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序
年号が明治に変わって三十八年。なお目まぐるしく進む時代の最中にも、空はのどかに広がっていた。
爽やかな風が吹き、雲が薄らとたなびいている。鳶が鳴いては、風雲を切って飛ぶ。晴れ晴れとした、百点満点の初秋の青空――であるのに、我ら花の女学生ときたら。
その下で、泥水をさらっていた。
拝啓、御父様。ええと……。
池の底をまさぐりながらも、私の考え事は途切れない。口が小さく、ぽそぽそと動く。
御父様。ですから私、縁談の話はお断りさせていただきたく――それで? その次は、何と書こう?
思考だけが、今いる泥中と違う、別の場所にある。日常の生活に支障をきたすほど、悩みは深刻だった。今だって、その問題に気を取られていたばかりに、池に入ることになったのだ。
とにもかくにも、角を立てずに断る文言を捻り出せないか。重たい袖を引っ掴んで考える。髪を結うリボンまで巻き込むつもりで、頭を悩ませる。難しい。
第一、どうして断りたいのかも、自分自身わからないのだった。『ですから』と綴りたくても、その前に来るはずの理由は曖昧で、だから続く将来も見つからない。まるで輪郭のない、頭上に流れる薄雲のようだ。
無言で唇を開閉していると、近くで大きな声が上がった。
「おい! 何か掴んだぞ!」
力強い友人の声に、私ははっと首を回す。見ると泥をさらっていた仲間のサヨが、茶色い水面から顔を上げたばかりだった。
「どうだ!」
泥を被った学友は瞼の開ききらないまま、勇ましい動きで右手を掲げる。手の中に何かある。……が、しかし。私が何も言えないでいると、その場にいたもう一人の友人が、言いにくそうに口を開いた。
「サヨ。……違う、それ砂利石だ。水切り遊びにもってこいの形だべ」
彼女はそう言って、青空に捧げられた石くずを指す。聞いたサヨは声を荒げた。
「何だって! ちきしょう!」
「乙女とは思えない言葉遣いだぁ」
石くずを陸に放ったサヨを見て、もう一人の友人は朗らかに笑った。地方の訛りが可愛らしい、名前をリツといった。明るい頬を汚しながら、リツもサヨと同様泥をさらう。
厚い友人たちのやり取りを見て、私はますます申し訳なくなった。
「お二人とも、いいのです」
泣くのを堪え、二人を交互に見る。
「形見とはいえ、友人をこんなにしてまで探す品ではありませんわ。御母様だって知ったらきっと怒ります。いいえ、もう御空からこちらを見て、腹を立てているかも」
我慢しているのに、涙は喉までせり上がってきていた。情けない声を出す私に、サヨは衿で顔を拭きながら言った。
「いいや、大切に決まってるだろ。遠慮するなよ」
「んだ。一度汚れてしまえば同じだって、見つかるまで探せばいいべ」
次いでリツが励ますと、二人は再び池の底をさらい始める。
私がいけないのだ。私が考え事をして、手元の品をうっかり落としてしまったから。
遥か東京の話に気を取られている場合ではない。目の前の事態に一途でなかったことを恥じつつ、私は身を入れて探し始めた。
しばらくして、サヨがもう一度叫んだ。
「あった! 絶対これだ!」
飛沫に顔をしかめ、彼女は晴天に腕を突き上げる。掲げられた手の中で、太陽の反射が一縷、きらりと輝いた。
「それです。御母様の鬢鏡……」
感極まって、私は泣いた。涙がこぼれ、頬の泥が一筋分洗われる。釣られてリツが泣く。発見者のサヨは唯一、誇らしげに笑った。
「よかった。それなら早く陸に上がって、きちんと感動を分かち合いたい……けど」
彼女は続けて遠くを見やり、苦々しい顔になる。
「説教を聞き流すのが先だな。しのぶ先生が来た」
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