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マグカップの秘密――Saaara チームH
ぼくのマグカップには、秘密がある。カップを満たすと、何かが起こる。
そのマグカップはママが去年のクリスマスにくれたものだ。白い磁器のカップには赤いとんがり帽子をかぶったペンギンの絵が描いてある。ママがともだちと一緒に体験教室へ行った時に作ったものだ。ぼくの手には少し大きな大人用のマグカップが大好きで、とても大切にしている。
お茶もジュースもミルクも、熱いのも冷たいのも何でもマグカップにいれてもらう。お味噌汁やスープもいれてとおねがいすると、ママは嫌な顔をしたけれど、ぼくがカップを大切にしているから最後には許してくれた。
カップの中をのぞきこんでいたある日、ぼくは気づいた。中に、誰かがいるぞって。
カップの中が空っぽの時にのぞいても、そこでは何も起こらないし、誰も現れない。何かが起こったり、誰かが見えたりするのは、カップが満たされている時だけだ。
ぼくはカップをのぞき続けた。パパとママが難しい話をしている時も、リビングの机に座ってじっとのぞきこんでいた。
カップいっぱいにミルクを注いでもらって、じっと見る。そうするとそこに、鳥が飛びはじめる。大きな羽をひろげた鳥が二羽、くるくるとカップの中を飛び回る。
麦茶を注いでもらうと、深い茶色の世界の中に太陽がのぼり、黄色や白の花が咲きはじめる。花畑ができると、女の子がやってきて花を摘む。花を摘みおわると、女の子は自分で編んだ花の冠を頭に乗せる。花かごを持った女の子がカップからいなくなり、太陽が沈むと、ぼくはようやくお茶を飲み始める。
「ねぇ、トモ。大事なことよ、考えて」
ぼくがカップを口に運ぶのを、ママの手がおさえる。
「ママとパパ、どっちについてくる? ママは明後日にはこの家からいなくなるわよ」
ぼくは今年、小学4年生になった。だから「選びなさい」とママは言った。少し前のことになる。ぼくはまだ、ふたりのどちらについていくのかを選べないでいる。
ママとパパは離れ離れになり、これからはいっしょにいられないという。ふたりの話し合いで決まったことで、もう変えられないことだとママが話してくれた。それから、まだこどものぼくは、どちらかに『養育』される必要があることも教えられた。
ぼくを育てるのがママなのか、パパなのか。本当はママとパパの話し合いで決めてもいいらしい。でもママはぼくが「選ぶ」ほうがいいと考えているみたいだった。
そんなこと、考えたってぼくにはわからないのに。
「どっちにする?」
ママがぼくの前髪をゆっくりとを撫であげる。何度も。
「わかんないよ」
ぼくが答えると、ママの手が離れる。ママは机に突っ伏してしまう。
「何か飲む?」
パパがソファから立ち上がる。突っ伏したままのママがパパに怒鳴る。
「さっきからずっとお茶を飲んでるわよ! そんなに一杯飲んだらお腹壊すでしょ!」
「君にきいたんだよ」
「余計なお世話よ!」
パパは何か言おうとして口を閉じた。ぼくはカップをのぞきこむ。麦茶はカップに半分しかない。こうなるともう何も起こらないことをぼくは知っている。この家からママの物がたくさん無くなっていることも。
明後日なんてすぐにきた。ドアが閉まる。キィ、パタン。ママは荷物を持って出て行った。ぼくとパパは玄関でママを見送った。
「本当によかったのか? ママと行かないで」
「わかんないよ」
「そうだよな、わかんないよな」
パパの右手がぼくの背中をさすっていた、その手が肩にのびてきて、しっかりと握られる。パパが玄関に座り込んだ。肩を握られたぼくの身体がパパにもたれかかる。首筋にパパの硬い髪の毛が触れる。ママの髪の毛とは全然違う。
ぼくは閉まったドアを見続けた。ママは帰ってこなかった。
オレンジジュースをカップに注ぐと、素敵なことが起こる。 ジュースの中に、銀色の塊があらわれて、丸いタイヤがつき、真っ赤な色がつき、走りだす、ビュン! カップの中に、赤や青、黒のかっこいい車があらわれて、走りまわる。車たちはスピードを上げてカップの中を駆け抜け、最後にはジュースを飛び出して、ぼくの目の前でパッと消えてしまう。
マグカップの秘密を、ママは知らない。もちろん、パパも。
晩御飯のお弁当を食べた後、ぼくとパパはリビングの机でお互い別々のことをしながら向かい合っていた。パパは最近、ずっと家にいる。リビングの机にノートパソコンを置いて、いつも何かしている。
ぼくはパパの目の前の席に座っている。ママがいた時からここがぼくの席だったからだ。机には椅子が二つしかない。これもママがいた時から変わらない。ママがいた時のパパは家にいないか、テレビの前のソファに腰掛けてスマートフォンを触っていた。
真面目な顔でパソコンと向き合うパパをじっと見ていた。ぼくは何も考えていなかった。不思議な気持ちがあるだけだった。キャンディを食べ終えたあとの甘さが薄れていく感じ。温めたミルクを飲んだあと、口の中がねっとりとする感じ。美味しいのか美味しくないのか、よく分からないあの感じ。
ぼうっとしていたぼくを、いつの間にかパパの目が見つめていた。ぼくが何度か瞬きするとパパはメガネを外して、自分の鼻の真ん中をつまんだ。それから「説明するね」と話し始めた。突然何の説明がはじまるのか、さっぱりわからなかったけれどぼくはうなずいた。
「パパは家で仕事をすることにしたんだ。これまでみたいに会社に行く日もあるけど、毎日じゃない。トモが帰ってくる時間には、できるだけ家にいたいと思ってる。帰りが遅くなる日はすぐに連絡する」
ぼくはマグカップに視線を落とす。描かれたペンギンの絵に左手の指を四本あてる。ペンギンが見えなくなる。パパの説明はまだ続く。
「それからね」
パパは部屋の中を見回してから短い息をつく。
「パパは家事があんまり好きじゃないと分かった。だから週に2回はお手伝いしてくれる人を呼ぼうと思う。トモのいない時間にだけどね」
マグカップの中はもう空っぽだった。白いマグカップの底に少しだけ色がついている。
「そうしてもいいかな?」
なぜ、ママもパパもぼくにきくのだろう。
「わかんないよ」
うんざりしながら答える。
「わかんないか」
「うん」
パパは席を立って台所へ行った。電気ポットでお湯を沸かす音がする。パパがよく飲んでいるコーヒーの薫りがしてくる。もどってきたパパは右手にサーバーを持ち、左手にステンレス製のタンブラーを持っていた。ぼくのマグカップに真っ黒なコーヒーが注がれる。熱くなったカップから手を放す。パパは自分のタンブラーにもコーヒーを注ぐと、空のサーバーを台所へと置きに行く。
「こどもにはまだ早いわ、苦いでしょ」
いつかママが言った。パパは「ごめんね」と肩をすくめた。ママはぼくのマグカップを取り上げた。ぼくはコーヒーの注がれたマグカップをのぞき込むことができなかった。
自分の前に置かれたカップをじっと見つめる。コーヒーを取り上げるママはいない。パパはパソコンを触りはじめる。ぼくはカップを両手で握ろうとしてあきらめる。熱い。机に肘をついて、上からカップの中をのぞき込む。
パパが大好きなコーヒーは真っ黒で、匂いが強い。鼻の内側を刺すようだ。匂いまで黒い気がしてくる。
カップの円い縁から水面へと視線を集中させる。真っ黒な水面に蛍光灯の光が鈍く映り込む。すると、水面に近いところから、ぽつぽつと階段が現れる。階段はカップの縁にそって螺旋状にずんずんのび、底へとむかっていく。カップの底に背の高い本棚が壁一面に並んだ部屋があらわれる。部屋の中心には、木でつくられたテーブルと望遠鏡がある。床には分厚い本が、山積みになっている。
望遠鏡をのぞいているのは、釣りズボンをはいた男の子だ。
ぼくは顔を近づけて、カップの中を注意深く観察する。コーヒーの匂いが鼻の中で巨大化する。いやなかんじ。でも中が気になるから顔は上げずに堪える。
望遠鏡をのぞきこんで、上を見ていた男の子が、筒の先から目をはなした。不思議そうに瞬きをしている。それから、ぼくのほうを見て手招きをする。
心臓が飛び跳ねる。思わず顔を上げた。カップの中にいる誰かが、こちらをみて、手招きをするなんてはじめてのことだ。
マグカップに手を添える。コーヒーはすっかり温くなっている。パパは自分のコーヒーを飲み終わっていた。ぼくが動いたことで、パパはぼくがまだコーヒーに口をつけていないことに気がついた。
「そうか、トモにはまだ早いんだった」
パパの手がマグカップにのびてくる。
「ダメだよ! ぼくが飲むんだから!」
ぼくは慌ててマグカップを自分のほうへ引き寄せる。パパの目が少し大きくなる。
「そうか、じゃあゆっくり飲みなさい」
なぜか明るい声で言ったパパは立ち上がり、スリッパの音を立てながら台所へと消えていく。
ぼくはマグカップの中をのぞき込む。男の子はまだこちらを見上げている。
おそるおそる、コーヒーに人差し指を入れてみる。水面が揺れて、中の世界も揺れる。じっとしていると揺れがおさまり、男の子が、ぼくの指さきをツンとつついた。
くるり。
頭の先から爪先まで、身体を全部ひっくり返されたみたいだった。ぎゅっと目をつむってこらえる。目を開けると、ぼくは男の子の隣にいた。天井を見上げる。天井は広い吹き抜けになっていて、暗い夜空がみえた。
「靄がかかっていて星はほどんと見えないけど、かわりに面白いことがあるもんだね。夜空に誰かの顔が現れて、その子がここへ降りてくるなんて」
男の子がぼくに笑いかける。薄い茶色の大きな瞳が輝いている。
「君はここで何をしているの?」
「ぼくは星をみているんだよ」
「どうして?」
「父さんの仕事を手伝ってるのさ、父さんがいない日は、ぼくがかわりに星をみて、記録をとる」
「君が仕事を手伝うの? まだこどもなのに」
「そうさ」
男の子はぼくよりも少し年上のようにみえた。空を見上げると、暗い夜空から声がする。
「トモ? どこに行ったんだ?」
姿は見えないけれどパパの声だ。
「トイレかな。砂糖とミルクを持ってきたんだけど」
パッ、暗い夜空に光が飛ぶ。白い砂糖が、夜空から降り注ぐ。男の子が声をあげる。ぼくは、砂糖が星のかけらみたいだと思った。手を出すとその上に落ちて、じんわり溶ける。次に、パパはコーヒーにミルクをくるりと流し入れた。夜空に白い渦巻きができる。じわじわとひろがる白いミルク。黒いコーヒーにとけて、空が明るくなるようだ。
「こんな空は、はじめてみた」
男の子が紙にペンを走らせた。そうするうちにも部屋には砂糖が降り積もり、ミルクが溶けていった。やがて男の子は書き物をすることを諦め、床に座り込んだ。ぼくもその隣に座った。ぼくらはふたりで空を見上げた。
やがて夜空から銀のスプーンがおりてきた。スプーンはゆっくりと、部屋ごと世界をかき回す。夜空と部屋が混ざり合う。白っぽい茶色の温かいものが、ぼくらを包む。おだやかに包む。ぼくはいつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めるとベッドの上にいた。
「朝だよ」
パパがぼくの布団を持ち上げる。ぼくの目は半分しか開かない。頭がぼんやりとしている。
「あの子は?」
「あの子って? ああ、夢で誰かに会ったんだな」
パパの両手がぼくの頬を包む。目の下をパパの親指がこする。ぼくの両目がぱっちりとひらく。
「コーヒーをちょうだい。マグカップにいっぱい」
「昨日はちっとも飲まなかったじゃないか。やっぱりまだ、早いんじゃないか」
パパが心配そうにぼくの顔を見る。
「ちがうよ。ぼく、コーヒーが大好きだよ」
「じゃあいれておくから、顔を洗っておいで」
「うん」
ぼくは顔を洗ってからリビングの机に座る。焼いたパンとヨーグルト、それにパックに入ったままの果物が置いてある。台所からコーヒーを持ってきたパパが、ぼくのマグカップに注いでくれる。
「砂糖とミルクはいる?」
「うん」
マグカップにスプーンにいっぱいの砂糖がいれられる。それからミルクがくるりと流し込まれる。黒に白が溶けて、茶色くなる。
「混ぜたほうがいいよ」
パパがスプーンをくれる。
「いいの、しばらく見ていたいから」
ぼくは、期待をこめてマグカップをのぞき込んだ。しばらくのぞき込んでいたけれど、そこでは何も起こらない。砂糖とミルクを入れる前じゃないとダメなのかな、そんなことを考えていると、パパが机の上にノートパソコンを置いた。
「パパのお仕事って何なの」
ふと気になって、パパに話しかけた。男の子は父親の仕事を手伝っていると話していた。ママはクリーニング屋で働ていて、よくその話をきいたけど、ぼくはパパの仕事が何なのかは知らずにいた。
「どうしてそんなことをきくんだ?」
「気になったから」
「そうだね、パパの仕事はデザイナーだよ。ウェブデザインが中心のね」
「ふうん」
パパの話をききながら、手でゆっくりとマグカップを揺らす。薫りがひろがる。砂糖とミルクを入れたコーヒーの匂いはどこかやわらくて甘い。おだやかにほろ苦い。パパは一生懸命に話をしてくれる。ぼくのほうからきいたことだけど、パパの仕事の話は正直少し退屈だった。
熱かったマグカップが温くなっていく。のぞいていても何も起こらない。ぼくは顔を上げてパパを見る。パパと目が合う。話がとまる。部屋が静かになる。
「ママに会いたい?」
パパのおだやかな声が、ぼくの頭の中でじんわりと溶ける。
「会いたいよ、とっても」
ぼくの目からぽろんぽろんと涙がこぼれた。大きな手がのびてきて、涙をぬぐう。パパは嬉しそうだった。
パパがスマートフォンを手に取って何かをはじめる。たぶん、ママにメッセージを送っているんだとぼくは思った。
コーヒーを少しづつ飲みながらパンを食べていた。パパのスマートフォンが揺れる。パパが通話に出ると、ママの声がきこえてくる。パパがぼくの耳にスマートフォンを近づける。
「ママのこと、嫌いなんだと思った。わかんない、しか言わないんだもん」
ママの声は、近いのに遠くから聞こえてくる。
「ママ、ぼくコーヒーが飲めたよ」
「うん」
ママが泣いている。
「ぼく、ママに会いたいよ」
「ママも会いたいよ」
ママと話をしたあの朝から、ぼくのマグカップには何も起こらない。カップを満たしても誰も現れない。ぼくは毎日、顔をあげてパパと話をする。そして今日は大好きなマグカップを持ってママに会いに行く。
ママが住んでいるおばあちゃんの家は、すこし離れた場所にある。パパは車で近くの駅までぼくを送ってくれる。駅にはママが待っているはずだ。
パパとママはもういっしょにいられないってママは言っていたけど、ぼくはどちらともいっしょにいたい。ぼくには選べないって、ママに伝えたい。
タオルで包んだマグカップを膝の上にのせて、車の窓から街をながめる。緑と赤の飾りが増えた。もうすぐクリスマスがやってくる。
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