03 ダーちゃん

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03 ダーちゃん

「ダーちゃん!」  追求の色を孕みながらも可愛らしいカナの声が小さな洞窟に響き渡る。半月ほど前にカナが溺れかけた岩場のすぐ近くに、その隠れ家はひっそりと存在していた。 「ダーちゃん、隠れてないで出てきて。いるの分かってるんだからね」  洞窟の奥に広がった薄暗い水面を見つめて、カナは腕組みしながら駄目押しするように告げた。洞窟の底の部分は海と直結していて、そこから水が流れ込んできているのだ。  やがて、カナの呼びかけに応えるように、水中から人の形をした青緑色のものがおずおずと姿を見せた。 「ダァ……」  端的に言えば、それは半魚人だった。半魚人の様な不可解な生物、という方が適切かもしれない。少なくとも外見から判断すれば水陸両棲らしい、あどけなさと不気味さを兼ね備えた未確認動物。カナはそれと、意思疎通を図ることが出来たのだ。 「……私を助けようとしてくれたんだよね?」 「ダァ」  ダーちゃんと呼ばれる半魚人が、ピチャリと音を立てて水掻きのついた手でカナの頬に触れる。ひんやりとして気持ちいいと形容するか、ぬめっていて気持ち悪いと表現するかは人それぞれだろう。少なくともカナは、初めて助けられた日から前者だった。 「駄目だよ、あんなことしちゃ」 「ダァ?」 「確かに嫌な人たちだったけど……死んじゃえなんて思わないよ。悲しむ人がいるかもしれないんだし……それに」 「ダァ……」  カナの言葉をダーちゃんが理解しているのか、定かではない。見ての通りダァダァ言うだけだ。それでも、感情については明確に伝わっているらしく、ダーちゃんは俯くカナの両頬を気遣う様に優しく手で包み込んだ。カナの顔が奇妙な形に潰れる。 「もー……ダーちゃん遊んでるの」 「ダァ」 「……もういいよ。私のためにやったんだよね。でも、あれはいけないことなんだよ。人を傷つけるのは駄目なの。分かった?」  今度はダーちゃんは返事をせず、不思議そうに首をかしげるだけだった。こうなってくるとカナはもう苦笑するしかない。 「ダーちゃん、またそうやって誤魔化す……」  カナはとうとう言い聞かせることを諦め、今度は自分からダーちゃんの胸に飛び込んでいった。筋肉質なのにブヨブヨとした、人間とは明らかに異なる温もりがカナを包む。正確には、温いのは主に心の方だった。頬に直接伝わってくるのは手のひらと同じ、しっとりした粘膜が生む心地よい冷たさだ。  きっとこのブレスレットのおかげだ、とカナは思った。父が送ってくれた不思議なブレスレットには魚鱗の様な装飾が施されていて、最初にダーちゃんと出逢った時から半魚人的なその外見と相通ずるものを感じていた。何よりブレスレットをつけている間は、ダーちゃんと心や感情が繋がり、意思疎通を図ることが出来る。勿論、先程のような意図せぬ事故の危険もあるのだが。  カナの安堵を感じたのか、ダーちゃんがカナに抱擁を返すようにその腕を閉じた。カナは心の中で父を想っていた。未だに行方は知れないが、ブレスレットを通じて自分を守ってくれる優しい父。  カナにとってダーちゃんは、父の化身そのものだった。  洞窟を出たカナが町に戻ってくると、港のすぐ近くで母と出くわした。停泊中の漁船の前で大柄な男と何か話し込んでいる。ここ隠巣町(いんすまち)で父に次ぐ実力者として知られる、漁師のタカヤマさんだ。カナは何だか分からないが嫌な気分になった。  気付かれないように通り過ぎるつもりでいたが、よりによって当のタカヤマさんに見つかってしまった。 「おう、カナちゃん! 元気かい!」  タカヤマさんは目を細め、まるでライオンのような髪と髭を震わせながら豪快に笑った。その下腹はビールの飲み過ぎででっぷり飛び出していて、さながら本物の野獣だった。 「カナ、ちゃんと挨拶しなさい」  遠慮がちに会釈するだけで去ろうとしたカナを、母のハナエがたしなめる。心なしか、母は普段カナと出かけたりする時よりも強めの化粧をしている様だった。その事実がカナを一層嫌な気持ちにさせる。  カナの母は、父と一緒にこの町で育った幼馴染同士だった。カナが生きてきた年月の何倍もの時間を共に過ごしてきている。その父が行方知れずになっているのに、何故こんな風に他の男の人と平気で楽しそうに話したり出来るのか、カナには分からない。  カナにはまるで、最近の母が父のことなど忘れようとしているみたいに思えた。例えばリョウがある日突然いなくなったら、カナにはそんな風に振る舞える自信が全然ない。たとえダーちゃんといる時でさえも、カナは父のことを想っているというのに。 「カナちゃんは何度見ても、ハナエさんと似て美人さんだなぁ。今でこれなら大人になった時が楽しみだ」  ガハハと笑うタカヤマさんに、カナは心の中でアカンベーをする。普段なら美人と言われること自体は嫌ではないが、タカヤマさんの場合は如何にもおべっかを使っている印象が拭えないのだ。それもカナというよりはむしろ、カナの母に気に入られるために。  タカヤマさんの専門は日本の領海内での底曳網(そこびきあみ)(りょう)だった。船から下ろした巨大な網で海底をさらい、カニやエビやホタテなどを一度にごっそり獲る。豪快に思えるが、その活動範囲は言ってしまえば本土周辺の海だけだ。優に数ヶ月もの間、日本から遠く離れた太平洋まで行ってカツオと一匹ずつ格闘して回る父に比べればなんてことはないと思っていた。操る船の大きさだって倍以上違う。  無論、そんなことを言うたび父には叱られた。命がけの漁に大きいも小さいもない。海に出る男は全員が誇りある漁師仲間だ。それが父の信条だった。父は自分より四歳年上で、漁師としても先輩であるタカヤマさんに敬意を払っていた。 「ごめんなさい、愛想のない娘で」 「いやいや、気にする必要ない。年頃の女の子なんだから……繊細で当たり前だ」  その繊細な年頃の実の娘がタカヤマさんには既にいて、しかも元の奥さんにつれて逃げられてしまったことを、カナはちゃんと知っている。タカヤマさんの家で何があったのかまでは知らなかった。知りたくもなかった。 「……お母さん、どうしてお父さんが死んだなんて認めちゃったの。お父さんが可哀想だよ」 「やめなさい、カナ」 「お父さんは生きてるもん。お母さんがなんて言っても絶対に死んでないもん」 「今ここでする話じゃないでしょ」  タカヤマの手前というのもあってか、カナの母は慌てた様子になっていた。漁船の残骸が南太平洋で見つかって三ヶ月、役所に父の死亡推定を届け出たのは母だった。カナには母のその行動が何よりも許せない。 「お母さんは、お父さんのことなんて忘れちゃいたいんだ。そんなに好きならタカヤマさんと一生仲良くすれば!」 「カナっ!」  母が怒った声を上げるより先に、カナは一人で自宅の方向に駆け出した。カナだけでも父が生きていることを信じていてあげなければと思った。  塩水がまた頬を濡らしていた。
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