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「先生! これを私の遺言だと思って、どうか! どうか…」
「わ、わかりました。なにやら深い理由があるご様子。役に立つかどうかはわかりませんが、私などでよろしければ、とりあえずお引き受けすることにいたしましょう」
鬼気迫る老人の勢いに毛負され、先生はちょっとおよび腰にながら、その具体的にどういう内容かもまだわからない依頼をあっさりと承諾した。
先生は名探偵のくせに、こういった交渉が苦手なのだ。僕らの所へ来る前は、いったいどうやって探偵業を営んでいたものやら……。
だが、そればかりでなく、こんなにもあっさりと引き受けたのには、少なからずその事件とやらに興味を持ったという理由もそこにはあるのだろう。
それについは僕にしても同じだ。花小路老人のこの普通じゃない態度……そういわれてみれば、お抱えの弁護士なり調査員なりを使うでもなく、天下の花小路グループ会長がこんなお忍び的に先生を呼んで依頼するのも変な感じだし、どうやらこの裏にはかなり深い理由がありそうだ。
「おお、そうですか! それは良かった……ゼェ、ゼェ…」
先生の快諾の言葉を聞いて安心したのか、興奮という名のドーピングの切れた老人は、これまで以上に荒い息遣いを見せている。
「ゼェ、ゼェ…それでは、さっそくで申し訳ないですが、明日からよろしくお願いいたします。明朝、この藤巻が車でお迎えに参りますので」
苦しげにそう言って花小路翁が黄色く濁った目をそちらへ向けると、ベッドの脇に立つ初老の執事は深々と僕らに頭を下げる。
「それではそのようなことで……ゼェ、ゼェ…秋津先生、それに御林さんと申しましたかな? この老いぼれの人生最後の頼み、遺言と思ってなにとぞ、なにとぞ、よろしくお願いいたしま…」
だが、そこまで言いかけた時だった。
「ゴホォ! ゴホッゴホッゴホッゴホッ……ウゴッ…ゴファ…!」
突然、花小路翁は激しく咳き込みだしたのである。それも尋常な咳き込み方ではない。その咳は一向に止まず、息もできない様子で苦しんでいる。
それを見た先生と僕は思わず老人の方へ駆け寄ろうとする。だが、そのあまりの剣幕に躊躇して、半歩足を踏み出したところで止まってしまう。
「旦那様っ!」
一方、執事は慌てて老人に飛びつくと、その背骨の浮き出た背中を摩りながらベッド脇にあるナースコールのボタンを押す。
「ゴホォ! ゴホッゴホッゴホッゴホッ…」
なおも老人の壮絶な咳は止まらない。その間にもコールを聞いたナースステーションの看護婦や医師達が騒然と病室に駆け込んでくる。
僕達はその喧騒の中、ただただ苦しむ老人と彼に処置を施す者達の姿を黙って見つめていることしかできず、その日は依頼の話も中途半端なまま、やむなくお暇することとなった。
……そして。
これは家に帰った後、夜になってから電話で知らされることとなったのだが……奇しくもその夕刻、花小路翁は悪化した容態が快方に向かうこともなく、そのまま帰らぬ人となったそうである。享年80歳だったという。
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