第一話 始まりの色

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第一話 始まりの色

 スッキリとした青空だった。東京の汚い空を混じりっ気のないライトブルーのペンキで塗り直して、まるで世界がそのままごそっと入れ替わったかのような清々しさだった。 「……」  そんな清々しい空の下の、風なぞる青々と茂った膝ほどの高さの草の上に一人。今一色 翔は佇んでいた。彼がどこから来たのか、それは空から降って湧いたのか、それとも土から生えてきたのかわからない。だが、それ以上に、翔自身が一体ここがどこなのかと誰かに問いただしたいのである。 「……ここ、どこ?」  ようやく今一色 翔が言葉を発したのは、その場に佇むこと約三十分後の出来事だった。彼の服装はと言えば少し薄汚れた作業着のツナギ、そして首に巻いたタオルと黄色い安全ヘルメットとボロボロになったネジ巻きの時計。どこか周りの風景とは浮いたような彼は、混乱する頭の中で、周囲の風景が変わる寸前の出来事を掘り起こそうとする。  遺跡発掘の作業、  安全看板の設置、  現場監督の怒号、  作業場に入り込んだ少女、  断片的な記憶の点が、一つ一つの単語となって頭の中でポツポツと光っては消えてゆくが、そのどれもが今の状況を理由付ける説明にはなっていないということに気づくと翔はその思考を止めて、ある一つの結論に行き着いた。 「うん、夢だな。これ」  思考を下巡らせることを諦めて、今感じている風の涼しさも、瑞々しい草木の匂いも、地面に感じる少し湿った柔らかい土の感触を全て自分の脳内で生み出した妄想であると断定した。いや、正確には思い込むことにした。 「さてと……」  さて、これが夢であるとするのならこの夢から醒めなくてはならない。夢とは得てして、いづれ醒めなくてはならないのが道理である。今すぐ醒めないと、頼まれていた仕事も山積みであるし、それに帰ってから近所の小中学生相手に道場の準備をしないとならない。  ともかく、どんな方法であれまずは前進してみようかと。今一色 翔は一歩前へと踏み出す。泥だらけの右足に履いたスニーカーが持ち上がり一歩前へと進もうと四十五センチ弱前方の土と草を踏みつけようとした時だ。 「ん?」  薄くなった靴のゴム底から感じる硬い感触。同時に、ガリッという何か硬いものが地面に擦れたかのような音が彼の耳に入り込んできた。ふと、翔は視線を地面へと向ける。そして、自分に足の下にある何かを見るため足を退ける。 「……なんじゃ、これ」  土の湿気に若干濡れているそれは、黒く細長い。見たところ、材質は木だろうか。だが、翔にとってそれは普段見慣れている何かにとてもよく似ていた。土の中に軽く沈んでいたそれを、翔は軽く手で土を払い退け掘り起こすと高く持ち上げ太陽の元へと掲げた。 「……剣だ」  太陽の光に照らされ、ボソリと。表面に付着した水分がキラキラと様々な色に見せる。それは一振りの剣だった。  真っ黒な鞘には、銀の装飾。複数の穴が縦に並ぶんでいて、持ち手に近い部分に小さな小指の爪ほどの丸い薄汚れた小石が詰まっていた。鞘に比べて他は雑な作りをしていて、鉄を押しかためて作ったようなボロボロの鍔、持ち手は巻かれた皮のようなものがボロボロに剥がれかかっていた。 「うわ……本物か……?」  当然ながら、翔は人を殺せるような武器を手にした経験はない。あったとしても、その目的は人を殺すためではない。故に、彼は次にとった行動はひどく真っ当なものだろう 「ソイヤッサっ!」  勢いよく放り投げられた剣は上空でキラキラと煌きながら放射状に飛んでゆく。まるで虹のように綺麗な曲線を描いた剣は地面に軽い音を立てて落ちると剣の鞘はある一方向を向いて倒れた。 「よし、こっちだ」  落ちた剣が指し示した方向を確認した翔は、その先に広がる大草原へと足を進めてゆく。当然、放り投げた剣はそのまま放置である。どんな理由であれ、武器など拾うものでもないし、ましてや携帯して行くなど以ての外である。  そんなもの、ファンタジーの頭の涌いた自意識過剰の主人公で十分だ。 「にしてもリアルだなぁ……」  翔自身、夢自体は見ることは多いし、内容などはどちらかというと寝起きですぐ文章に起こせるくらいには鮮明に覚えているほどである。だが、これほどまでリアルな夢というは全くもって初めての経験である。  尤も、これが夢であるのならばの話だが。  黙々と歩き続けること一時間と少し。そばに誰もいなく、一人でせっせと孤独で歩くのに少々疲れと喉の渇きが出始めた頃合いである。慣れない獣道を歩きながら、今現在現実で自分は一体どうなっているのだろうかと考え出した頃合いでもあった。 「頭でも打ったのかな……起きたら病院のベットだったりして……」  純粋に眠気で眠っているのならば、剣を踏んづけた時点で目が覚めているだろうが、前後の記憶から考えて急に眠気に襲われて眠ったとは考えづらい。だとするのなら、自分がなんらかの事故に巻き込まれて昏睡状態になっているのかもしれないと考えるのが妥当だろう。 「参ったな…金どうしよう……」  夢であるにもかかわらず、冷静な判断ができているということに気づいていない翔は、純粋に目覚めた後のことで頭がいっぱいである。何しろ、翔はアルバイトで遺跡の発掘調査、そして彼の父親が運営していた道場を引き継ぐ形で運営をしているものの家計は火の車なのである。とてもではないが、入院費と治療費を払えるような余裕はない。 「渡辺にまた借りるか……」  高校時代に入っていた剣道部の友人の顔を思い浮かべながら、すでにいくら分彼から借金をしているのだろうと記憶を掘り返しながら歩く。そして、それからさらに一時間ほど経過した、 「み…水……喉が……」  慣れない道が余計に体力を奪い、脱水症状が翔に襲いかかる。気温は高く初夏のような暑さと独特の湿っぽい空気が体に纏わり付き、そんな中を作業着のツナギを着ながら二時間以上歩き詰め汗をだらだら流しているのである。すでに上半身は脱いで、黒のタンクトップが露わになり、さなぎの抜け殻になったような、つなぎの上半身を雑に腰に巻いたスタイルで、翔は額の汗をタオルで拭いながら歩き続ける。 「リアルすぎんだろ……この夢……」  いまだに夢と信じて疑わない彼に、ようやく一筋の光明が見え始めた。遠目ではあるが、ようやく町らしきものが見え始めたのである。自然と、翔の足は早くなって行く。  とにかく、彼の頭の中にあるのはこれが夢であるのかどうか。  夢から醒めた後の金のやり繰り、    友人に借りたまんまの金とライトノベルの数冊、  そんなことは全部吹き飛んで、翔は周りの風景や通りかかる人々に目をくれることもなく一目散にある場所へと駆け寄った。  「み、水っ! ガボボボ……っ!」  ザバンという音ともに、頭から木桶に入った水を思いっきりぶっかけた翔は口と鼻に入り込んでくる冷たい水の感触に大きく息を吐く。この町の中心に位置する場所には大きな井戸があり、その周りには洗ったばかりの洗濯物を取り込もうとする主婦、疲れた子供に水を与える親、汚れた足を洗う男の姿などがちらほらとあった。 「は〜、さっぱりし……た」  そして、二回目に水をかぶった時点で火照った脳みそが冷静になったのか翔は、それらの視線が自分に向いていることにようやく気付いた。 「す、すみません……」  悪いような気がして、いたたまれなくなった翔は軽く背中を丸めて井戸から離れて、その周囲に置いてある丸太を縦に真っ二つにしたような簡易ベンチに腰掛けながら鼻に入り込んだ水を啜ろうと鼻をズビズビと言わせている。 「おう、にいちゃん。すげぇ飲みっぷりだったが。ここらじゃ見かけねぇ格好だな。どっから来た?」 「ズズッ……へ? えっと。自分、八王子からで……」 「ハチオウジ? なんじゃそりゃ、地名かい」 「え、いや。それは地名で」  素っ頓狂な返答に、思わず顔を上げて野太いハスキー声で話しかける男の方へ面をあげた翔はその瞬間、むせる寸前の喉の奥からひゅっと変な音が鳴り、言いかけた『しょ』が止まった息によって殺された。 「なんだい、にいちゃん。そんな化物を見るような目で」 「……」 「……え、おい。にいちゃん、大丈夫かよ。変なところに水が入ったか? ん?」  心配そうな目で、翔を見る男はその手を翔の肩にかけて何度か揺さぶるが首を何度かカクカクさせたところで、ようやく脳内で完全に停止していた思考と生命活動が再開した。 「……それ、被り物ですか……?」 「あん? 喧嘩売ってるんかい、にいちゃん。こいつは正真正銘俺の頭よ」  どこか生臭い息、そして目の前で様々な表情を見せる狼だか野犬のような頭。だが、その下についているのは犬や四足獣の体ではなく正真正銘健康体そのものの筋肉隆々の人間の体である。  最近になって、獣の頭を被った歌手とかが売りに出していたりするがそれの延長線上で自分が知らないだけでそういうのが流行になっているのだろうか、だがそれにしてはあまりにもリアルすぎる。そんな考えを頭の中で巡らせながら翔は次に出てくる言葉を必死に編み出そうとしている。 「え、えっと……その……自分の住んでたとこでは、あまり見かけなくて……?」 「あ? 別に獣人なんざそこら中にいるだろうよ。どんな田舎から出てきたんだにいちゃん」 「そ、そうですよね。あはは……」  確かに、八王子が東京の中心に比べて田舎っぽく見えるのは仕方がないが、それでもこんなリアルな狼頭の人間がうろついている街など、一回悪ふざけで高校の時に行った渋谷のハロウィン以外知らない。と、突っ込みたい気持ちをぐっと堪えて翔は冷静に考える。    これは夢なのだ。  これは現実ではないのだ。  これは妄想なのだ。 「とにかくまぁ、なんだ。何かに困ったんなら、この街にもギルドがあるんだ、そこに行ってみたらどうだ?」 「ギルド……?」 「おうさ、このイニティウムのギルド。なかなかの別嬪さんが受付をやっていてなぁ……」 「それって、どこにあるんです?」 「ん? あぁ、あの角を突き当たりに右に行ったところだ、まぁわかりやすい建物だから見ればわかると思うが…」 「そうですか。ありがとうございます」 「おう、気をつけて行けよ」  顔と体格に見合わず、随分と世話好きな男だと翔は思った。そして、思わずあの狼頭にばかり目が行っていたが、その服装というか装いもまた異常なものだった。筋骨隆々の体を覆うように、茶色い皮を滑したような鎧に、その太い腰には大きな剣がぶら下がっていた。  剣士なのだろうか、どちらにせよ現実離れしている。それよりも『ギルド』なるものを教えられたのだから行くだけ行ってみようかと翔は町の突き当たりを右に曲がって行く。通り過ぎて行く人に、会釈をしながら進んでゆくが通り過ぎて行く人々が全員獣の頭をしているわけではなく、普通の人らしきものも見える。だが、やはり時々頭が獣そのものだったり、なぜか人間の頭のくせに頭部には獣の耳が生えているような輩もいたりと街を歩いているものは全くバラバラである。それに、通りがかる人すべて行ったことのない外国の田舎のような雰囲気だ。 「あれかな…」  目の前に見えてきた、周りの建物に比べて一際大きい建物、だが丸太を組んで作られたようなそれは、山に入る前に入山許可証をもらう山小屋のような。  そして、そんな建物の中から三人の動物を狩ることを生業にしている格好をした男が上機嫌で出てくる姿見えてくる。聞こえてくる会話は今日の稼ぎがいつもより良かっただの、この後飲みにでも行こうかなどといった内容である。  入るだけ入ろうか、と意を決した翔はギルドと呼ばれる建物の入り口に建てつけられている木の扉のドアノブをゆっくりと引いた。 「いらっしゃいませ。どうぞ、席に座ってお待ちください」 「あ……はい」  ドアを開けた瞬間、ひどく明るい、優しい女性の声が山小屋の中に響いた。  山小屋の中は、まるで銀行の待合室のようだ。座っている人は、何かをするわけでもなくただただ静かに自分の順番を待っている。中には、それぞれ手にしている袋の中身を漁って何かを確認しているようなものもいた。だが、相変わらず小屋の中にいる人種はバラバラだ。獣の頭をしたものから、普通の人間まで。そして、普通の人間もどこか日本人離れした顔立ちをしていてスッと花の高い、目の色や髪の色も違う外人のような見た目をしていることに気づいた。  そして。翔は女性に言われた通り、部屋の中にある椅子に腰掛けた。その間、受付の方では一人の女性が数人のマタギ姿の男たちの対応をしていて、耳を傾けても聞きなれない単語が飛び交うばかりだった、だが用を終えて出口へと向かう男共の表情はどこか柔らかく、悪く言うのであればデレデレとしているようだった。 「次のお客様、どうぞ、受付の方へ」  黙ったまま席を立つ翔。そしてゆっくりとカウンターへと向かった彼の先にいたのは、鮮やかで春の若草のような色の髪を美しく流れるように一房に纏めた女性だった。そんな姿に思わず翔も身構えてしまう。普通の人間の髪色ではないが、その美しさの前に常識などは必要なかったのだ。 「こんにちは、本日はどんなご用件でしょうか?」 「え……えっと、その……」  言葉に詰まる、無理もない。翔の目の前にいる女性は、彼が今まで生きて来た中で触れ合った女性の中で群を抜いて美人だったのだ。どこか知的な面持ちしている、その目鼻立ちは見るものを吸い込むような魔力を感じた。 「あの…大丈夫ですか?」 「あ、いやっ。はいっ! 元気ですっ」 「フフッ、それは良かったです。見た所……冒険者の方? でしょうか、身分証はお持ちですか?」  軽く頬を緩ませた、彼女の表情もそれは美しいものだった。こんな女性と話しているのだ、先ほどの男共が顔を緩ませるのも無理はない。しかし、彼女の言葉から聞きなれない単語を聞いた。 「え? あ、身分証? なんのですか?」 「はい、ギルド証というものなんですけど。お持ちではなかったですか? これくらいの木製の板なのですが…」  女性は胸の前で免許証ほどの大きさの長方形の形を指を使って表現するが『ギルド証』なるものを翔は当然ながら身につけていない上に、そのようなものを聞いたことがなかった。そして、翔はあることに気づいた。今まで、目の前の女性の美貌に触れて来ていたが、ここで初めて彼女もまた人ならざる姿をしていることに気づいた。 「えっと……その、耳…」 「え? あぁ、はい。私エルフなんです。ここでは珍しいですよね」  そう言いながら頬を少し染めて彼女は自分の顔の横に細く長く横に突き出た耳に触れたが、翔の頭の中では情報が処理しきれずすでにキャパオーバーである。そして、翔の頭は徐々に頭の奥から釘を叩き込まれてるような痛みが走り始めていた。 「あの? 大丈夫ですか? 顔が真っ赤ですよ?」 「ヒュ……っ」  突如、翔の額に暖かい温もりが添えられた。その温もりは、まさに目の前の絶世の美女エルフの右手によるものである。脳内キャパシティーが著しくオーバーしている状況で、彼女の行為はまさにトドメを刺したものである。    次の瞬間、大きくぐりんとひっくり返った翔の目は虚空を見据え、全身を硬直したまま棒倒しの如く勢いよく大きな音を立てて背中から地面へとダイブした。倒れこみ、意識が宙へと彷徨う最中、幾度か体を揺さぶられ声をかけられるものの徐々にフェーズアウトしてゆく意識に抗うことはできなかった。  そして、暗闇が完全に翔を包むとき、 『あぁ、どうかこれが夢であってくれ』  と、思ったのだった。
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