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二
やれ噂というものは、本人たちが思っている以上に早く広まるらしい。
「校舎裏の池に浸かったんだって?」
挨拶代わりにそう切り出したのは、農場で働く砂原青年だった。
「ご機嫌よう砂原様、それと皆様も。遅くまでお疲れ様です」
辺りを照らすカンテラのいくつかに向かい、私は丁寧にお辞儀をした。日が暮れるまで外で作業していたのだろう、砂原さんを始め、何人かの従業員は携行用の石油ランプを手に提げている。
対して私たち三人は、身を清め終わった後だった。サヨとリツが帰るので、私も外まで見送りに出ていたのだ。
愛嬌を振りまき、それとなく話題を流そうとした私に砂原さんは苦笑しながらも、
「次からはやめときなよ。たまに底が不安定だったりするから、足が抜けなくなったら大変だ」
などと怖いことを口にする。すると私の隣にいたリツが、不安げに頬に手を添えた。
「底なしということだべか」
花の声が宵闇に響くと、砂原さんの背後で一人の影が動いた。
「湿地とは違うから、底がないということはないと思いますよ」
同僚のランプにさらされ、その麗しい顔立ちがあらわになる。砂原さんの友人でもある、私たちも知っている殿方だ。彼は優しい声音でむしろ、とリツに続ける。
「ここら一帯は水はけが良いので。多分そのまま待っていたら、あの池は明後日には乾いていたはずです」
どうして彼らが詳しいのかというと、地域にある二三の会社で話し合って、工事が入っていた場所なのだ。だからこそ現場が気になって、私たちは見に行ったのだけれど。
鬢鏡探しが無駄だったとは思いたくない。三人が黙っていると、作業着姿の優男は次のように締めくくった。
「まだまだ調査と工事が必要な土地です。危ないのは嘘ではないから、今度同じようなことがあったら、僕たちを呼びなさいね」
彼はそれから砂原さんの背を軽く押しやって、会社の事務所へと歩き出す。
西洋建築の屋舎に彼らが入った後、リツがうっとりした様子で呟いた。
「格好いいなぁ。比島家のご次男様……」
「ちょっとばかし軟弱だけどな」
よせばいいのに、サヨが水を差す。リツはお下げを揺らしてむくれた。
「そういうサヨは、明治の世にもなって武士に惚けてるが」
「別に惚れてるわけじゃない。座学が好きだから、歴史上の御仁にたまたま詳しくなるんだよ」
「サヨが勉強好きだなんて、嘘だぁ」
「うるさいな。……ほら、比島の坊ちゃんがこっち向いたぞ」
「えっ。本当に?」
リツの視線がくるりと巡り、サヨが指した赤煉瓦に向く。私も目を凝らしてみる。重厚に造られた洋館の白い窓からは、橙色の光こそ漏れているものの、人の姿は見当たらなかった。
「ははっ。じゃあなツッコ。また明日学校で」
サヨは上機嫌に笑った。彼女はいっそう怒ったリツに追われながら、人を食った表情で離れていく。
二人がかけっこをする路傍で、コスモスが揺れていた。いつまでも遊んでいたかったけれど、私は大きく手を振った後、しぶしぶきびすを返した。今日の反省文を書かなくてはいけないのだ。
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