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―異国の地Ⅲ―
どのくらいの時間が経ったのか、なんだか、気の抜けてしまったウラルを、この庭の木製の長椅子に座らせて、エリカは、少女の不安を聞いた。
決められない、保護責任者。
決められない、先のこと。
決められない、自分たちの居場所。
エリカは、うちに来なさい、と言えない自分であることが、無念でならなかった。
この少女に、手を差し伸べられない理性なんて、いらないとすら思った。
けれど。
今、このとき、少女と、その弟と、彼らの幼い従弟を。
充分には、支えてやれない。
自分こそが、支えを、必要としていることを。
知っていた。
「ありがとう、エリカ。話を聞いてくれて」
少し、落ち着いたらしいウラルが、そう言って、恥ずかしそうに、笑ったようだった。
「私、動物に、触りたいな」
エリカは、笑顔を返して、それじゃあ、行こうか、と言った。
「ニト」
ウラルに呼ばれて、ニトは振り向いた。
「動物見に行こうか」
「どうぶつ?」
「うん。どんなのがいるかな」
「どんなの?」
「わかんない。見てみないと。行ってみよう?」
「うん」
ニトは、よく解らないようだったが、差し出された手を握って、頷いた。
一同は、来た道を戻るべきか、少し経路を探してから、見付けて、歩き出した。
鳥獣の館は、建物から、大木が生えているのかと思うような外観をしており、ウラルは、その景観の不思議さに感動して、うわあ、と声を上げた。
ニトには、それはまだちょっと、解らないらしい。
「おっきいねえ」
「おっきいねえ」
ウラルの真似をして、ニトは辺りを見回す。
入り口から、入場料を払って入ると、係の者が、ニトに付くと言って同行してくれた。
ここでは、低年齢の子には、指導員が付くのだそうだ。
指導員の案内で、硝子窓の向こうに入ると、そこには、多くニモがいた。
ニモと言うのは、ニトが抱き上げるには、ちょっと大きいぐらいの獣だ。
牙と、出したり引っ込めたりできる爪が鋭く、しなやかな体は、普段はゆっくりと動くのに、時々、びっくりするほど急激に素早い動きで、目の前から消えたりする。
ウラルは、ニトと一緒に指導員の話を聞きながら、おとなしいニモを抱き上げて、そのふわふわの、獣独特の匂いのする毛に、頬を寄せた。
ニモやボゥは、オルレアノ王国でも、同じ名称で呼ばれているぐらい、馴染みがある。
特にボゥは、村では大事な、仲間だった。
ならず者たちの襲撃のあと、逃げてしまったらしく、見掛けなかったけれど。
殺されているものも、いた。
ウラルの家では飼っていなかったが、そういえば、叔母の家には、いたはずだ。
どうしただろうか、と、ふと思う。
放し飼いなので、難を逃れているといいけれど。
しばらくそちらで、獣と触れ合うと、時間になったので、一同は指導員に礼を言って、鳥獣の館を出た。
「ウラル、入場料は、保護施設の人に言って、もらうといいわ。そうすれば、あなたたちの居場所が判るから、ちょうどいいわ」
エリカの言葉に、ウラルは、うん、と、頷く。
先にもらった、今、所持している金でも、充分払えたが、そのようにでも、自分たちの居場所を大人たちが把握していることは、重要なんだと、なんとなく理解した。
ニトを手押し車に乗せて、タクラ屋で注文していた品を受け取ると、一同は、学習場へ向かった。
伝達を受け取っていたコーダは、門のところにいたので、なかに入ることなく、一緒にイエヤ邸に戻った。
邸の使用人たちは、居間に喜んで集まり、先にウラルたちに選ばせると、自分たちも好きな具材を選んで、タクラを食べてくれた。
「どうぞ、今夜はお食事まで、ご一緒してくれるようにと、主から言い付かっております。ご了承いただければ、ご家族も呼ばせていただきます」
そのように言われ、エリカとミスエルは了承して、保護施設にも許可を取り、もう少し、邸で過ごすことになった。
17時を過ぎると、ブドーとジェッツィが戻り、ミナとデュッカが、6人の新たな客を連れて戻り、皆で2階に上がって、うつくしい曲を聞いた。
それから食事をして、明日、ウラルもコーダも休みと聞くと、泊まって行けとデュッカが言った。
「この週末は、環境を変えてみるといい」
「そうだ。今夜は女子で集まって寝ようか」
ミナが言って、デュッカが素早く彼女を見たが、気付く様子もなく、続けた。
「グィネス。今からじゃ無理かなあ?」
「いいえ、多人数用の客間ももちろん、用意してございます」
「よかった。今夜はちょっと夜更かししよっか。まあ、ほんとにちょっとね」
既婚の男たちは、複雑そうな表情でミナを見たが、さすがにわがままは言わなかった。
ミスエルは、朝が早いので、心を残しながら、シェイドとともに帰っていった。
夜の衣や、翌日の服は、イエヤ邸に用意されていたため、女4人、流行に左右されない安定の形ながら、この色が似合う、似合わないと、楽しんでウラルとエリカが着るものを選んだ。
寝台は、同性の集まりなどを想定しているということで、枕側に壁のない、よっつの寝台が遮るものなく、接しており、顔を寄せて話すことができた。
男たちも、どうせだからと同じ部屋で寝ることになり、レジーネはニトと2人、寝台をともにした。
「あっち、どんな会話するんだろー」
ミナが言うと、エリカが、もしかして、コーダたちは眠ってしまっているかもしれませんねと言った。
4人、腕の下に枕を敷いて、頭を近付けて話す。
「そしたら、ちょっと相談しづらいこととか、話していたりして」
「相談しづらいこと?」
「ずばり、女性相手のこと」
「ええーっ、ブドーにはまだ早いよ」
「そんなことありませんて。今、気になる女の子はいなくても、人並みに興味があれば、大人の話に付いてきます」
「そんなもの?」
「だって男の子ですもの」
そう言って、エリカは、ふふふと笑った。
「ふうーん。まあ、あっちはパリスもいるから、そうかもな」
ユクトとラフィとパリスも、特に自室に戻る理由がなかったので、泊まっている。
「あら、パリスは、女性関係が活発なのですか?」
「うーん、そうなのかな?こないだ、匂い袋仕込まれたって言ってたけど」
「まあ、隅に置けない」
「ねー。ちょっと、普段、身近にいるから、どきっとしちゃった。こんなこと、デュッカには言えない」
「ま。穏やかじゃありませんね」
エリカは、くすりと笑って、続けた。
「でも、そうかもしれませんね。特に意識していない方相手でも、そういうことは、ちょっと、ぴりぴりしちゃいます。以前、ロアが、特別親しくされていた女性がいて、まあ、素敵な方ではありましたけど、なんとなく、気に入らない気分でした」
「へえー、ロアに女性」
エリカは、ふふふと笑った。
「若い頃は、浮き名を流していましたよ。まあ、世間としてではなく、ちょっとばかり、土の宮のなかで、ひそひそとね」
「ふうーん。ジェッツィたちは、学習場で男の子たちと話すの?」
「ううん。あんまり、話すことってない。ずっと、ブドーと2人だったし」
「そう。ウラルは?」
「え。ちょっとだけ、カナトと」
「カナトって、どんな子?」
「よく分からないけど。ここまで、護衛してた」
「へえっ、強いんだ」
「分かんないけど。そうなのかな」
「ふうーん。ウラルは、シィアたちと話さないの?」
「ずっと、コーダたちと一緒だし、こっちに来てから、たまに学習場で見掛けるぐらい」
「そうなんだ。まあでも、これからは状況が変わるかもね、来週から、学習形態が変わるんでしょ?」
「うん」
「シィアたちのことは知らないけど、もしかして、一緒の教室になるかもね」
「一緒の教室でも、ナーミとは話さないな…」
「ナーミって?女の子?」
「うん。その子も、護衛で一緒に来た」
「へえっ、女の子で。それは、頑張り屋さんだね」
「え、分かるの?」
「だって、あなたぐらいの年齢で、ほかの人を守るんだもの。そんな、努力せずにできることじゃないよ」
「そっか…」
ウラルは、なんとなく避けている子だったけれど、ちょっと見直した気分になった。
具体的にではなく、なんとなく、彼女に対して持つ感情が、変わった気がした。
「旅から帰ってからになるから、ひと月後だけど、ブドーは、士官学校に移るのは、早くていいかもね。基礎知識は、特別に講義を組んでもらえばいいし」
「そうなんだ」
ジェッツィが、少し考えるようだったので、ミナは、不安?と聞いてみた。
「えっ、うーん。どうかな。少し、不安かも。でも、楽器触ってるときとか、ブドーがつまんなそうにしてるの見るよりは、いないほうがいいかな。見てないところで、私が付いていけないところで、楽しんでることがあるの、知ってるから」
「そっか。ジェッツィは、学習場で、もう少し過ごしていいだろうって。何をどんな風に学ぶか、じっくり考えて、決めようね」
「うん」
「ウラルは、自分はどうしたいか、決まった?」
「えっ?」
ウラルは、その聞かれ方に、自問し直してみた。
これから、どうすればいいか、ではなくて。
自分が、どう、したいか…。
「えっ、…と…、あの、分かんない…」
「そっか。どこに住むかは、自分がどうしたいか、決まってから考えてもいいかもね。保護施設で落ち着かないなら、ここに住む?」
「えっ?」
「デュッカに聞いてみないと分かんないけど、部屋はあるから、そういう問題はないよ。小間使いとか、世話してくれる人もいるし、ニトは、レジーネと比べれば、世話は楽だからね。保護責任は、負えないけど、住むところぐらいは、用意してあげられる」
「保護責任は、負えない…」
「うん。それは、別の人を探そうね。その人の住まいが、ウラルとコーダとニトの3人、余裕で暮らせるなら、移ればいいよ。レグノリアの、この中心地がいいとか、新たな家族に入っていく自信がなければ、ここに住んで、じっくり考えてみればいい」
「………」
「できればね、あなた自身にとっての、一緒に住める、家族が作れたらいいと思う。けど、それはすごく、たいへんな、力がいる。だから、住むところを決めるのと、保護責任者を決めることと、新たな家族を受け入れるかどうかというのは、それぞれ、分けて、考えてもいいんだよ。一度に、全部、決めなくていいから、ひとつずつ、気持ちの準備ができることから、決めていくといい」
息を切って、ミナは続けた。
「保護施設と、ここが違うのはね、保護施設は、一時的な保護だから、どうしても、できるだけ早めに、住む所を探すよう促される。それは、むしろ助かる部分が多いと思う。みんなね、いろんなこと、いっぱい考えちゃって、先に進めない子が多いと思うの。でも、こうしなさいって、急かされて決めてしまえば、気持ちより先に、環境が安定して、そこが、始点、始まりの場所になる」
「始まりの場所…」
「うん。そうだよ。始まりの場所から、あなたは動き出す。だから、そこから、どこにだって飛び出していいのよ。保護施設の次に行くのは、そういう場所。だから、そこに決めることで、この先のことが全部決まってしまうなんて、途方もないことを思い込まなくていいの。それでも、決めなさいって言われることが、重荷なら、少し、落ち着く期間を置くといい。ここに来て、そうできるなら、おいで」
「………は。あ…」
ウラルは、小さな、声になりきらない息を漏らした。
ミナは、手を伸ばして、ウラルの頭を撫でた。
「とにかく、この週末は、ここにおいで。ちょっと、何も考えずに、ぼんやり過ごしてみるといい。それから、みんなで、考えてみようね。今、どうしたいって、思うことが何か、ある?」
ウラルは、ぎゅっと、手の下にある敷き布を掴んだ。
「ニトと、離れたくない。もう、何も、なくしたくない…!」
「わかった。そうしよう。そうなるように、みんなで、あなたの、あなたたちの力になるから。今は、ゆっくり、おやすみ」
ウラルは、うつ伏せの姿勢のまま、枕に顔を沈めた。
ミナは、起き上がって、ジェッツィに、もう寝ようね、と言うと、次々にサイセキの光を消した。
最後に残った、枕もとの手提げランプの光のなか、ミナは、ウラルに、仰向けで寝るように言うと、広い寝台の上で、寝転がった。
2人の少女の様子が、見やすいように。
「おやすみ。ゆっくり、寝るといい。深く、呼吸をして。夜のなかに、身を任せて。大丈夫。ここにいて、見ているから」
すうっと、ランプの光が弱まって、薄暗くなった。
人がいることは、判るけれど、闇が、部屋を覆った。
「おやすみ。また、あした」
ふっと、光が消えて、真っ暗になった。
目を閉じていることと、変わらない。
そんな明確な意識はなかったけれど、ウラルは、目を閉じていいと、思った。
同じことだから。
沈黙のなか、まだ、眠っていないジェッツィの身動ぎが分かったけれど、それもやがて、静かになって。
無音のなか、人の気配を感じながら、ウラルは、自分の呼吸を聞いていた。
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