惑かけちまうなあ」 「ご両親、今はどうされてるんですか?」 「二人とも、ボケて老人ホームに入ってる。前回と前々回の逮捕のときは、裁判も見に来てくれたけど、もう無理だ。何にも親孝行できない、だめな息子だな」 「阪口さん」葛木はルームミラーに移る阪口に、目線を移す。 「どうして、窃盗を繰り返すんです? 今まで、何度も捕まってるのに」 「うーん、なんでだろうなあ。ついやっちまうんだよな。もうやめておこうって思うのに、魔が差すっていうかさ」 「あの、俺、聞いたことあるんですけど、盗癖も依存症の一種らしいですよ」 「依存症? 病気だってか?」 「クレプトマニアって言うらしいです。専門の病院もあるらしいですから、今度行ってみたらどうですか?」 「マジかよ」阪口はやっと顔を上げ、「それ、捕まる前に教えてくれよな」とニッと笑った。  富士川警察署に着いたのは、十七時前だった。東名高速道路の事故渋滞で、予定より大幅に遅れての到着だった。「警視庁殿の到着、首を長くして待っとりましたよ」といきなり引き受けの刑事に嫌味を言われたが、葛木は気にせず、連行される阪口の背中に呼びかける。 「次出てきたら、必ず病院、行ってくださいよ!」  阪口は振り返らなかったが、首を縦に振って応えた。  その後、慣れない捜査資料の引継ぎに時間を取られ、結局、富士川署から帰路についたのは二十時過ぎだった。緊張が解け、ドッと疲れが襲ってきた。強烈な睡魔との戦いをあきらめ、葛木は近くの道の駅に寄り、パトカーの中で少し休むことにした。  思えばこのとき、すでに尾行されていたのだったが、葛木は知る由もないーー。  
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