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04 暖かな時間
素晴らしい夢を見た。
青くて澄み切った海の中を、何の抵抗もなくすいすいと泳いでいく夢だ。浅瀬の底にはごつごつとした薄茶色の岩場がどこまでも広がっていて、その表面をきらきらした小魚たちがちょこまか動き回っている。
口からガブガブ飲み込んだ海水が首の両脇から勢いよく噴出され、カナの血にエネルギーを、体には急加速を与えていく。無限に広がる水の世界はカナのテリトリーだった。泳いでいる限り何処まででも旅を続けられる気がした。
やがて視界に人工的な角度を持った物体が増え始めた。水面にひょいと顔を出す。そこには海の方角から見た隠巣町――カナの生まれ故郷の夜の風景があった。
カナは気が付いた。きっとこれはダーちゃんから、ブレスレットを通じて送られてきているイメージなのだ。夜になるとダーちゃんはこうして洞窟を離れ、町の近くで海底散歩しているのだろう。夜の海の中は真っ暗とばかり思っていたが、ダーちゃんから見た世界がこんなにも澄み切っているのだと分かって、カナはなんだか嬉しかった。
その時、うおおんと何処かで大きな動物の鳴き声が発せられたのを感じた。遥か遠くの海の彼方から水を伝って届けられたそのメッセージの意味までは、カナにはよく分からなかった。ただしダーちゃんの嬉しそうな感情だけは何となくだが読み取ることが出来て、カナにはそれが、ダーちゃんの家族からのものではないかという気がしていた。
あるいはそれは、カナの無意識の願望の現れだったのかもしれなかった。
「訊いてよダーちゃん……お母さんがね、タカヤマさんと結婚するかもしれないんだよ」
またあくる日、カナは洞窟にきてダーちゃんと話していた。
話すといってもカナが一方的に語りかけているだけで、ダーちゃんはといえば水中に半身を沈めながらカナを見上げているだけだ。岩べりに上半身を預け、半身浴みたいな姿をしたダーちゃんが小首を傾げているのは普段よりも一層愛らしかった。
カナはそんなダーちゃんの頭にそっと手を触れ、愁いを帯びた表情をつくる。
「嫌だよそんなの……私のお父さんはお父さんしかいないのに……」
「ダァ……」
カナの落ち込みが伝わったのか、ダーちゃんがカナの手の甲にそっと自分の手を重ねてくる。ダーちゃんの感情表現は、辿々しくはあるが多くは普通の人間と変わらない。ダーちゃんがカナを心配してくれているのだと分かって、カナは少しだけ気分が和らいだ。
「ごめんね……ありがと、ダーちゃん」
「ダァ」
小さく鳴いたダーちゃんが突然、身を翻して水中へと消えた。ふと気付いて振り返ると、洞窟の入り口からリョウが遠慮がちに中に入ってくるところだった。
カナは慌てて目元を拭いながら、その場に立ち上がる。
「リョウ」
「……誰かと話してた?」
リョウはおずおずと確かめる様に訊いてきた。
「カナの声がこっちの方から聞こえたから」
「……ううん、何でもない。ごめん、勘違いさせちゃって」
「でも、さっき……」
「……ホントに何でもないって……ううん、嘘。本当はイルカと話してたんだ、さっきまで。迷い込んじゃったみたいで」
「イルカ!?」
リョウがぎょっとして声を裏返す。カナは口元に人差し指を当ててリョウを制した。
「しーっ……大きな声出さないで、驚いちゃうから」
「ご、ごめん。でもビックリして」
「大人の人たちには、もう少しだけ内緒にしておいて。大騒ぎになって怖がらせちゃうといけないから」
「あ、うん……分かったけど」
リョウは素直にそう応じてくれた。カナは内心でホッとする。どうやらダーちゃんの正体にまでは気付いていないようだった。いつかはリョウに謝ろう、とカナは騙すような形になった幼馴染に密かに詫びた。
「目、大丈夫?」
「何でもないって。心配してくれてありがと」
「ハンカチあるからさ、拭いたら」
「うん」
リョウが差し出した、洗濯したてのハンカチでカナは目元を優しく拭う。ハンカチは数年前流行っていた変身ヒーローのキャラをプリントしたものだった。まだ昔のものを使っているらしい。恥ずかしがって口にこそ出さないが、リョウは何処かで正義のヒーローみたいなものに憧れているのかもしれなかった。
「あのさ……昨日、ごめんな」
「何が……?」
「俺、カナの気持ち考えないで酷いこと言っちゃったからさ。いい気味だ、なんて」
「……いいよ。気にしてない」
そういえば浜辺で学生たちが溺れかけた時、そんなことを言っていた気がするがあまりよく覚えていない。何せあの時は、カナ自身の所為だと思っていたのだし。
「私こそごめん。最近、いつもリョウに心配かけてるよね……人の泣いてるとこばっか見たくないよね……」
「……そんなことないよ」
リョウが何故か消え入るような声になって言った。
「……お前が泣いてるとき……なんか分かんないけど、その……」
「えっ、聞こえないよリョウ、何?」
「……何でもねーし!」
リョウが今度は微妙に怒ったような声になる。やっぱり最近のリョウはよく分からない。何だか可笑しく思えてしまって、カナは目を細めて小さく笑った。悲しいのか楽しいのかもはやよく分からなかった。
ブレスレットからは、ダーちゃんの楽しそうな感情が伝わってくる。ダーちゃんも何となくこの雰囲気を心地よく思っているのだろうか。はたまた逆で、カナの方の感情がダーちゃんに流れ込んでいる結果なのだろうか。カナには判別がつかなかった。
「きゅいっ……きゅいっ……」
「……何してんの、リョウ?」
突如としてリョウが奇妙な行動を始めた。そっと忍び足で水面の方に近づくと、裏声を出して可愛らしさを演出し、水の底に向かって何かを懸命にアピールし始めたのだ。
「イルカ、出て来てくれたらいいなぁと思って」
「……それ、もしかしてイルカの鳴き真似のつもり?」
「似てるだろ」
「すごくアホっぽいよ、リョウ」
大真面目な顔でそんなことをするリョウに、つい吹き出しそうになる。
「アホって言うなし……わわわっ、わーっ!?」
反論しようとして、余所見をしたのがいけなかった。リョウは岩べりで足を滑らせ、派手に水落ちしてしぶきを跳ね上げた。安穏としていたダーちゃんイルカが、びっくりして海の方に逃げ出した。
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