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―Ⅶ―
翌朝、ミナは、コーリナ城の、高い位置にある露台に案内してもらった。
そこから、城の西側にある街を見下ろす。
水路以外では、建物が隣接していて、緑などは見られない。
このなかに、1人1人の、人が。
それぞれの、思いを抱えて、生きている。
「ミナ」
不寝番のなかで、早朝担当のアニースが、呼び掛けた。
振り向くと、ミナを見て、そして城下に目をやった。
「私たちには、あなたの重荷を、軽くしてやることはできないけど。みんな、いるから」
アニースは、ミナに目を戻して、言った。
「忘れないで」
ミナは、こくりと頷いて、うん、と答えた。
支えてくれるみんながいる。
それは、役目などではなくて。
人として、関わり合ってきた。
自分が、歩んできた、その道で得た、仲間たち。
「頑張る」
強く、呟いて、天を見上げた。
この、ザクォーネ王国を覆う絶縁結界が作り出す、円蓋を伝う水の流れの向こうに、見える空は、とても青かった。
デュッカと、皆の存在に、勇気をもらい、元気を出して、ミナは息を吸い、力強く、朝ご飯にしよっか、とアニースに言った。
露台から屋内に入り、案内されて、旅の仲間たちとともに朝食の席に着くと、ミナは充分に食べ、茶を飲んでひと息ついてから、立ち上がった。
「デュッカ」
「ああ」
同時に立ち上がっていたデュッカに呼び掛けて、ミナは一旦、部屋に戻ると、身支度を済ませ、城の者に、サラナザリエに挨拶がしたいと言った。
すぐに案内の者が来て、サラナザリエの許に案内されると、ミナは、朝の挨拶をして、これから始めます、と言った。
「うむ、頼む。どこでだ?」
「どこでもいいんですけど。まあ、ちょっと、城下が見える所だと、いいかな」
「ん、そうか。では、こちらに来い」
サラナザリエのあとを追うと、弓状に突き出た部屋に案内された。
南側の城下はよく見えたが、透明の硝子張りの窓の外には、露台もなく、室内だけの空間だった。
「あ、すみません。外の空気が大きく出入りできないといけませんでした」
「ああ、風を吹かすのだな。では、こちらに来い」
サラナザリエは、また移動して、今度は、西側の城下が見える部屋から、露台に出た。
「屋上まで行けば、城下がぐるりと見渡せるぞ。そちらがいいか?しかし、少し上らねばならん」
「えっと、デュッカに運んでもらってはいけないですかね。外から、回るんです」
「おお、その方が早いな!私も連れて行ってくれ」
そういうことで、そこからデュッカに運んでもらい、3人で城の外から屋上へ向かった。
護衛の者などが慌てて、屋内から屋上に向かうらしい様子を見て、ミナは、1人ぐらい、一緒に連れてくれば良かったですねと言った。
サラナザリエは、笑いながら、愉快そうに言った。
「構わぬ!ほんの、このひととき。やれ、いい気分だ!」
サラナザリエは、腰の辺りを、周囲とは違う空気で囲われており、それに持ち上げられている状態だ。
自由に身動きはできないが、首を回して、辺りを見回すと、いつも見る景色なのに、違って見える。
屋上には、すぐに着いてしまい、サラナザリエは、がっかりしたが、目的はこれからだ。
気持ちを改めて、ミナを見ると、彼女は遠くを見てそれから、サラナザリエを見た。
「それでは、始めますね」
「うむ」
答えると、では、と言って、デュッカと向き合った。
ミナは、両手を差し出して、デュッカが、その下に差し出して応えてくれる両手の上に乗せた。
軽く、手を握って、デュッカと目を合わせた。
「デュッカ。もしかして、多くのものが、あなたにも流れ込むかも。遮断できますか」
「できるが、しない。お前と、同じでなくとも、近いものを共有したい」
ミナは頷いて、息を吸った。
目を閉じて、自分の感覚の、細部に至るまで、意識を研ぎ澄ませる。
異能を、その、力を感じて、このザクォーネ王国の地にある人のすべてを、掌握する。
「デュッカ。長い時間、風を吹かせてもらいます。強くなくていいですが、もしかして、陽が落ちるまで、するかもしれません。そういう、配分でお願いします」
「分かった」
「ではまず、この王国の、人のなかに風を通します。始めてください」
「ああ」
デュッカが、風を発し、ミナは、その力を掴んで、操る。
サラナザリエは、風が、体に当たるのではなく、突き抜けるのを感じた。
それはとても、温かなものを残して去り、サラナザリエは、ここ何十年も、流したことのない涙が、頬を伝うのを感じた。
「……えっ…、」
思わず、声を上げて、慌てて口に手を当てて塞ぎ、手のひらで涙を拭った。
確かに濡れて、幻覚などではないと知る。
背後で、はっと息を呑む音、ああ…、という溜め息などが聞こえて、振り返ると、屋上に到着した、侍女や護衛などの付き人たちが、大きく動揺しているのが判った。
サラナザリエは振り返ってミナを見て、その、意識を集中している様子を確かめた。
まだ、続いている。
サラナザリエは、付き人たちに歩み寄り、小声で、何を感じた、と聞いた。
「わ、判りません…、でも何か、涙が」
侍女のレイラ・マッカイヤーが、葉布で目元を拭きつつ答える。
「大丈夫か」
「え、ええ、何も、悪いことはなくて。ただ、胸が、張り裂けそう」
「レイラ?」
張り裂けそう、とは、穏やかではない。
「いえ、私のことは、いいのです。ただ、ミナ様のご厚情が、胸に、痛いほどで。ああ」
レイラは、とうとう、屋上に膝をつき、片手をつき、手のひらの下にある石を指で掻いた。
「ああ…、世に、こんなにも深い情けがあろうとは…」
レイラは、もう、答えられそうになく、サラナザリエは顔を上げて、護衛たちと、近侍の文官を見た。
男たちのなかにも、涙を流す者がいて、けれどさすがに、護衛たちは、自分たちの務めを忘れず、歯を食い縛って、立っていた。
サラナザリエは、文官…彼女の身の回りの世話ではなく、公務に関わる雑事を手配などする、ガリエ・リザーフと言う者に目を向けた。
ガリエは、服の胸元を強く握り締め、唇を強く、引き結んで、じっとミナとデュッカを見ていた。
「ガリエ。お前は、何を感じた」
問われて、ガリエは、はっと息を吸うと、腰を曲げた。
「は、その…」
言葉を選びかねているのを見て、サラナザリエは、要点を聞いてみた。
「リクト国をどう思う」
「は?リクト国…」
問われてから、ガリエは、リクト王国のことを考えたらしい。
サラナザリエは、ミナが、リクト王国のことに関して、人々に働き掛けたわけではないのかと気付き、自分を突き抜けた風のことを思い出した。
確かに、リクト王国のことなど、欠片も思い描くことはない。
けれど、どうだろう。
今、思い返して。
サラナザリエは、リクト王国にも、同じく国土と国民を脅かした、もうひとつの隣国カラザール王国にも、胸に押し込むには難しい、激しく、暗い憤りがあったのだけれど。
ふと、自分の胸の内を覗いて。
それらが、消え去っていることに、口を開けた。
吸った息が、腹の奥まで、冷たさを保つように。
突き抜ける、冷感に、膝を落とすかと思った。
確かに、記憶はある。
憤っていた、あの、激しさも、暗闇も、思い出せないわけではないけれど。
実感がない。
いや。
風に、吹き飛ばされた、跡がある…。
「は、リクト国、のことは…」
ガリエの声に、サラナザリエは、我に返った。
顔を上げると、ガリエは、困惑の表情だった。
「その…、直接は、命を奪われた親類などを知っているわけではないのですが、度々の侵攻の行為に、憤りを持っていたはずなのですが…、なんでしょう…、吹き飛ばされたように、思います。何か、清しい、気持ちが残っていて…、なんと言うのか…、悪い感情を、持てません。いえ、持続できないと、言うのでしょうか。とにかく、…ああ、そう。どうでもいいと言うか。そんなことより、もっとほかに、考えるべきことが、いえ、生きていくことの方が、ずっと重要で、大切な…、前向きな気持ちが、勝っていて…」
護衛の者たちが数人、納得するように頷くのを見て、サラナザリエは、そちらに聞いた。
「お前たち、リクト国のことをどう思う」
現在の護衛のまとめ役が、いつもの癖で、先に声を上げた。
「は、その、失われた者たちのことを、思う気持ちは確かにあるのですが、それと、リクト国に対する遺恨が、切り離されて、どこか、すっきりしました。彼らのしたことを、忘れるわけではないのですが。もっとずっと…、前に向かって、歩き出さなければならない気持ちが、強く、支えられて」
彼は、言葉を切って、ミナとデュッカを見た。
「あの方々は、私に、何をしてくれたのでしょうか…」
サラナザリエは、もうひとつの懸念を、ふっと思い出して、聞いた。
「ミナたちのことを、どう思う」
「は…。なんと言ったらいいのか…、なんでしょう、励まされた気持ちというのが、強いですね。彼らは、他国の者で、我らの気持ちを、本当には、理解しないと思いますが。それでも、掛けられた心が。とても、かけがえなく、思います」
サラナザリエは、それは、少なくとも悪い感情ではないのだろうかと、考えた。
ガリエに目を移して、同じことを聞く。
ガリエは、はい、と答えて、やはりミナとデュッカを見た。
「とても、強い人たちですね。同時に、とても大きくて。まるで世界に、包まれたような感覚です。異能の強大さではなくて、人物の大きさを知った心地です」
それも、人に対して持つ感情とは、程遠かったけれど、少なくとも、悪感情ではなさそうだ。
サラナザリエは、レイラに目を戻して、声を掛けた。
「レイラ。平気か」
レイラは、胸に手を当てながらも、しっかりとした顔付きで頷いた。
「取り乱して申し訳ありません。もう大丈夫です」
「ミナたちのことを、どう思う」
「はい…」
レイラは、柔らかな表情で、2人を見た。
「ええ。とても、温かな、方だと思います。そして、とても、心強い、気持ちをくださいました」
サラナザリエは頷いて、ミナとデュッカを振り返った。
彼らの受けたものは、それぞれに違いがあるようなので、国民すべてが、彼らのしたことを、許容できるものかは、判らない。
けれど、今、ここでは、うまくいっているように思う。
ミナとデュッカはまだ、風を吹かせ続けている。
それは、最初のものとは違って、サラナザリエの頬を撫で、髪を浮かせる。
やさしい風が、この水の王国を吹き抜けて。
空へ、帰っていった。
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