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どう言ったらいいのかわからないことがある。
その刹那に起きたわたしの中の感情は、ひどく高ぶり、拒むことも受け入れることも、まして委ねることも出来ないような、魂がふわふわと浮き上がりそうになるのを感じ、まるでそれをさせないとしているかのように、彼の腕はわたしをしっかりと抱きしめていた。
何も見えない、何も聞こえない、なにもわからない。
怖くて目をあけることができないでいる。
川のせせらぎ、通り過ぎる車のエンジンとアスファルトを踏み鳴らす音、遠くで聞こえる列車の通り過ぎて行く音、風が運んでくるカラスの鳴き声、聞こえているのに聞こえない。
わしたに聞こえるのは、どうしようもなく激しく打ち付ける心臓の音。それがわたしのものなのか、彼のものなのかもわからない。呼吸が止まってしまいそうな戸惑いの中、息をすれば声が漏れてしまう。
今、わたしと彼は重なっている。こんなところにいるはずのない彼と。
「どうして?」
その言葉を発するのにどれだけの時間、わたしたちは重なりあっていたのだろう。
「いけない?」
彼の声を聞いて、わたしはようやく心を落ち着かせることができた。
「そうじゃなくて……」
わたしはここにいるはずのない彼の腕の中に抱かれて、彼の声を聞いて、彼の体温を感じて、どうしようもなく高まる胸の鼓動をどうにかして留めたくて、呼吸の仕方もわからなくなっていた。
短い言葉を発するたびに、彼はわたしをきつく抱きしめてくれる。まるでそうしてほしいとわかっているかのように。
「こうしたかったからっていうのは理由にならない?」
わたしはようやく目を開け、いるはずのない彼の顔を見ることができた。
「だって、ゆう君、あの新幹線で帰るんじゃなかったの?」
わたしたちの関係は、人に褒められるようなものではなかった。お互いに彼氏、彼女がいる。
「ヒロがここから見送ってくれるの、うれしかったけど、寂しかったんだ」
人目を避けて会わなければならない関係――その間、お互いに付き合う相手も変わっている。遠くの誰かと付き合うことが苦手な二人。いつもそばにいて、手を触れられる距離に異性がいないと寂しくて仕方がない。
「ゆう君、こんなのズルいよ……好きになっちゃうんじゃん」
「ヒロもズルいよ。こんなに好きにさせておいて……お預けなんて」
わたしたちはお互いに交友関係が広い。二人で会っているところを誰かに見られないように、時間や場所をやりくりして短い時間に愛し合っていた。
新幹線で1時間程度の距離、飲み歩くのが好きな二人は車でどこかで落ち合うという発想もない。彼が仕事で月に一度来たときに、お酒を楽しみながらお互いを求め合った。
わたしが駅に見送りに行くことはなかった。彼が乗る新幹線を、この橋の上から――夕陽を背に山々が赤く染まる中走り抜けていく列車の車両を数えて、彼が座っているだろうその窓に向かって手を振ることを密かな楽しみにしていた。
わたしが窓側の富士山と反対側になるA席に座るように指定したことで、どこかから見送っているのは知っていたのだと思ったけれど、まさかこの場所を特定されるとは思ってもみなかった。
「ゆう君、よくここが解ったね? 新幹線の車窓からどうしてわたしだってわかったの?」
「その種明かしをしてほしければ、明日の始発まで付き合って欲しいな」
「ズルい人」
わたしたちは、お互いのことをよく知っていた。それぞれの彼氏彼女の目を盗んで、常にメッセージでやり取りをしていた。今どこにいて、なにをしているのか。どんな会話をして、どんな愛し方をしたのか、愛され方をしたのか。
「ねぇ、ひろ君、いつから気づいていたの?」
「さぁ、いつからだったかな……でも、本当にいい眺めだね。こっち側から見ると、こうなっていたんだね」
彼はわたしの肩を抱いて山の向こうに隠れようとしている夕陽を眩しそうにみている。川のせせらぎに流されないような太く優しい声で耳元にささやく。
「ヒロ、新幹線からの眺めも、なかなかのものだよ」
「ねぇ、本当に見えていたの……なんだか恥ずかしい」
「恥ずかしがることなんかないさ。むしろこのあと、もっと恥ずかしい事するんだから」
「えっ、どういうこと?」
彼は一瞬わたしに微笑みかけ、そのままわたしを抱き寄せて、熱く抱擁し、さらに熱く、深いキスをした。
それは息の止まりそうな――心臓も時間も何もかもを止めてしまう魔法の口づけ。わたしは彼に身を任せ、彼の大きな背中にしがみつき、彼の求めにすべて応じることしか考えられなかった。
きっと二人の関係は長くは続かないだろう。彼もそう思うからこそ、こうしてここにいるのだろう。もしかしたらこれが最後かもしれない。何もかも壊してしまっても、今は彼と重なりあいたい。
どこまでも深く、熱く、強く、激しく。
車が通り過ぎるたびに橋は揺れ、心も揺れる。
今日はどうしようもなく、溺れたい。
彼の中で――
どう言ったらいいのかわからないことがある。
でも、どうしたらいいのかは、知っている。
溺れるだけなら誰でもできる。
溺れ続けることは誰にもできない。
息が止まるようなその瞬間を何度も繰り返しながら、わたしと彼は、水面からほんの少しだけ顔を上げ、流されていく。
そしてどこに流れ着くのか――
夜のとばりの向こう側でいつもとは違う別れがあるだけ。
それを知っている限り、ふたりは溺れ続けることができるのだから……
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