政王不在

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       ―異国の地Ⅰ―    ウラル・ギリィは、美しい少女だ。 学習場の常勤医師オルカは、それが彼女のこれからに、何らかの影響を及ぼすだろうかと考える。 際立(きわだ)つ美しさを見て、ことさら、人のそれを見て、どう思うかはそれぞれで、多くは、とても極端な感情を招く。 一方が(あが)めるなら、他方は、(おとし)めることすらある。 平和なアルシュファイド王国でも、そういう、人の闇は、確かにある。 ほかの国と違うのは、その、暗く、重く、苦しい感情を、痛みとして受け取ることだ。 憐れみや情けを、安易に与えるのではなくて。 抱きしめる強さを持つ、人が多いから。 助かって、いる。 「はあ…、小箱の整理ですか…」 朝早くから、弟コーダ・ギリィと従弟(じゅうてい)ニト・クーディ・レイを連れて学習場にやってきたウラルを捕まえて、オルカは昨日(きのう)、デュッカと話したことを実行しようとしていた。 昨日(きのう)は、ウラルたちは、保護責任を負いたいと言ってくれる人々との面会があって、早めに未成年者保護施設に帰ってしまい、話す機会がなかったのだ。 「うん。まあ、仕事みたいに思うかもしれないけど、ちょっと変わったこともして、気晴らしとかになるといいかなと思ったんだ。その家には、1歳で、ちょっとニトには小さすぎるかもしれないけど、男の子がいるから、一緒に遊ばせるといいよ」 「え、と…」 「もちろん、大人が見ていてくれるから、大丈夫。君とコーダは、小箱の整理を手伝ってほしい。だめかな」 ウラルは、弟を見て、どうする?と聞いた。 「ん…。おれ、どうでもいい…」 コーダも、どのように考えればよいのか、判らずに言う。 オルカは言った。 「これから、どうするかを考えることを、一旦、休むんだ。そういうときはね、何か、仕事みたいなことをしていると、気が(まぎ)れるってことがある。毎日、学習している間は、あんまり先のことを考える不安がなかったり、しないかい」 ウラルは、なんとなく、言われていることが分かったと思った。 オルレアノ王国で旅をしている間は、先のことを考えるよりも、足手まといにならないように努力することで、気が(まぎ)れていたと思う。 「ああ…、はい。そうですね。でも、考えなくて、いいんでしょうか…」 「それはもちろん、考える必要はあるけどね。ずーっと考えている必要はないんだよ。そんなことをしていたら、疲れて、(かえ)って、何をしていいか、分からなくなってしまうよ。だから、ひとやすみ。してごらん」 「ひとやすみ…」 その言葉は、どこか、ほっとする、ひとことだった。 「はい。じゃあ、よろしくお願いします…」 「うん。こちらこそ、よろしくね。9時にあちらに着くようにするから、8時半ば頃に迎えに行くよ。ところで、今日も早いね。ニトを預けに?」 「ああ、はい。何もすることがないので、ちょっと、様子を見てて…」 ニトは、学習をするには、少し小さい。 そういう子は、学習場では、どちらかと言うと、預かって世話をしている。 学習場は、11歳になる年に卒業することを目安としているが、学校に進学せず、ジェッツィが検討しているように、学校以外の場所で学ぶ、修習生、と呼ばれる者などが、引き続き学習場に出入りして、情報収集や、進路相談をする。 学習を始められる年齢も、目安を6歳としていて、それ以前の子は、身の回りの道具の使い方を、教えると言うよりは、覚えさせている。 「そうかい。今からちょっと、奏楽室に行こうと思ってるんだが、見に行かないかい」 「え、と…」 「そうがくしつって何?」 コーダに聞かれて、楽器を奏でるところだ、とオルカは答えた。 「オルレアノ国には、どんな楽器があるんだい」 「がっきってなに」 「笛は分かる?」 「えっと、つのぶえとか、ゆびぶえとか?」 「そうそう。指笛は、楽器とは言わないかな。物じゃないから。角笛と言うことは、何か動物の角?」 「うん。ヌッダの、つの」 「ヌッダって、獣?どんなの?」 「えっと、黒くておっきい」 「四つ足?」 「よつあし…」 「4本足?」 「あ、うん。足は4本。って、ふつうじゃないの?」 「エラ島にいる、ザラって言う獣は、人と同じように、2本の手があって、足は2本だよ」 「へえ…」 「えっと、そろそろニトを…」 ウラルがそう言うので、取り敢えず、低年齢のなかでも、特に年少者が集まる区画に、オルカも付いていくことにした。 ニトを預けると、知らないなら見に行こう、と言うオルカの誘いに乗って、ウラルとコーダは付いてきた。 奏楽室に入ると、何人かの少年少女がいて、何か、手に持つ物など、音を出していた。 「楽器の保管庫はこっちだよ。打楽器って言う、打ち鳴らすものは、まあ、簡単かな」 そう言いながら、オルカは2人に、様々な楽器を持たせて、音の出し方を教えた。 しばらくすると、部屋の中に、ひときわ高い、うつくしい音が鳴り響いて、ウラルは振り向いた。 部屋中の注目が、1人のうつくしい少女に集まっており、彼女は、嬉しそうに笑っていた。 「あれ、なに?」 コーダが聞き、ウラルは視線を戻した。 「ん?今の音かい。たぶん、ベンリュートじゃないかな。ほら、これ」 オルカがコーダに渡したのは、ひとつの楽器と、棒だった。 音の出し方を教わって、コーダがやってみたが、上手に奏でられたとは言えなかった。 「ウラルもやってみるかい。ほら」 渡されて、ウラルも、言われるように、弓だと教わった、棒を動かした。 コーダよりは、まあ、聞ける音が出て、オルカの褒め言葉に励まされ、ウラルはもう少し、弓を引いてみた。 時々、失敗したようだったが、繰り返しているうちに、うつくしい音が出て、ウラルは、その音色に聞き入った。 「ウラル、すごい」 コーダが、目を大きくして言う。 「うん、上手。興味が持てたら、教わってみるといいよ。教師を紹介しようか?」 「えっ…」 「そんなに重く受け取らなくていいよ。毎朝ここに来るなら、相談員の方がいいかな。ああ、あそこにいる」 オルカは、部屋の(すみ)で、少年少女の様子を見ていた、10代後半と見られる少女を手招きした。 「この子に、ベンリュートの弾き方を教えてくれるかい」 「ええ、はい。もちろん。基本は、(あご)に挟んで、そう、こんな風に持って、一気に手前に…そう!」 相談員は、熱心にウラルに教え、オルカは、コーダに、もう少し扱いの簡単そうな楽器を、次々持たせた。 ウラルは、ほんの時間半ばほどで、驚くほど上達し、ひとつの旋律を弾いて見せた。 「おお!きれいだね!何か意味のある旋律?」 「え?いいえ。なんとなく、こんな感じと思って、出してみただけ」 「すごいね」 ウラルは、オルカの賛辞に、戸惑うように、ええ…、とか、呟いた。 「毎朝暇なら、気晴らしになれば、また来るといいよ」 「あ、はい。私、ちょっと、好きみたい」 「そうか」 「おれ、よく分かんない…」 「ははっ、まあ、コーダは、また、別のこと探そう。絵を()くとか」 「んー?絵って、なにか、いみあるの?」 「絵は()いたことある?」 「うん。形は、言っても、わかんないよ」 「ああ、そうだな。形だけの絵もあるけど、風景とか、()くものもあるよ。もう…、今日は時間ないから、明日(あした)の朝、また会おう。いろんな絵を見せるよ。ウラルも、一度見てごらんよ」 「あ、ええ。はい。それじゃあ、私たち…」 「うん。君、どうもありがとうね。楽器は、使ったものはこっちに置いて。あとで、手入れしてから、仕舞(しま)うから」 「はい」 「はい、これ」 ウラルとコーダは、楽器を指定された場所に置いて、オルカの案内で、いつもの編入者用区画まで戻った。 ウラルは、しばらく学習場で学ぶが、基礎知識が、ある程度身に付けば、学校など、別の教育施設を利用していいと言われている。 まだ、定住先も決まらないので、担当の教師からは、焦って決める必要はないとも、言い添えられている。 コーダは、今年11歳になるので、進路を決めるのは、半年後くらいでいいと言われている。 教室に入ると、見知った顔触れがあるが、特に親しくしていないので、声を掛け合うことはない。 コーダは、オルレアノ王国から同行したカナト・ヴィレノという少年と、声を掛け合う程度には仲良くしており、挨拶した流れで隣の空いた席に座った。 カナトの、反対側の隣には、ナーミ・リオという少女が座っている。 やや、当たりのきつい少女で、ウラルとしても、あまり、そうした気配に近付きたくない意識があり、コーダに近い机に無言で着席した。 カナトとナーミも、未成年者保護施設では一緒だ。 食事の時間が合うこともあるが、ウラルは、大人が世話してくれるとは言え、ニトから、あまり目を離したくなくて、ほかの者に親しもうなどと、考えは、ちらりとも(よぎ)らない。 コーダは、少し慣れてきたようだが、姉と従弟(じゅうてい)が気に掛かるのか、(そば)にいてくれる。 少し待つと、担当の女教師が、相談員の少女を伴って教室に入ってきて、必要事項を口頭で伝え、重要なことや、必要と思われる事柄の詳細を記載した紙を配ったりする。 今日は、今週が彼らの滞在、ひと月目の終わりとなるので、暁の日に渡された資料をもとに、来週から受けたいと思う授業を選んで、自分たちで組み立てた学習計画表を提出する。 これはとても簡単で、計画を立てられなければ、自分が受けたいと思う授業に、印を付けるだけでも構わない。 それをもとに、今日の9時からは、個別面談というものをして、学習計画を決定する。 教師は、個別面談の仕方や、そのあとの過ごし方など説明し、今日中に、来週からの学習形態の準備を済ませるのだと言った。 「明日(あす)は予備日です。今日中に終わらなかったことがあれば、明日までに終わらせればよいです。明後日(あさって)は、皆さんのための特別授業はありません。休日と考えて、学習場に来ずにのんびり心身を休めてもいいですし、学習場に来て、来週からの予習や、何か相談があれば、受けます。特に教えてほしいことがあれば応じますので、声を掛けてください。では、9時まで一旦、休憩です」 その声を受けて、一同は時計を見る。 カナトが、コーダを誘って、食堂で何か食わないかと言い、ウラルも飲み物を飲みに行くことにして、ナーミと4人で、教室を出た。 この食堂では、すべてが無料だ。 ただ、献立は決まっている。 今の時間は、朝食に良さそうなものが何種類か用意してあって、カナトは両手で掴む程度の大きさ、コーダはそれより一回り小さい、フッカという、ふかふかとした食べ物の真ん中に、野菜や肉を挟んだものを、ひとつずつ注文して手に入れた。 もちろん、飲み物も一緒に。 ウラルは、大きめの取っ手が片側に付いた器に、温かな白乳をもらい、自分で、砂糖や蜂蜜を入れて甘さを調節し、納得の味を作ると、コーダの隣に座った。 あっという間にフッカを食べてしまったカナトとコーダは、飲み物を飲んで息をつく。 「ふう。お前ら、保護責任者決まったのか?」 「ううん、まだ」 コーダが答え、カナトは心持ち、身を乗り出した。 「ふうん。気に入らないのか?」 「そうじゃないけど、誰を選べばいいか分かんない」 「そうか。でも、いつまでも今のとこには、いられないだろ」 「うーん」 「ウラル、お前、どうする気だ」 「分からない…」 「ふうん。まあ、もうちょっと、誰かに相談したら?いつまでも、分からないとか、言ってられないだろ」 「………」 ナーミが、あんたはどうなのよ、と会話に加わった。 「あ?俺は、決めたぜ。騎士と酒守(さかもり)って仕事してる、男同士の伉儷(こうれい)がいてさ。なんか、気が合ったから、もう保護責任者になってもらった」 「ええっ」 「なんだよ、いつかお前だって決めるんだぜ」 「カナト、その人たちと暮らすの?」 「いいや?だってなんか、他人だぜ。今週末、泊まりに行くけど、行きたい学校が決まったら、そっちに宿舎があるから、気兼ねするようなら、そっちの方が落ち着くだろうって言われてる」 「え、宿舎」 「ああ。ウラルたちは、3人一緒に住みたいんだろ。さすがに、3人引き取れる家はないんじゃないか?ニトは、いとこだし、まだ小さいから、その分、他人にも馴染むんじゃねえ?親が死んだことだって、分かってんのか?」 「分かんない…。言ってないから」 「もう、ニトだけ、誰かに預けちまえば?近くに住んでりゃ、会えるだろ」 「………」 「お前だけで、全部を背負う必要なんてないんだぜ」 思いがけず、柔らかな声が聞かれて、ウラルは顔を上げてカナトを見た。 カナトは、特に気にする様子もなく、手元の飲み物を飲んでいる。 ウラルは、温かな器を両手で包んで、その熱に意識を傾ける。 そのうち、9時に近くなり、戸口付近にいる彩石鳥が、今日は、きゅるるるる、と鳴いて、9時だよ9時だよ、もうすぐ9時だよ、と声を上げた。 面白いことを言うわけではないが、どこか遊び心があって、時間を知らせる声が毎回、違うのだ。 ウラルたちは、器などを返却口に置いて、先ほどの教室に戻った。 すると、机の配置が変わっていて、相談員が、机に1人ずつ、着席していた。 「こちらに来て、書類を受け取って。適当な相談員を選んで、面談を開始してください」 教壇にある机に着席する教師が、ウラルたちを見て言った。 「1人ずつ、誰でもどうぞ」 カナトが先に動いて、ウラルたちは、その横に、なんとなく並んだ。 ウラルの順番が来て、書類を渡されたので、振り返って教室を見渡す。 相談員たちはこちらを見ていて、ウラルは、何気なく目をやったところで、女相談員と目が合った。 なんとなく動きを止めてしまっていると、彼女はにっこり笑って、手招きした。 断る理由もないので、近付いてみる。 「よろしく、私はヨーナ・メイリンリー。相談員だよ。どうぞ、座って」 「はい…、よろしくお願いします…」 そう言って、ウラルが座ると、まずは名前を聞かれた。 ヨーナは、ウラルの持つ書類をすべて受け取り、ざっと確認すると、一番上の、学習希望用紙と大きく明示してある紙を、ウラルに向けて置いた。 「ウラルは、希望する学習内容が少ないね。各授業で何をするか判らない?それとも、何をしたいのか、決まらない?」 「あの、両方…」 「そっか。うん。大丈夫。今すぐ決めなくてもいいのよ。次第に増やしたり、減らしたり、していいの。今はただ、最初に、こうしようって決められるんなら、計画立てた方が動きやすいだろうってだけで、決められない人は決められない人で、別のやり方でいいんだよ」 「別のやり方…」 「うん。例えば、最低限の知識だけ頭に入るように、少なめに授業を組んどいて、あとから、各授業を試しで受けてみたりしながら、増やしていく。それか、もう、手当たり次第に、試しに授業を受けてから、改めて計画を立てる。その場合、今日は、授業を何も選ばないっていう計画書を提出すればいい」 「そう、なんですか…」 「まあ、それは極端な話ね。一応、あなたが受けた方がいい授業の案内はするよ。まず、と…ちょっと待って」 ヨーナは、書類を探して抜き出すと、一番上に置いて、各授業の名称と、簡単な内容を記してある、最初に提示した学習希望用紙のなかの、授業名を示しながら、話した。 「ウラルは、あまり基礎知識が多いとは言えないから、一通(ひととお)り受けた方がいいよ。真名(まな)を覚えるために、こっちは、日常生活で使われる真名を覚える授業で、こっちは、とにかくたくさん、真名を覚える。どちらか一方は取った方がいい」 「ええと…」 「本を読むのが好きなら、こっちがお勧め。そうでないなら、まあ、こっちで充分」 「あ、じゃあ、こっち…」 「分かった。じゃあ、とりあえず、これを含もう」 そんな風に、大体は二択で選んだので、ウラルは順調に、受けたい授業を選んだ。 これは、休憩を挟んで、2時間程度で仕上げることができた。 「よし。だいたい、いい数になったよ。あとは、自分の好きな順序で、1週間でひと巡りする程度に、配分する。週の前半に詰め込んでもいいし、等分にして、毎日、昼までの授業にして、昼食のあとは、進路相談室で今後のことを考えてもいい。あと、同じ授業を何回も組んで、それに関する知識を深めてもいい」 「ええと…」 「まずは暁の日から。週の始めの、朝の授業。どれからやりたい?」 「え、その…、何か意味がある?」 「ううん、意味はないよ。ただの気分。あなたの」 「気分」 「うん。地理が知りたいとか、計算したいとか、真名をひたすら覚えたいとか。この、ひと月のこと、思い出してごらん。ひとつひとつ、授業ですること、違ったでしょ?」 「…あ、うん…」 「ただ、そういうこと。私は、週の始めは、充分休んだあとだから、気力充分。そんななかでは、計算するために頭を忙しく働かせるか、真名をとにかく詰め込んで、覚えるとかがしたいかな。朝は、毎日、始まりだから、清々しい気持ちで、ちょっと難しいことに取り掛かるにはいいと思うよ」 「ちょっと難しいこと…、ええと」 ウラルは、ひとつひとつの授業を思い出してみた。 自分にとって、難しいのは、計算の仕方だ。 基本的な計算の仕方は解ったので問題ないが、例えば、何かを買って支払いをするとき、釣りとして受け取る金額の計算がすぐにできない。 今は、日常でも、桁が少ないから、問題ないのだが、一度、大きな金額の紙幣、10,000ディナリを出してしまったとき、釣りを渡されたのだが、これが正しいか判らず、勘定台で計算させてもらったことがある。 店の者は笑って許してくれたが、なんとなく、恥ずかしくて、思い出しても身が縮む。 (かね)は、未成年者保護施設で、当座の生活費と言われるものを渡された。 上限がいくらか聞いていないが、ウラルたちは、まったく(かね)を持っていなかったので、ウラルに10,000ディナリ紙幣、コーダに5,000ディナリ紙幣と、それぞれに財布が渡され、ニトには、1,000ディナリ紙幣と、1,000ディナリ分の硬貨の入った袋を持たせるように言われた。 「自分では使えないだろうけど、あなたたちが、所持金が少ないとき、ニトに掛かるお金はニトの分として支払う方が、やりやすいと思うから」 結局、(かね)を使うようなことが、まずないので、ウラルは、空いた時間にコーダに誘われて街を歩いたとき、食べ物や飲み物を求めて、自分とニトの分を支払ったぐらいだ。 コーダは、自分で支払いたいと言って、勘定を別にした。 「あっ、私、最初は、計算にする」 そう言うと、ヨーナは頷いて応えた。 「そう。じゃ、ここに。あとは、計算のために頭を忙しく働かせたら、次に持ってくるのは、地理の授業で、地図を眺めるっていう、計算とは全然違うことをするとかもいいよ」 「全然違うこと」 「そう。あと、自然現象を知る授業とかは、写真を見ることなんかが多かったでしょう」 「うん」 「そういうことでもいいよ。もちろん、知識の詰め込みが多い、真名の授業でも、好きなように」 「はい」 ウラルは、これまでの授業内容を思い出しながら、1週間の学習計画を立てた。 これは、昼食の時間を挟んで、また2時間掛かった。 この日の最後の授業は、来週の準備をするということになり、決定した学習計画表を片手に、ウラルはヨーナと教室を出た。 「まずは、教室の確認。上の階に集まってるから、簡単。確認だけしよう」 「うん」 この、ひと月は、ひとつの教室ですべての授業を(おこな)ったが、来週からの各授業は、内容ごとに教室が決まっているので、ウラルたちは毎回、移動するのだ。 言われた通り、教室は同じ階に集まっているので、廊下に掲示してある配置図や、各教室の扉の脇にある札の表示を見れば、簡単に、その教室で何が行われているのか、知ることができる。 その次は、教科書の貸出室に行き、必要な教科書を台車に載せると、今度は、文具の貸出室に入って、必要と思われる種類と分量をまた台車に載せて、戸棚室に入った。 戸棚室には、色違いで同じ形の戸棚が並んでいる。 「ここは、基本的に、貴重品を置いてはだめ。貴重品置き場は、運動遊戯室のなかの更衣室にあるから、貴重品はそこに置いて。遊戯室を使わなくても、貴重品置き場は使って構わないよ」 戸棚には、ひとつひとつ鍵が付いていて、そこに掛けられた術に、ウラルの名を刻んだ。 「こうして術を掛けているから、ある程度は安全だけどね。やっぱり、貴重品を置くのは勧めない」 ウラルは頷いて理解を示し、個人の持ち物として支給される首飾りを受け取ると、鍵を取り付けた。 鍵は、こうして首飾りに付けるか、携帯用の鍵輪(けんりん)に付けて、服の隠しなどに入れて持ち運ぶ。 「よし。もうすぐ授業が終わるね。教室に戻ろう。明日(あした)は予備日だから、また8時半ばに教室に入って、説明を受けてね。必要ないと思ったら、休んでも構わないよ。ひと月、お疲れさま」 「え、いいの」 「うん。もちろん、何か相談とか、確認したいこととか、あと、学習したければ、あの教室は今週まで、あなたたちの教室だから、使って構わないよ」 教室に戻ると、終業前に同じ説明が()されて、ウラルは、途方に暮れた。 明日(あした)、どうして過ごせばいいのだろう。 授業を終えて、コーダと2人、ニトを迎えに歩いていると、オルカに声を掛けられた。 「どうかしたかい。ウラル。元気がない」 「え、あの…」 「今日は、面会があるのかい、保護責任者候補の家族と」 「いえ、今日は…」 「じゃあ、ちょっとゆっくりしたらどう。今日のフッカもどきは、ネクサスが主原料だ。赤い色だよ」 そう言うオルカのあとに付いて食堂に入り、補食として、この時間にだけ提供されている、皿に載ったフッカもどきを、ひとつずつ受け取った。 長い台の端の方に行くと、このフッカもどきに付けて食べるための、多くは甘い調味料が並んでいる。 ウラルは、クラムという、果実を中心に様々な食材を砂糖で煮詰めたものが定量入った、小さな器と、それを(すく)うための小さな(さじ)を、フッカもどきの載った皿とともに盆に載せて、飲み物を入れた器も載せると、席に着いた。 「ニトの世話をしているところに、少し遅れると知らせておくよ」 オルカは、風の力がないので、(あらかじ)め土の力で操作できるように術を仕込まれた彩石鳥に、言伝(ことづて)を預けて飛ばした。 「なんか、こっち、彩石鳥が多いよな」 コーダに応えて、オルカは、うん、と頷いた。 「風を使うときは、やっぱり、飛ぶ鳥を思い描くよ。蝶もそうだけど、あれは動きがふわふわしているからね、あんまり伝達を預ける気にならないんだろう。それに、鳥は、鸚鵡(おうむ)っていう、喋る鳥がいることを知っているから、違和感がないんだ。音を操るのは、風の特有の性質だから、固定で言葉を繰り返すものでも、なんとなく鳥にしちゃうんだろう」 「それに、彩石、ほんと多いんだな。その、彩石の泉だっけ」 「ああ、うん。そうだね。術がしっかりしてれば、彩石がなくても、鳥は作れるんだよ。ただ、彩石を使うと、楽だから、彩石が豊富にあることもあって、まあ、彩石鳥が自然と多くなる」 「ふうん…」 「ところでウラル、何か悩んでいるのかい」 「あ、いえ…、明日(あした)、どうしようかと思って…」 「どうしようって?」 「何もすることがなくて」 「え、授業は?」 「休んでいいんですって。何か、学習とかしたければ、それでもいいって言われたけど、今まで、決まったことだけしてたから、改めて、何しようかと思って」 「へえ?コーダは?」 「おれは、明日(あした)は、授業を見に行くんだ。今日、来週からの学習予定を決められなかったから、明日、授業見て、決めるんだ」 「明後日(あさって)は?」 「休んでいいって。授業ないから。おれも何しよう」 オルカは、2人の学習予定も、ある程度は情報をもらっているが、このような細かい調整期間のことは、その時々で変わるので、把握していないのだ。 「そうなんだ。ふうん…。あ、そうだ。ちょっと待って」 オルカは、戻った彩石鳥に、新たな言伝(ことづて)を預けて飛ばした。 誰かに、ニトを預けられないだろうか、といった内容のもので、注目していると、すぐに、オルカのものとは違う彩石鳥が飛んできた。 「大丈夫だが、どういう意図だ?」 彩石鳥が、(くちばし)をぱくぱくさせて、男の声を発した。 応えて、オルカが説明する。 「ええ、レジーネと馴染めるか、試してみたらどうかと思って。それはまあ、ついでで、そちらの小間使いとかに、ニトの従姉(じゅうし)のウラルを連れて、レグノリアのあちこちを案内してもらえないかと思ったんですよ」 「ん?構わんが。それはあれだろう、風の娘。暇なら修練させればいい」 「ええ、でも、ちょっと1人で、ゆっくりさせられたらと思って」 「ああ、なるほど。それなら、そうだな。少し待て」 その会話の間に、オルカの彩石鳥が戻ってきた。 言われたように、しばらく待っていると、また、男の声がした。 「明日(あす)、未成年者保護施設に、迎えの者をやる。何時がいい」 「ウラル、いつも7時頃保護施設出てるかい」 「あ、はい」 「じゃあ、迎えの者に、7時に行かせても大丈夫?」 「ええ、でも…、あの、迷惑なんじゃ」 「そんなことないよ。都合の付かないことや、気の進まないことなら、断るからね。みんな、そのときの都合や気分で、自由に、したいことをしているんだ。そういうのは、迷惑なんてものにはならない。で、7時で大丈夫?」 「あ、はい…」 なんとなく、促されるように頷くと、話がまとまり、明日(あす)、未成年者保護施設に、2人の女が迎えに来ることが決まった。 「エリカと、ミスエルだ。少しウラルより年が上だが、年上なりに、甘えればいい」 「そうですね。ありがとうございます。よろしくお願いします。それでは」 「いや、こちらも世話になるから、お互い様だ。ウラル、藁の日の小箱の整理、よろしく頼む」 急に話しかけられて、びっくりしたが、ウラルは、は、はい!と、返事をした。 その彩石鳥は、ではな、という、男の声を最後に、()き消えた。 「半の日はまた、明日(あした)にでも決めればいいよ。明日は、迎えに来る女の人たちに、任せるといい」 「あ、はい…」 「それじゃ、ニトを迎えに行こうか」 促されて、ウラルたちは、盆をそのまま返却口から入れると、ニトを迎えに行き、オルカとは別れて、学習場を出た。 「今日は四の宮行くんだよな」 コーダに聞かれて、うん、と答える。 いつも、この時間は、何もなければ、基礎修練をした方がいいと言われたので、従っている。 まず、ニトを火の宮に預けて、ウラルは風の宮へ、コーダは土の宮へ向かった。 ニトは、強いのは土なのだが、火は怪我をしやすいし、その怪我の(あと)も残りやすいので、幼いということもあり、火の宮で見てくれているのだ。 ウラルとコーダは、17時まで、それぞれ修練をすると、火の宮にニトを迎えに行った。 ニトを預かってくれていた火の宮の女が、普段、ニトは問題ない?と聞いた。 「はい。火を発することはないです。土もですけど」 「そう。用心で、火が生じない術を掛けているからかもしれないけど。まあ、小さいうちは、周りで気を付けるしかないわ。でも、今、言ったように、用心はしているから、そこまで気を張らなくて大丈夫よ」 「はい。ありがとうございます」 「どういたしまして。それじゃ、気を付けてお帰りなさい」 見送られて、火の宮を出ると、未成年者保護施設に戻る。 年少者の世話をする者が、玄関広間に面した部屋に控えているので、声を掛けると、いつもの、若い男の担当者がニトを預かってくれた。 これから、3人とも、湯を浴びる。 コーダは、共同浴場でニトと一緒になるかもしれない。 ウラルは、宛てがわれた部屋で支度をして、共同浴場の女湯で湯を浴び、浸かると、よごれ物を機械に入れて洗濯と乾燥を済ませ、折り畳んで部屋に持ち帰った。 今、持っている服は、こちらに到着したあと、買い与えられたものだ。 オルレアノ王国の宿でもらったものは、こちらではあまり、そぐわないからと、オルレアノ王国の、服をくれた宿に返してもらうことになった。 ほかに、車輪の付いた旅行用鞄や、腕時計など、色々と与えてもらった。 自分のものと、思うことはできなかったけれど、それでも、助かるし、ありがたい気持ちは持っている。 けれど、ふと、自分は、何も持っていないのだなと、思うのだ。 ぜんぶ、なくなってしまった。 そんな思いに(ふた)をして、ウラルは、いつものように食事を済ませると、コーダとともに、ニトを相手に少し遊んで、21時頃、寝台に入る。 目を閉じて、考えを閉じる。 ウラルは、これからどうすればよいのか、分からなかった。 いずれ、自分で働いて、弟たちを養うのかなと、思ったりもしたけれど、それはしなくていいと、言われてしまった。 なんでも、与えてもらえることは、本当に、ありがたい。 そう思うけれど。 この先、どうすればいいのか、分からない、不安な気持ちだけが(ふく)らんで、もう、何を、どう、考えたらいいのか、分からないのだ…。 …いつまでも、分からないとか、言ってられない。 カナトの声が、耳に戻る。 でも、分からないんだ。 分からないのだもの…。
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