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―異国の地Ⅴ―
織物専門の織糸店を出ると、辺りはすっかり夕暮れの色で、エリカは焦った。
「たいへん、もう17時…、やっぱり!過ぎているわ…」
「えっ」
さすがに、ニトをほったらかし過ぎたと、ウラルは、胸が、きゅっとした。
「ごめんなさいね、つい、私まで夢中に…」
「ううん…」
この店に到着したのは16時過ぎだったので、もともと、長居するつもりではなかったのだが、店の者と話しているうち、引き込まれてしまった。
「とにかく、帰りましょう。あ」
目の端に緑色が見えて、そちらに顔を向けると、彩石鳥だった。
「エリカ様、ウラル様、グィネスです。問題ございませんでしょうか」
彩石鳥から、聞き慣れつつある声がした。
「あっ、ごめんなさいね、こんな遅くまでウラルを連れ回してしまって」
「いいえ、こちらは問題ありません。ニト様はレジーネ様との遊びに夢中ですし、コーダ様もお戻りになりまして、お相手なさっています。ただ、そろそろ暗くなってしまいますから、ちょうど仕事が終わる頃でもありますし、どなたかと合流できるよう、手配しましょうか」
「あっ、そうね。心配するといけないから、レテリム港でレイと会えるようにしてくれる?」
「はい、お任せくださいませ。案内鳥を飛ばします。お夕食は当邸でご用意させていただいて、よろしいでしょうか」
「ええ、助かるわ、ありがとう」
「では、お気を付けてお戻りくださいませ」
その言葉が終わると、彩石鳥は、促すように、2人の前を飛んで進んだ。
「よかったわ、ニトとコーダの様子が聞けて。じゃあ、行きましょう」
「うん」
ウラルも、少し安心して、帰りの道を急いだ。
桟橋に着くと、ちょうど出る船に乗れたので、2人は暴露甲板に並んで、レテリム港到着を待った。
港に着いて、船を降りると、すぐ、迎えに来ていたレイと会えた。
レイは、手に肩掛けを持っており、近付くとすぐ、エリカの肩に布を掛けた。
「ありがとう。取りに帰ってくれたの?」
「いや、ちょうどファルセットが家にいたから、持ってきてもらった。今日も夕食に呼ばれたから、グィネスと話して、夕食後の菓子を買いに行ってもらった」
「ああ、いいわね。どこの?」
「先日見掛けた、夜遅くまで開いていた店だ。人数が多いから、あの大きな円形の、2段の菓子がいいんじゃないかとな」
「ああ、あれ!生地?が上下で違うから、どちらか選べて良さそうね」
「そうだな。ウラル、今日は楽しめた?」
「あっ、うん!」
「それはよかった」
にっこりと微笑むレイの顔がやさしく、ウラルは、ほっと心が和らぐのを感じた。
距離は短いが、巡回馬車に乗ろうと話し、歩いていると、ファルセットと合流できた。
大きめの袋を持っていて、重くはないかとのレイの問いに、あははと笑った。
「いや、正直重いよ。菓子がこんなに重いなんて、冗談みたいだ」
「まっ、そんなことを言ってはだめよ。体重が気になってしまうじゃないの」
「そうだなあ、エリカはちょっと、食べない方がいいかもよ?運動して、食べた分を消化できないんだから」
「まあっ、ひどいこと言うのね!その菓子、食べたいって言ってたの、知ってるくせに!」
「あはは」
笑って、ファルセットは、ウラルに内緒話をするような仕草をした。
「今度エリカが甘いもの食べてるの見たら、太るぞって言ってやって」
「んまあっ、まるで人を節制できないみたいに!」
「あはは」
エリカはとうとう、ファルセットの背を、ばしり、と音を立てて叩いた。
ウラルはちょっと驚いたが、ファルセットは変わらず笑っている。
なんだか、エリカが既婚者とは思えなくて、ウラルは、どことなく、ほっとするのを感じた。
彼女のことを、自分を見守る大人ではなく、もっと近い、お姉さん、のような、感覚を持った。
ミスエルのように。
見守ってくれる、オルカや、保護施設の者たちを、疎んじているわけではなかったが、やはり、大人、というものは、見守られている安心感のある一方で、どこかしら緊張感を与える。
ウラルには、明確な自覚はなかったけれど、それは、大人と子供の、違いというものなのだろう。
子供同士には、指摘はあるが、戒める厳しさはない。
実際に叱られることがなくても、大人は、そういうものなのだ。
少なくとも、ウラルは、そのように、言葉にはできなくても、知っていた。
ミスエルには、自分にある、姉の責任感のようなものは感じたけれど、大人の厳しさは感じない。
エリカのことを、頼っていたけれど、大人だなあ、と、感じていたのだ。
その分、あった、心の距離が、縮まる気がした。
すぐに到着した港の馬停では、帰宅時間なので、巡回馬車に乗る人たちが多く、次々と客車に乗っては、出ていく。
一番手前の、発車間近の巡回馬車の通り道に、イエヤ邸のあるヌーブル地区が入っていたので、急いで乗り込んだ。
人の多いなか、なんとかエリカだけ座らせて、ウラルたちは立ったまま運ばれ、すぐに目的の馬停に着き、巡回馬車を降りた。
「大丈夫、形、崩れてない?」
エリカが、ちょっと心配そうに、ファルセットに聞く。
「たぶんね。崩れてたら、切り分けてもらって、出してもらおう」
「そうね。ちょっとだけ、みんなの反応、見てみたいけど」
「そうだな。まあ、見られる形であることを期待するよ」
そんな話をして、イエヤ邸に到着し、迎えに出たグィネスに菓子を渡した。
「お客様方は、皆様、2階の小箱の部屋で、歌声を聞かれている様子です。そっとお入りになれば、お邪魔にはならないでしょう」
「そうね。じゃあ、2階に行くわ」
そう言い交わして、2階の、扉の前に小間使いがいる部屋に、そっと入った。
なかの者は皆、レジーネですら、流れる歌声に耳を傾けているようだった。
曲の合間に、エリカを椅子に座らせてもらい、ウラルは、ニトに近寄った。
ニトは、ウラルの服を、ぎゅっと掴んで、身を屈めたウラルに、きれいなこえ!と耳打ちした。
周りの者たちが、感心して上げる言葉を、覚えたのだろう。
ウラルは、頷いて、そうね、と返し、続く歌を聞いた。
溌剌とした歌声が響き、ウラルは、耳を傾けた。
生きている、その喜びに満ちた歌で、その声の持ち主が故人だということが、信じられない気持ちになる。
少し、しっとりとした流れの曲もあったが、全体的に明るい印象の曲が続き、やがて終わると、別の彩石が発動された。
今度は、悲しい印象の曲が多い。
でも、それは、気持ちが沈むようなものではなくて、きれいな歌声が、悲しむ心を撫でてくれるようだった。
曲が終わると、ほっと、聴衆の息が漏れた。
ふと、ジェッツィを見ると、頬を拭ったが、すぐ立ち上がって、ユクトたちに、ありがとう、と笑顔で礼を言っていた。
遺されたものの形は、様々で、自分には、ニトがいる。
ウラルは、ニトの頭を撫でた。
ニトは、物ではないし、母の遺したものでもないけれど、弟と2人、また、失った、ぐちゃぐちゃの悲しみのなかで、取り戻した、母の妹の、遺児は。
あのとき、どんなにか、ウラルの心を救ったか、知れない。
「こんにちは、ああ、いえ、こんばんは。私、マトレイよ。あなたがウラルね」
初めて見る女が、話し掛けてきたけれど、誰だか、分かった。
「はい」
「私、デュッカの母よ。明日は、ニトを預からせてもらうわね。ちょっと散歩に出たりしてもいい?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「よろしく、オズネルだ」
レジーネを抱く男が、そう言って手を差し出した。
握手を交わすと、明日は、昼に戻る予定だ、と言った。
「もう1人、マディクと言う、レジーネと同じ年の子がいる。明日は、その子も一緒に、遊ばせる」
「あ、はい」
「仲良くなれるといいわねえ。レジーネ、マディクといてもだんまりだったけれど、ニトが遊んでくれたら、声を上げるようになったわ。きっと、いい影響をもらえたわね。ありがとう」
「いえ、こちらこそ…。いじめたりしないといいんですけど」
「あら、多少は、そういうことも、経験の内よ」
ほほほ、と、マトレイは笑った。
「そうだな。幼児の意地悪は、してくれないと、こっちも、限度を教えてやることが難しい。何がいけないのか、ということも」
「教え方は色々ですからね、必ずしも意地悪を受けたり、したりの経験がなければいけないとは言わないけれど、否定したり避ける理由にはならないわね。怪我だけは、しないように、させないように気を付けるから、安心して」
「はい」
そのとき、小間使いが扉を開けて、お食事の支度ができました、と言った。
一同は階下におりて、楽しく食事の時間を共有した。
レジーネとニトのことは、同じ部屋で、小間使いたちが世話をしてくれたので、落ち着いて食事でき、ウラルは、今日の感動をミナたちに話した。
食事を終えると、居間に移動して、レジーネとニトが力尽きるまで遊んでやり、湯を浴びた。
今日も、男女に別れて寝ることになり、ウラルたちの方には、マトレイが加わった。
今夜は、少し夜更かししようと、紙札が持ち込まれ、ウラルとジェッツィは、教わりながら楽しく遊んだ。
23時に、もう寝ようかと、寝転がって、明かりを少なくする。
そのなかで、マトレイは、ウラルとジェッツィに、今、邸にいる男たちのなかなら、誰がいい、と聞いた。
「恋人にするなら。結婚するなら」
「えっ、どうかなあ、考えられなあい」
ジェッツィが言い、マトレイは、じゃあ、ねえ、1人ずつ聞こうかな、と、笑って言った。
「パリスって、どんな感じのひと?」
ジェッツィは、ふわふわの掛け布を握り締めて答えた。
「えっ、うーん、なんだか、目が合うと、必ず笑い掛けるの。なんか、びっくりしちゃう。特に意味があって、見たわけじゃないのに、気付かれて、その上に、笑うんだもん。なんだか、気まずいのに、そういうの、包み込まれる感じで、なんか、恥ずかしい…」
ミナが、うわー、パリスって罪作り!と言って、くすくす笑った。
エリカも、許せませんね、と言って笑う。
「女性の敵ね!それじゃ、んーと、ユクトはどう?」
「えっ…、」
ジェッツィの沈黙を、みんなで聞く。
ミナが、仰向けからうつ伏せに引っくり返って、ジェッツィに手を伸ばした。
「ええーっ、何々、脈ありなの!?」
「みゃくってなにーっ、たぶん違うよおっ」
ジェッツィは掛け布を頭から被って、幼児のように、いやいやをした。
「あらあらあら。ふふふ。じゃあ、ウラル、ラフィのこと、どう思う?」
「えっ、どうかな、親切だと、思うけど…」
それを聞いて、ミナが言った。
「ふうーん。カナトは?」
「えっ、えーっと、案外、やさしいよ」
「ふうーむ。ファルセットは?」
「えっと…、どうかな。あんまり喋ってないし」
ウラルは、不意に、ファルセットの笑顔を思い出して、掛け布を口許まで引き上げた。
「ふうーん、ふん、ふん…、ふふ、かわい」
ミナが呟いて、また仰向けに寝ると、ふふ、と笑った。
「えっ、何?何かあった?」
エリカがミナを見たが、秘密、と言って笑う。
マトレイが、ふと、ミナを見た。
「あら、そうだわ。せっかくだし、聞いてみましょう。ミナ、デュッカのどこがよかったの?」
「えっ、そっ、れはあ…」
急にこっち来たっ、と、ミナが固まる。
隣に寝るエリカが、すり寄った。
「そうだわ。いえ、私、それより、ミナがデュッカに何をしたのか、気になるわあ。あの執着は、びっくり」
「ええっ、いや、な、何も…」
「あら、本当。さっきの顔、見た?」
「見ました!もう、吹き出すかと思っちゃいましたよ!デュッカがあんな情けない顔するなんて!」
「えーっ、どんな顔?」
ジェッツィが、もぞもぞと顔を出した。
「いえ、もう、見せたかった!よっぽど、ミナと夜を過ごしたかったのね…」
「ちょっ、ちょっと、エリカさん、子供の前でそんなっ」
「あらあら、そんな意味じゃないのだけど、あらあらあら…」
「やっ、もっ、もう寝ましょう!もう遅いですから!」
「え、何、どうかした?」
「ジェッツィ、そのうちね」
マトレイがそう答え、ジェッツィは不満そうに、ふうーん、と呟いた。
マトレイが、ふふふと笑い、消しますよ、と声を掛けて、明かりが消えた。
ざわめく夜に、静けさが落ちた。
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