05 ダゴン

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05 ダゴン

 おぞましい夢を見た。  暗い空の下で町が紅蓮に燃え上がり、道という道を人とも魚ともつかない化け物の群れが無限に押し寄せてくる夢だ。  炎で真っ赤に染められた半魚の化け物どもは、道のそこかしこで人間を――正確には女性ばかりを狙って地面に押し倒し、邪魔な衣服を引き裂いてはケダモノの風貌そのままに乙女たちを欲望の餌食にしていく。地獄に突き落とされるような苦悶の叫びが、立ち上っては消えていた。  果敢にも助けに向かった一部の男たちは尽く爪の一撃で跳ね除けられ、牙で喉元を食い千切られて、憎むべき半魚人どもの血肉に取り込まれていく。  幼馴染の少年が、自分の手を引いて見たこともない必死の形相で走っていた。その少し先を、二人よりも数才年上の小太り少年が、泣き喚きながら全速力で駆けていく。  彼らが通りすぎた場所の至るところで、むごい仕打ちに遭い地面に横たわった女たちのすすり泣きの声が木霊していた。ほんの数才しか自分と違わないであろう制服姿の少女から、親と同世代ぐらいに見える成熟した女性まで、殆ど見境なしであった。  決して振り返るなと言われた背後からは、未だに新たな犠牲者たちの、死よりも一層残酷とさえいえる恐ろしい悲鳴が断続的に巻き起こっている。  この世の終わりに匹敵せんばかりの地獄めいた悪夢が、目の前に顕現していた。  その時、どおんという爆発にも似た音がして、港の方で巨大な水柱が立ち上った。町中を震わす雄叫びに、思わず全員が立ち止まる。  水飛沫が落ちきった時、そこにいたのは太い手足と胴、そして牙だらけの頭を持つそびえ立つような親玉の巨獣だった。町の炎に照らし出されたそれが高らかに咆哮した――。 「――ハッちゃん! ハッちゃん! 大丈夫!?」  ハナエは、カナの母は、知らぬ間に突っ伏していた寄り合い所の机から跳ね起きるようにして顔を上げた。見回すと、隠巣町の町内会メンバーが恐る恐るといった顔つきでこちらを覗き込んできている。  どうやら、会議出席中に疲れが出て眠ってしまっていた様だ。思わず顔に手をやると、嫌な汗がじっとりと滲んでいた。あんな悪夢を見せられた後では無理もない。学生時代からの友人がひどく心配そうにしていた。 「うなされてたよ……寝られてないなら無理に来ることなかったのに」 「ごめんなさい、皆さん。御心配おかけして。大丈夫ですから、もう」 「シンゴのことで辛いのは皆んな同じだ」  老年の町内会長が、容赦のない口調でそう言った。 「だが今は、町全体の将来に関わるかもしれないことを話してるんだ。そんな気の抜けた調子じゃあ困る。いくらシンゴの嫁だからといって」 「まあまあ、ハナエさんだって悪気があった訳じゃないんだから」  同じく出席していたタカヤマが、とりなす様にそう言った。相変わらず表面的な態度だけは善人めいているが、どこまでが本音かは知れたものではない。  休漁期にあたるこの季節、町内会には普段より多くの人間が出席していた。 「それより話の続きです。その学生たちは確かに、海で河童に襲われたと言ったんだね」 「何度も聞き直しましたが、間違いないです」 「酔っ払ってたんですよ、単に」  町の駐在所員である巡査の報告を、八百屋帽を被った別の参加者がすぐさま否定した。彼は他ならぬリョウの父親だった。表情だけ見ても実に億劫そうだ。 「大体なんで海ん中に河童がいるんだ。ウチの息子の話じゃ、そいつら海にゴミを捨てまくってたそうじゃないか。そのうえ子供に怪我までさせようとして。酔っ払って溺れたんで、幻を見たんだろうよ、きっと。自業自得だ」 「アンタはそういうがね、もし万が一ダゴンの生き残りがいたらどうするんだ? 一大事なんだぞこれは」  ダゴン。今から三十数年前のある日、太平洋に突如として出現した水陸両棲の巨大生物とその眷属(けんぞく)たちのことを、人々はまとめてそう呼んでいる。  その正体は古代文明の生み出した生体兵器であるだとか、宇宙から飛来した異星生物であるなどと、様々な憶測が流れているが正確な出自は不明のままである。回収された死骸の分析からは、ダゴンは解剖学的にも遺伝学的にも既知のいかなる進化の系統にも属さない、異常かつ不可解な生命体であるとされている。  だがダゴンの生態に関して何よりも恐れられているのは、主に人間大をしたその眷属たちが、人間の女性ばかりを狙って力づくで異種間交配を遂げようとする点である。  ウイルスが生物の細胞に寄生しなければ自己複製できない様に、ダゴンたちも人間の胎盤を利用しなければ繁殖できない生物ではないか、という説が提唱されているが、真相は定かではない。何であれ人間にしてみれば、その生態は害獣以外の何物でもないのだ。  三十年前の上陸時は隠巣町を襲撃後に自衛隊が駆けつけ、どうにか撃退に成功したが、親玉にあたる巨大ダゴンは度重なる追撃を振り切り、遂に死骸は発見されなかった。  ダゴンの繁殖に一方的に利用された女性たちの実に半数近くが妊娠を認められ、多くは堕胎を選択した。宿した命に何の因果か愛着を抱いてしまい出産を選ぶ者もごく少数いたが、彼女たちは例外なく生まれてすぐに赤子は死亡したと嘘を伝えられ、国の機関が回収した我が子を一目でいいから見たいと求め続けるうち、病室の中でいつしか正気を失った。  また妊娠の有無に関係なく、被害に遭った女性全員が社会や周囲からの容赦ないバッシングや偏見の目に晒された。時代や土地柄もあったろうが、結果的に人生そのものを奪われ、命を自ら絶ってしまう被害者が続発した。ハナエの四十年以上の人生の中であれほど苦しく、痛ましい日々を他には知らない。  町内会に集まった殆ど全員が、ダゴンと訊いて深刻そうに黙り込んでいた。理解の及ばぬ顔をしているのはリョウの父親だけだ。彼らの家族は事件のずっと後に引っ越して来たので町民たちの恐怖や忌避を肌感覚では分からない。元来よそ者であったことが彼らのいい点であり、悪い点でもあった。 「そもそも、何でまた今になってダゴンがこの町に来る必要あるんだ? あれから、何処にも出てないんだろ。観光地巡りする訳じゃあるまいし」 「分からんぞ。奴らの棲んでるのは太平洋の底らしいじゃないか。シンゴの漁船が沈んだのも案外奴らの仕業なんじゃないのか」 「まさか!」  恐ろしい予想に町内会の面々が色めき立つ。 「ウチの連中を食って味をしめたんだきっと」 「シンゴの娘が狙われてるのかも分からんな」 「ちょっと皆さん、いくらなんでもハッちゃんの前なんですよ。いい加減にして下さい」  ハナエは気分が悪くなってきた。  夫の死を受け入れて数ヶ月、遺された債務の整理や各種手当の申請など気の重たくなるような手続を繰り返し、ようやくひと段落したと思った矢先にこれである。娘のカナとも日増しにすれ違いが大きくなっているし、このままではハナエまで潰れてしまいそうだった。 「おい、今からでも間に合うか!?」  腰の曲がった白いひげ面の老人が、泡を食って集会所に飛び込んできた。近所では酒飲みと釣りバカで通っているサドじいである。 「海に河童が出たんだって聞いてな。実は昨日俺も見たんだよ。夜釣りやってたら急にえらいデカい魚に、釣竿持ってかれちまって。でもその魚、どう見ても手とか足が生えてたんだ」 「おい、本当か。じいさん、なんで今まで黙ってた」 「見間違いだと思ったんだよ。なんせ酒飲んでたからな。言っても信じねえだろ」 「なんてこった」 「ありゃダゴンだぜきっと。戻ってきたんだ」 「……よし、半魚人狩りだ!」  タカヤマが突如としてその場に起立し、一同に向かって提案した。 「話を聞く限り、まだ大勢は来てないハズだ。被害のないうちに自警団を作って、我々の手で捕らえるんだ」 「それより自衛隊と警察だろ」  リョウの父が横からすかさず口を挟んだ。余りにもとんとん拍子に進んでいく話に、ついていけないといった顔をしていた。 「素人の判断で動いたらとんでもない事になるぞ。パトロールする以外は、専門家呼んできて任せるべきじゃないのか」 「アンタには俺らの悔しさは分からん」  タカヤマが一蹴するように言った。 「今も昔もやられっ放しで、黙ってられるか。今度こそ仇を取ってやる」 「話にならないな」  リョウの父親を除く、ほぼ全員が威勢のいいことばかりを言って互いを鼓舞し始めていた。不安そうな顔をしているハナエのもとに、タカヤマがやって来て肩に手を置いて言った。 「ハナエさん、心配することありませんよ。カナちゃんはきっと我々で守ります。旦那さんの仇も取ってやりますからね」  ニマニマと自信たっぷりに笑むタカヤマに、ハナエは曖昧に笑って頷くことしか出来ない。夫であるシンゴの生存が絶望視されて以来、タカヤマからの一連のアピールはどうにも露骨で仕方なかった。  正直、タカヤマに対してあまり良い印象はない。力仕事の世界にしても、どうにもパワハラめいた言動ばかり目立っているとか、元の奥さんにはモラハラが原因で逃げられたとか、嫌な噂は枚挙にいとまがない。  それでも今は、この男の差し出す庇護(ひご)(ないがし)ろにする訳にはいかない。ハナエには、娘のカナを何に代えても守り抜く使命があるからだ。  漁業保険や海難遺児のための育英金、就学支援制度などを全部合わせても、娘の将来のことを思えばとてもではないが足りないだろう。そうなると現時点で残された道は、この町で夫に次ぐ実力者に護ってもらうことだ。  これからどうなるにせよ、カナには無事でいてほしい。母の願いはひっそりと夕暮れの港に広がって消えた。
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