76人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
「……おそらく十年前のゴタゴタの頃でしょ、あなたが不知火詣でをしたのって」
脇机に二人分の茶器を置き、籐椅子の背を引いて対面に陣取ると、チハルは上目遣いにナユタを見やった。
「オズマンドの王様がいきなり身罷られて、三年くらいだったかしら? 玉座を争うひどい政変だったわよね。人が大勢アダージ街道を抜けて、カルザ国側に逃れてきて。私、まだ花薬師として駆け出しの頃で、ちょうどあの山麓を巡ってたから、よく覚えてるのよ」
話を振ってやると、ナユタは遠い目をした。
「そうそう。あの頃のオズマンド人は、藁にもすがりたい想いのやつらばっかりだった。俺の親父も都に帰りたくて、『霊山から見えるという青海の火に参拝すれば、なんでも願いが叶う』なんて言い伝えに、つい飛びついちまった馬鹿の一人でさ」
「ナユタ。なんでもいいから、その時のことで覚えていること、話してくれないかな」
軽い音を立て、白磁の器に清涼な香りの茶を注ぐ。
心を落ちつかせ、集中力を高める花茶――もう花薬師の仕事は始まっている。
「うーん。それがじつは俺、どうも記憶が曖昧でさ。行った事実は覚えてるのに、その時の感情や動機がまったく白紙っていうかー」
「そう」
「……俺って、やっぱ少しおかしいのかな」
ナユタは頼りなげにチハルを見た。
「ううん。そうじゃないと思う。不知火詣でをしたら、そうなる人が多いの」
この世には医学だけでは解決できない病が存在する。かといって、なら疫と呼ばれる妖魔に取り憑かれたにちがいない、祈祷師さえ呼べば万事解決だ、というのも安直すぎるとチハルは思う。
花薬師は医師のように病んだ部分を取り除いて治すのではなく、たとえば風雨にさらされて曲がった木に添え木をあてるような……病んだものは受け入れた上での対処をする。
病は病とし、なおまっすぐ生命を全うする術に特化した、薬花のみでの治療。
だから花薬師は職業上は草木を扱う職人扱いだ。
なのに正式な花薬師になるのはなかなか難しく、修行は完全な徒弟制だった。
一人前になるには野山を最低でも三年は流離らい、組合主催の修了試験に合格しなければならない。
「ナユタ。あなたはたぶん不知火――鬼火に願掛けして、受け入れられた人なんだと思う。海に浮かんだ鬼火の正体は、光世から堕ちてきた神霊だって説、あなた信じられる?」
「霊?! まさか幽霊とか亡霊と同じ類いの?!」
ナユタは気味悪そうに胸に手を当てた。チハルは注意深く丁寧に説明する。
星の病っていうのは、病人の身体の中に願いを叶えるために入った神霊がいてね、その霊が放つ熱が原因なの――。
花薬師はありのままの真実を、まず患者に受け入れさせる。
特別なことはせず地味に話を聞き、身体に溜まった黒霧を吐き出させる。
治るか治らないかは本人次第だ。
「それじゃ、俺の記憶が曖昧なのも?」
「うん。たぶん霊がまだ、あなたの身体に憑依しちゃってるからだと」
うっわ冗談じゃない、とナユタは毒づいた。
「その霊を取り除く方法は。どうやるんだ」
「なにか忘れたことを、思い出せばいいのよ」
「なるほど……そうだな、俺があの山に登ったのは早春で、それから……」
ナユタは頭をがしがし掻くと、
「あーダメ。いつもこうなんだ、うう気持ち悪い。なあチハル、あんたも同じ頃、あの霊山に登ってたんだろ。その時の様子を話してくれれば、俺も少しは記憶が戻るんじゃないか?」
そうね、とチハルはため息をついた。
どうやらナユタの治療はけっこう時間がかかりそうだった。
花屋兼茶屋の仕事の休憩中に、二人でお茶を飲みながら昔語りをする。
なにも知らない常連客は、花薬師見習いでも入ったのかと決まって聞いてきた。ナユタがいつのまにか前掛けまで締めて、店の中で働いていたからだ。
だって他にやることないし、草木は好きなほうなんだ。ナユタはチハルの息子のフウともすっかり打ち解け、学校帰りのいい遊び相手になってやっていた。
「――で? 今日はなんの話?」
催促され、チハルは首を傾げつつまた回想を始める。
ナユタはこちらの話ばかり聞きたがった。そういう症状の患者もいたから、この人もそうなのかもしれない。
十年前――。
花薬師組合からの通達で、チハルは白蔓花の採集をしに山へ入っていた。
薬花の採集は当番制だ。悩み多き人々が山頂めざすほど白蔓花の需要も増える一方、当時は摘んでも摘んでも、まったく供給が追いつかなかった。
「そうね……じゃ、今日はとっておきを」
雪解け水のせいで、ぬかるんだ山道……鬱蒼とした針葉樹の森を抜け、雪と緑がまだらになった草原を登り――あの日、私は妖魔に襲われた一行に出会ったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!