(2)-2

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 デッキのドアには、客席の中が見えるように窓がついている。その窓から覗くと、やはり男はきょろきょろと客席を見回す不審な動きをしながら、足早に十五号車を出て行った。  次の停車駅である三島が近づき、列車はスピードを落とした。  葛木は東野の制止をかわし、足早に十五号車を抜けた。「ちょっと、話はまだ終わってないわよ!」彼女も後ろからついてくる。 《ねえ、質問はいいの?》と犯人は言い、「ちょっと今、車掌に追われてて――」と葛木が返すと、犯人はハッハッハと声を立てて笑った。 《僕は別にいいんだけどね。時間が無くなるよ?》  列車が再び動き出す。  葛木はデッキから先程と同じように、十四号車を覗き込む。先ほどの男は、何食わぬ顔で三列シートの通路側の席に座っている。真ん中の空席を挟んで、窓際には大柄な男性が大口を開け、涎を垂らして眠っていた。男の腕の動きで、空席の方に手を伸ばしていることが解った。  違う、あれは共犯者じゃない――でも。 「ちょっと待っててくれ」と葛木は言った。《え? は?》という犯人の戸惑いの声を無視し、通話状態のまま、ガラケーをジャケットのポケットにしまう。  脳裏に蘇っていたのは、先日、鉄道警察隊で行われたスリ・置き引き検挙講習の内容だった。最終列車には、ぐっすり寝入っている乗客の懐やカバンから、財布を盗んでいく窃盗犯がいる。そいつはターゲットを物色するため、さりげなく車内をウロウロしているのが特徴だ。あの男は、まさにその典型だ。目の前の犯罪を見逃すわけにはいかない。  十四号車のドアが開き、葛木は一気に距離を詰める。男は慌てて手を引っ込めたが、その手の中には財布が握られていた。  葛木は通路に出られないように立ちはだかり、警察バッジを見せた。 「それ、あなたの財布ですか?」 「え、そうですけど――」 「じゃあ、中身を見せていただけますか? あなたのものだという証拠は?」 「いや、あの、その――」 「見せられない理由があるんですか? やましいところがないなら、見せられますよね?」  車内に違和感が漂い、十四号車の乗客の視線が一気に集まる。窓際で眠っていた大柄な男ものっそり起きだしてきて、「なんや、何の騒ぎなんや?」と関西弁で呟いた。そしてごしごしと目をこすり、「あ、それ――わしの財布やんか」と、男の手にある財布を指さす。 「どういうことか、説明してもらいましょうか?」  葛木が言った次の瞬間、男ははじかれたように立ち上がり、葛木の身体を突き飛ばして元来た方へ走り出した。  間もなく、熱海――アナウンスが聞こえ、ホームの明るい光が窓から差し込んできた。葛木は体勢を立て直し、男のあとを追う。まずい、今、列車を降りてまで追うことはできない。しかし、みすみす犯罪者を逃すわけには――  デッキの自動ドアが開く。次のタイミングには、男の身体が宙にふわりと浮いていて、そのままの勢いで顔面から床に突っ込んでいった。  ドアの陰から、東野がゆっくりと表れ、得意げに左足を振って見せた。ドアが開く瞬間を狙って、男に足をかけたのだ。ナイスアシスト!  男は呻き声を漏らしながら、それでも何とか這いずって逃げようとしたが、その目の前でドアが閉まり、三たび列車は動き出す。葛木はその男の腕をひねり上げ、手錠をかけた。 「窃盗の現行犯で逮捕する」 「あなたね、誰にも言えない緊急事態の真っただ中じゃなかったの?」  東野が呆れたふうに言った。「こんなコソ泥に時間を割いてていいわけ?」  うなだれ、大人しくなった男を見届けてから、葛木は振り返って、東野に手を合わせた。 「ちょっとコイツ、見ててください! あと、次の駅に鉄道警察を呼んでください」  言うが否やその場から離れ、やっとガラケーを取り出した。 「待たせたな」 《きみね》と犯人も呆れ声がだった。 《コソ泥に時間を割いてていいの? コソ泥と爆弾、どっちが重大なの?》 「目の前の犯罪を見逃せないだろ。俺、刑事なんだから」 《まあ、いいや。今、熱海を出たところだよね。ここからいくつかトンネルがあるから、もしかしたら電話が切れちゃうかもしれないよ?》 「なんだって――?」  なんてこった。思わず頭を抱えたときだった。轟音とともに、列車は早速、トンネルに突入していく。
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