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07 少女
「カナ、ぼーっとしないで荷造り手伝ってね」
何処か遠くから母の声が聞こえてくる。一向にやる気の起きないカナは、その日もまた上の空で割れたブレスレットを眺めていた。あれからもうどのぐらい経っただろう。
巨大ダゴンが去った数日後、海沿いを数キロ行ったところにある別の町が、ダゴンの群れによる襲撃を受けた。幸いにも、隠巣町で起きた騒動から警戒態勢に入っていた自衛隊が早急に駆けつけ、被害は最小限に食い止められた。上陸目前だったにもかかわらず何故ダゴンが隠巣町を襲わなかったのかは、目下のところは不明とされている。陸自および海自は在日米軍との合同で、数日以内に掃討作戦を実行に移すということだった。
「カナ……辛いのは分かるけど」
ブレスレットの表面をなぞるカナの手に、母が横からそっと自らの手を重ねてくる。母を見上げると、寂しそうに微笑んでいた。以前ならばともかく、今となってはこの手を強引に振り払う気にはなれない。
「お母さんは……お父さんがいなくなって、寂しくなかったの?」
「寂しかったよ、それは勿論」
母はそう言いながら、そっとカナのことを抱きしめてくれた。
「でもね、一度起きたことはもう戻らないの。それがどんなに辛くても……誰かとのお別れは尚更」
「ダーちゃんと……もう会えないのかな」
「きっとカナを守るために、ダーちゃんはお別れしてくれたんじゃないかな。カナのことが大好きだから、一緒にはいられないって」
「……そうなのかな」
当たり前のことだけれど、母は大人なんだなとカナは思った。ハナエは強い。もうカナとのこれからのことを考え始めている。
内陸の方に住んでいる親戚が事件を知って、自分たちのところに来るよう勧めてくれたのはあれからすぐだった。カナの今後も踏まえた上で、母は二つ返事でそれを了承した。色々あり過ぎて町に少し居づらくなったというのもある。
母はこの機会に新たな人生を模索しようとしているらしく、公認会計士の資格取得に向けて勉強を始めるそうだ。普段から父に代わって、経理や税金の申告などを引き受けていたから、その経験を生かすつもりらしい。
「カナ、最近お風呂サボってるからお肌荒れてきたんじゃない? 女の子なのにガサガサ〜」
「うん……なんか面倒くさくて」
話題を変えようと思ったのか、母がカナの頬や、手の甲を撫でて冗談めかして言ってきた。実際このところカナは妙に気だるくて、普段なら何でもないことまで後回しにしていた。
「こんな風だとリョウくんに嫌われちゃうぞ」
「リョウは関係ないでしょ」
少しムッとして言い返すと、母は何故か楽しそうに笑んで、一人でキッチンの方に行ってしまった。思えばあれから殆どリョウとも話をしていない。うまくは言えないが、引っ越した後でもリョウとは何でもいいから、連絡を取りあえたらいいなとカナは思った。
結局、カナには分からないことだらけだった。
ダーちゃんが噂に聞くような恐ろしい怪物ならカナを助けたのは何故なのか。ずっと一緒にいても平気だった理由とは。ダゴンとは一体何なのか。父が送ってくれたこのブレスレットの正体とは何なのか。
確かなのはひとつ。カナの父は、もう既にこの世にはいないということだった。
巨大ダゴンの上陸地点を調べた結果、南太平洋で沈んだハズの、父の漁船の一部と思われる破片が見つかった。やはり、父の漁船を沈めたのはダゴンだったのだ。
「ダーちゃん……」
ブレスレットの破片を握りしめ、カナは誰ともなく呟いた。体が火照っている。
直後、カナは腹部の下のほうに唐突に痛みを覚えて、小さくうめき声を漏らした。生暖かい何かがじわりと広がっていく、気持ちの悪い感覚。
本来それは前兆を経て起きるハズだった。いやおそらく前兆は無数にあったのだ。カナにはここ数ヶ月、あまりに沢山のことが立て続けに起きていた。知らず知らずのうちに見過ごしてしまっていただけなのだ。
子供の時間は終わりを告げ、その日を境にカナは少女となった。
(おわり)
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