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01 父よ
つんとした磯の匂いがカナの鼻孔に入り込み、やがて目の端からじわりと滲み出た。
その場には他に誰もいないのに、カナは慌てて自分を誤魔化すように頰についた塩水をごしごしと拭い取った。父は死んでなどいない、絶対に。
カナの父・シンゴが海難事故に遭ったのは今より三か月前のことだ。遠い海の彼方、南太平洋にある漁場でカツオ漁をしている最中、船ごと行方が分からなくなったのだ。捜索開始から半月もしないうち、バラバラになった船の残骸だけが海上で発見された。父を含む乗組員二十余名はそのすべてが消息不明となっていた。
数百トン級の漁船を引き裂いたものの正体は、急激な天候不順ないしは、海底火山の爆発という説が有力だった。あるいは別の何かの仕業と主張する向きもあったが、いずれにせよ大人たちの共通見解としては、カナの父はもうこの世にはいないということだった。
カナだけは、それを受け入れていない。
カナは今年十一才になる。人の死を理解出来ない訳でも、父の仕事が如何に過酷で命がけのものなのかを知らない訳でもない。しかしあの優しくて逞しかった父が、簡単に死ぬハズがない。カナにはそう思われてならないのだ。
カナは自分の右手首に嵌められた黄金色のブレスレットを見た。漁船が消息を断つ数日前、立ち寄った島から航空便でカナ宛に送られてきたものだ。父が魚と一緒に偶然釣り上げたものらしく、正体は不明だが見たこともない珍しいレリーフが刻まれていて、カナが喜ぶと考えたようだった。
カナは父に似て怖いもの知らずで、好奇心旺盛なところがあった。何より、そのブレスレットが届いたのは他ならぬカナの誕生日だった。父は遠く離れていても、カナのことを想ってくれていたのだ。
「お父さん……」
事故の報せが入ったその日以来、カナは父からのブレスレットを肌身離さず身につけていた。右の手首に触れるたび、大きくて温かかだった父の手を握っているような気分になれる。朗らかな笑顔のまま、ただいまと言って貰えるような気がした。カナにとってはそれだけが唯一の心の支えとなっていた。
目の前の岩場に白波が打ちつけては細かく砕け散る。カナはもうずっと、ここに来て海を眺めるのが日課になっていた。父の帰りを自分だけは待ってあげなくてはならない。そう感じていたからだった。その日もまた、無情に何の音沙汰もなく陽が落ちようとしている。
カナは申し訳なさそうに目を背けると、いつもと同じく岩場を伝って浜辺の方に帰ろうとした。ところがその日に限って、足場が普段よりも強くぬめりけを帯びていた。
カナは余りにも日常的にこの場所に来過ぎた。岩場を伝うのが日課になる余り、今回も大丈夫だろうという油断が心の何処かに生まれていたのだ。
足を滑らせたカナは、体と頭を強く岩に打ちつけた。何かを考えるより先に海中へと転落し、塩辛い水がゴボゴボと一気に鼻と口から侵入してくる。息が出来なくなる。カナの意識は急速に薄らいでいき、やがて暗くなっていった。
恐怖でも、悲しみでも、悔しさでもなく。カナの心に最期に浮かんできたのは、真っ暗な海中さえも照らしてしまえるような父の明るい笑顔だった。
……。
最期にはならなかった。
水の中を、何かがものすごい勢いでカナに向かって近づいてくるのが分かった。それはカナを抱きかかえて海面に飛び出すと、大量の水を跳ね散らして岩場に着地してみせた。
気管に溜まった水がたちまち吐き出され、カナはむせ返りながらもどうにか正常な呼吸を取り戻した。海水にやられて痛む目をどうにか開けてみると、そこには青緑色の肌をした人とも魚とも形容しがたい不可解な生物の姿があった。カナは一瞬だけ呆然として、それからすぐに気が付いた。
「……お父さん?」
恐ろしいと思うより何より、真っ先にカナが連想したことがそれだった。青緑色の生物はカナの声を聞くと、不思議そうに小首を傾げてみせた。
それがカナと、ダーちゃんと後に名付けられた生き物の最初の出会いだった。
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