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―母の声―
ブドーとジェッツィは、昼食をそれぞれ、オルレアノ王国の留学者たちと摂ると、昼からの授業をふたつ終えて、早々に学習場を出た。
学習場とは、アルシュファイド王国の初期学習機関で、この国で暮らしていく上で、常識となる、言葉、数字、計算の仕方、地理、自然現象の基礎、各公共機関の利用の仕方、身の回りでよく使われる道具の利用の仕方、そして、様々な規則を主として教えている。
特にブドーとジェッツィが通う学習場は、他国の者が多く入る港を有する、レグノリア区の中心部にあることから、その働きは大きくふたつに分かれていて、一方は低年齢の子供向け、一方は国外から訪れた長期滞在者、また、移住しようとする者たち向けとして開かれている。
ブドーとジェッツィも、つい最近、サーシャ王国から、アルシュファイド王国にやってきて、この国の者として暮らしていこうとしていた。
今のところ、引き取ってくれたミナとデュッカを、両親と思うことはできないけれど、レジーネとともに、自分たちの家族として、受け入れたと思う。
血が繋がっていない、遠慮などもあるけれど、彼らが、2人の新たな居場所であり、帰るところだった。
さて、学習場から少し西に行くと、大きな通りに出ることができる。
チュウリ川の真上を覆うことから、チュウリ通りと名付けられているこの格子道路を、北に向かい、表神殿の敷地を通り抜けて、2人は北門前広場に出た。
ここから、道が4方向に延びている。
ブドーとジェッツィは、このうち、北西に向かう道を選んで、文具店を探した。
今日は、大事な買い物があるのだ。
文具店は、前に一度入ったところを、何となく覚えていたので、ひとまずそこを目指す。
「あった。ここだわ」
「ん。他にもあるのかな」
「わかんないけど、とりあえず入ってみよ」
「うん」
そう話して、店内に入ってみる。
静かな店内は、入口の扉は小さいが、売り場は広い。
さらに奥に進むと、一段低い床が、奥まで広がっていて、そこに下りる階段の両脇に、上階にあがる階段がある。
「どこだろう」
一番手前の空間には、様々なものが置かれていたが、どうやら、仕事や学習で使うものが大半のようだった。
申し訳程度に、手紙類もあったが、数は少ない。
2人は、階段手前で左右を見て、ジェッツィが、腰の辺りの高さの、四角い柱を見付けた。
近付くと、斜めになった上端の表面に、この建物全体の案内図を描いているものだった。
「えっと、今、ここ。そこの下は包装紙みたい」
「包装紙ってなんだろ」
「さあ。包む紙なんじゃない。装は…判んないけど。なんだっけ。装うって字じゃないっけ」
「えっと、冊子って書いてねえ?」
「えっと…」
2人が迷っている様子を見て、店の女が、少しだけ間を置いてから、声を掛けた。
「何をお探しでしょうか」
ジェッツィが、びくりと体を震わせ、自分に向けた怯えの表情に、女は驚いた。
だが、すぐ、ごめんなさい、驚かせたわね、と柔らかい声を努めて発した。
「あ、いえ…」
「何か探している?」
「薄い冊子が欲しいんだ。外側が固くて、中に色々書けるやつ」
ブドーが答え、女は心得て頷いた。
「それなら、3階にあります。この階が1階で、階段を上ると上1階(じょういっかい)、またこちら側に階段を上って2階、あちらに階段を上って上2階(じょうにかい)、さらにこちらに階段を上ったら、そこが3階。案内しましょうか」
「ううん、分かった。あとは3階に行けば分かる?」
「判りにくいかもしれませんから、3階担当の店の者が、勘定台のところにいるはずなので、聞いてみるといいでしょう」
「分かった、ありがと!」
「あっ、ありがとう…」
礼を言う2人に、にっこり笑って見せて、女は見送ってくれた。
上階に向かう右手の階段を2人で上がると、左手の後ろ向きに、広い上り階段がある。
店の入り口側に上がるその階段を、ブドーのあとを追うジェッツィが上がっていくと、最上段の床が目に入って、そこに大きく、2階、と記されていることに気付いた。
「次が上2階」
呟いて、ジェッツィは、上り切った階段の両脇にある上り階段の、向かって右手側を上った。
先に上り切っていたブドーは、ジェッツィとは反対の、向かって左手の階段を駆け上がって、遅れて上り切ったジェッツィに、次が3階だな、と言ってから、店の入り口側に向いて上る広い階段を駆け上がった。
ジェッツィが、3階と記された床に到着する頃には、ブドーは店の者に案内されていた。
ジェッツィはそのあとを追い、店の者が、この辺りのものがお探しのものかと思います、と言っているのを聞いた。
「えっと…、あっ、うん、こんな感じ」
「何も書いていない白紙と、罫の入ったものとがあります。あとは、紙の質が少し違ってきます。表面がつるりとしたものや、ざらついたもの。写しに巻黄石(かんこうせき)を用いる場合は、白紙の方がよいと思います」
巻黄石は、文字を写すことのできるサイセキだ。
何か聞き覚えあるな、と、ブドーが記憶を探っていると、ジェッツィが、じゃあ、白紙でないと、と言った。
「確か、かんこうせきで写すって言ってた」
「この辺りが、一般的な大きさと言えます。上の方の段は、それより大きいもの、下の方の段は、それより小さいものです」
「これよりもうちょっと大きかった。ええと、たぶん、このくらい」
「巻黄石を使われるのでしたら、大きさは元の紙と同じ方が、字が小さくなったり大きくなったりしません」
「そうなんだ。じゃあ、同じ大きさでないと」
ブドーが呟いて、この辺りじゃねえ?とジェッツィに確認する。
「うん、たぶんそう」
「あとは、紙の肌触りですとか、表紙の見た目ですか。値段は、紙質など、材料で若干変わります」
「同じ表紙にする?」
ジェッツィに聞かれて、ブドーは難しいことを考えるように、眉根を寄せて首を捻った。
「んー、中身は同じだけど、やっぱ、外は変えて、自分のって、した方がいいんじゃねえ?なんとなくだけど」
「うん…、そうだね。私、花とかの模様がいいし、それだと、ブドー、なんかいやでしょ」
「いやってほどじゃねえけど、まあ、もっと、違うのがいいな」
「じゃ、ここの棚から、それぞれ選ぼう」
「うん」
「では、ごゆっくり」
声を掛けて、店の者は離れていった。
2人になると、ブドーとジェッツィは、表紙違いの冊子をひとつひとつ取り出して見て、それぞれ、好みのものを選び出した。
ブドーは、木の葉の緑色、ジェッツィは、淡くほんのり赤みの差す、白色の表紙だ。
2人とも、表紙の見た目と手触りに重きを置いたので、中の紙質には、あまり意識を向けなかった。
触ってみて、少しざらりとするのが気になったが、やはり気に入った表紙がいいと思いを固めて、決めた。
料金は、どちらも3,000ディナリちょっとだ。
別々の袋に入れてもらって、それぞれ持つと、なんかお腹減ったね、とジェッツィが呟いた。
「ん、なんか、腹減ったなあ、フッカ食べてくればよかった。今日はなんだったんだろうな」
学習場の食堂では、15時少し前に終了する最後の授業のあと、補食と呼ばれる食べ物が用意されているのだ。
これは、暁の日はフッカと言う、穀物のひとつである、サズを主原料とした食べ物だ。
少し甘めに作ってはあるが、菓子ほどではなく、これに、クラムと言う、果物などを砂糖で煮詰めたものや、白酪(はくらく)と言う乳製品や、白酪に少し手を加えて甘みを加えたものなどと、あとは蜂蜜も何種類か用意され、好みのものを選んで、少量ずつ付けて食べる。
ほかの朔、繊、朏、半の日は、サズではない食材を主原料として、見た目の似たものを作っているので、フッカもどきと表示されている。
「急いで家に戻って、サシャスティがまだいるか、確かめよ。それで、グィネスに頼んで、夕食前に何か、食べさせてもらえないか聞いてみるの」
サシャスティ・リリルトは、昔、2人の亡くなった母に師事していた女声楽師だ。
少し前に知り合い、今、色々と世話になっている。
「そうだな。帰る前に食べたいけど、サシャスティがいれば、今日中に写せるし」
「うん!」
そう話して、2人は急ぎ足で1階に下りると、店を出た。
「表神殿、斜めに出る方が近いよな」
「でも、あの東の門は、デュッカかミナがいないと通れないかも」
「あ、そう言えば、四の宮の者しか使えないんだっけ」
「うん。コンツェル通りまで行って、南に向かった方が近いんじゃないかな。でも、道、分かんないね…」
「そうだな。逆から入ると分かんねえ。なんとか、東門、通してくれないかなあ…」
「どっちにしろ、表神殿に入るわけだし、ちょっと行ってみようか。試しにさ」
「うん…、だめだとちょっと時間食うけど、仕方ない」
歩きながら話していると、すぐに北門前広場に戻った。
2人は、表神殿内で北東に位置する風の宮に向かう道を選び、さらに進んで、閉じられた東門に至った。
「こんにちは」
ちょっと笑顔を見せて、門前の衛士が挨拶してくれた。
ブドーは、挨拶を返してから、あの、と声を掛けてみた。
「あの、ここ、通っちゃいけませんか。俺たち、今、ちょっと急いでて」
「ああ、いいよ。風の宮公のご家族ですね。どうぞ」
「え、いいの」
驚いてブドーが聞くと、衛士は微笑んで頷いた。
「ええ、先日、通達がありました。四の宮公のご家族が増えたと。東門も西門も、ご都合に合わせてお使いください」
「ありがとう!」
ブドーが喜んで弾んだ声を上げ、ジェッツィが聞いた。
「西にも門があるの?こういう…」
「はい。そちらも通用門でして、防犯上、ご利用できる方は限られますが、お2人であれば問題なくご利用できます」
「ジェッツィ、早く行こうぜ!」
ブドーに急かされ、ジェッツィは慌てて衛士に礼を言うと、開いてもらった東門をくぐった。
門を抜けた反対側にも衛士がいたが、目が合うと、こんにちはと挨拶されただけで、見送られる。
ブドーとジェッツィは、ここからイエヤ邸までの道なら、何度かミナとデュッカと通ったのだ。
そうでなくても、簡単な道のりなので、問題なく覚えている。
急いで戻った甲斐があって、出迎えた家僕に聞くと、サシャスティはまだ、いるとのことだった。
ほっとすると、また空腹が襲い、ブドーは急いで、夕食前に何か食べられないかと、家僕に聞いた。
「ええ、ご用意できます。小さな菓子をサシャスティ様とリィナ様からいただきましたので、そちらをお出ししましょうか」
「うん、頼むよ!」
「では、お2階の部屋にお持ちします」
「ありがと!」
ブドーはすでに階段を上りながら、振り向いて言い、ジェッツィも礼を言うと、階段を駆け上がった。
目的の部屋の扉の前には、小間使いが1人控えていて、扉を開けてくれた。
礼を言いながら入ると、振り向いたサシャスティが、にっこりと笑う。
「おかえりなさい。早かったわね」
「うん!急いで帰って来た!もう、行かなくちゃいけない?」
心配そうにブドーが聞き、サシャスティは笑って、まあ、もう少しはいられるわ、と言った。
「心配しなくても、冊子は置いて帰るのに」
「えっ、そうなのか!でも、会えてよかった」
「私も」
「サシャスティ、リィナ、小箱の整理、ありがとう」
ジェッツィが言って、ブドーは、はっとし、ありがとう、と言った。
サシャスティと、母の親友のリィナ・ローダーゴードが、にっこり笑って、どういたしましてと返す。
2人は、亡くなったブドーとジェッツィの母、イライア・セエレンの歌声を収めた彩石を、個々に保管している小箱を、この部屋で保管と管理ができるよう、整理してくれているのだ。
ブドーとジェッツィの母は、かつて声楽師として、旧姓のイライア・クルビーの名で活動しており、そのときに残しておいた歌声が、たくさんの彩石に収められているのだ。
「けっこう、進んだわ。明日には終われそうね」
リィナの言葉に、サシャスティが応える。
「楽譜の複写は時間がかかるけれど、少しずつ持ってくるわ。その方が、あなたたちと会う機会が増えるから、私には好都合ね」
2人は、会いたいと思ってもらえることが、嬉しく、なんとなく照れてしまった。
サシャスティとリィナは、そんな2人を微笑んで見つめて、それじゃあ、もう少し進めましょう、と声を掛けた。
4人で取り掛かると早く、仮置きの棚から、保管用の戸棚へ、かなりの数の小箱を移すことができた。
16時に作業を終えると、持ってきてもらっていた菓子と茶をいただきながら、明日の確認などして、サシャスティはイエヤ邸をあとにした。
それからリィナが、持ち物のなかから彩石を取り出して、言った。
「さて、それじゃ、写しを始めましょう。あなたたち、土の力はないわよね」
「えっ、うん…」
ブドーとジェッツィが心配そうな顔をするので、リィナは笑って見せた。
「大丈夫、私ができるわ。こんなことで役に立てるなんてね…」
土の力は、異能としては、あまり使い勝手の良いものとは認識されていない。
かつて舞踊師として舞台に立っていたリィナは、風や水や火の力を使って、見栄えよく演出する仲間を羨ましく思っていたものだ。
そんなことをちらりと思い出しながら、リィナは1頁ずつ、ブドーとジェッツィの選んだ冊子に、サシャスティの冊子の内容を写していった。
サシャスティの冊子には、イライアの歌声の入った彩石に、どの曲が入っているのかなどが控えてあるのだ。
土の力を使って、リィナは、巻黄石の、文字を写す特性を活用する。
ブドーとジェッツィは、徐々に文字で埋められていく白紙を見ていると、なくしたものが取り戻されていくようで、心が震え、飽きることなく、見つめ続けていた。
リィナは、休憩を挟みながらも、丁寧に、けれど急いで、内容を写していった。
17時になると、グィネスが来て、17時ですが、お帰りになりますかと、声を掛けた。
リィナは、はっとして、時計を見た。
次いで、写していない部分を確かめる。
普通の冊子と比べれば薄いとは言え、小箱の数が多いので、こちらの内容量もそれなりだ。
あと1時間ほど、帰りを遅らせることもできたが、それでも、すべてを写し終えることは、できそうになかった。
「ごめんなさいね。今日は、ここまでしかできないわ」
申し訳なくてそう言うと、ブドーとジェッツィは、ううん、と首を横に振った。
「ここまででも、すごく嬉しい!」
ジェッツィの言葉に頷いて、ブドーも言った。
「ありがと、リィナ。すごく、嬉しい」
気持ちのこもった声に、リィナは自然と頬が緩む。
「ええ。私も、できてよかった。じゃあ、また明日、続きをやるわね」
「うん!」
2人は元気に返事して、リィナを玄関まで送った。
挨拶を交わし、門に向かうリィナを見送ると、ブドーとジェッツィは再び部屋に戻って、リィナが写してくれた自分たちの冊子を眺めた。
それはサシャスティが書いたものなので、母の字とは違ったが、丁寧さがよく判る字だった。
「きれいな文字」
「ん」
ブドーは、内容をざっと見て、読める文字を目で追い、ジェッツィは、文字に指で触れた。
ブドーが、読めない文字をジェッツィに聞き、2人で、力を合わせて読んでいると、ミナが見慣れぬ青少年を3人、連れて入ってきた。
3人とも、顔立ちは全く似ていないのだが、目と髪の色が、いずれも、銀に見えるが、虹色が光っている。
見覚えはある気はしたが、明確には思い出せない。
「ふたりとも、こちらはユクト・レノンツェ、隣がラフトフル・シア・スーン、後ろがパリス・ボルドウィン。3人とも、透虹石の力を持っているの。透虹石って言うのはね…これ」
ミナは、隣に立つユクトが持つ箱のなかから、ひとつの石を取り出した。
受け取って見てみると、色のない透明だが、光の当たり具合で虹色に光る。
同じ彩石を、ブドーとジェッツィは身に付けるよう、持たされていたが、現在それは、緑の入った透明が、虹色に光る彩石に変化してしまった。
「さて、じゃあ、始めるね。まずは、用心のために、1曲しか入っていなくて、ほかにもたくさんの彩石に入れてある曲を教えて」
何をするのか判らなかったが、ジェッツィは、サシャスティが置いていってくれた冊子を取り上げて、見てみた。
「えっと、一番古い曲なら、ほかの彩石にも、たくさん入ってたと思う。この風に飛ばす、だよ」
「どこか判る?」
ブドーが、うん、と答えながら、保管用の戸棚に向かった。
一同はそちらに移動し、ミナは1曲だけ入った彩石を取り出して、ユクトに持たせ、その上に自分の手を置いた。
ユクトは、ここに来る前にしたことを、ミナの誘導に従って行った。
風のサイセキから、自分の身の内に入れた風の力を、ミナに持たされた、曲の入った彩石に流し込んだのだ。
通常、普通に彩石に力を入れると、仕掛けられた術や、サイセキの特性に呼応して、それぞれの現象が発生するが、ユクトは、彩石そのものに、力が満たされるように、風の力を流し込んだ。
これは、力の流れを正確に読み解けるミナの誘導あってこそだ。
また、ユクトたち、透虹石の力を持つ者たちは、サイセキが力を受け入れるように、注入するための一方通行の流れを作ることができる。
透虹石は、吸い取る力があるので、また別なのだが、通常のサイセキを自分の体の一部として取り込み、自分の体に力を吸い取る要領で、力の移動を行っているのだ。
それほど時間はかからず、風の力は、歌声の収められた彩石に満ちた。
「ブドー、ジェッツィ。問題ないか確認したいから、この彩石、発動してもいい?」
「あ、うん」
ブドーが答え、ジェッツィは、一気に緊張して、ブドーの袖を掴んだ。
「ジェッツィ?」
「お母さんの、声が、流れる」
そう言われて、ブドーは、その、当然起こる事態に気付いた。
「あっ…」
ミナは、少し考えて、2人に近付いた。
そうして、正面から手を回し、2人の背に当てると、いいかな、と、もう一度聞いた。
ジェッツィは、緊張で青褪めてすらいる顔を上げて、うん、と答えた。
緊張はしているが、聞きたいのだ。
ブドーが言った。
「うん、いいよ。流して」
ミナは頷いて、それから、ラフィに、準備をするように言った。
ラフィは頷いて、この部屋の机の上に置いていた箱の中から、透虹石のひとつと、風のサイセキのひとつを持ってきて、風のサイセキの力を身の内に取り込むと、透虹石にその力を移した。
こうすると、透虹石に直接力を吸いこませるより、時間がかかることもなく、力の移動時間を速めるために、術語を構築するという手間を掛ける必要もなくなるのだ。
とにかく、風の力を許容量だけ吸い込んだ透虹石は、透けてはいるが、緑色が入って、全体に満ちた。
ラフィは、そこで、作って来た術語を口にして、透虹石を縛った。
ラフィが、今、自分の身の内に入れている風の力で、透虹石に取り込まれた風の力が、歌声を収める録音と、望んだ時にそれを聞くことができる、再生に使われるようにしたのだ。
録音は一度だけだが、再生は、透虹石に風の力があるだけ、何回でも続けられる。
透虹石は、もともと、異能を吸い取る性質があるので、自分の異能を石に流し込むことは、誰でも、難しい手順なく行うことができる。
通常のサイセキであれば、力を使ったらそれまでだが、透虹石なら、指定の異能、この場合は風の力を、石が保持している間は、何回でも、録音した音を再生することができるのだ。
ミナは、この手法を考えたとき、ほかの異能での再生も考えるべきかと迷ったが、結局、風の力で指定することにした。
風の力なら、録音も再生も、風の性質に従っているので、そこまで複雑な術語でなくてよく、風の者か、透虹石の者なら、同じ手法を使うことができるので、今後、この手法も、大切な音も、遺しやすくなる。
それに、ブドーとジェッツィが、風の者だから。
2人のための、仕組みを作りたかった。
「それじゃ、再生します」
ラフィの術が透虹石に刻まれたのを見て、ユクトが言った。
いよいよだと、ジェッツィは掴んでいたブドーの袖を握りしめ、ブドーは、その手を放させて、手を繋いだ。
準備のできたユクトが、ラフィの術の発動を待ってから、彩石の中の音を響かせた。
最初に、楽器の旋律が流れ、続けて、女の声がそれに乗った。
「紙鳥(かみどり)を飛ばす空は
どこまでも青く遠く
羽ばたくことないその白い翼を吸い込むように
私の心も吸い込んでいく」
声は、楽器の伴奏に乗り、続く。
「昔習った紙鳥
少し狡をして
飛ばしたのは私の風
だって
つまらないわ
すぐに落ちてしまったら
空になんて届かない
私の心も
届かない
涙の滲む紙鳥
少し重くなったかしら
かまわないわ
だって
飛ばすのは私の風
私の心
その白い翼
見えなくなるまで
飛んで行かせて
そしたら
歩き出すから、この足で
溢れる涙も
いつか止まる
さあ
顎を上げて
前を向いて歩け
足を上げて
踏みしめて進め
そこは悲しみの場所
いつかは
抜け出すの
自分の足で、さあ
勇気を出して!」
力強い声が、言葉が、耳を打つ。
身に沁みて、心に、温かさを与える。
イライアの歌は、ただ心地よい音ではなく。
心ある声だった。
「紙鳥を折って飛ばす
どこまでも青く遠い空に
羽ばたくことないその白い翼を
今
この風に乗せて」
歌声が遠くに消えて、伴奏が終わると、彩石は沈黙した。
「じゃあ、次は、透虹石を、ブドー、ジェッツィ。どちらからでもいいけど、発動させてごらん」
「え、と…」
ラフィが近寄って、ブドーの前に片膝をついた。
「手を出して、この透虹石を持って」
差し出された透虹石を、ブドーが受け取ると、ラフィは言った。
「もう、術は掛けてある。中の歌を再生するときは、こう言うんだ。循環作動。1曲放ち、我、ブドー・セエレンの風を補う。始め」
「え、と…じゅんかん?」
「そう。循環て言うのは、ひとめぐりする、っていうこと。1曲を1回再生したら、その分のこの石にある風の力が減るから、それを補って、元に戻す動作を、ひとめぐりとしているんだ」
「えっと…、じゃあ、じゅんかん作動、で、1曲を流して、俺の力が、えっと…」
「この石の中に入って、なくなった、術発動のための力に、補われるんだ」
「お、おぎなう…」
「そう。真名が分かった方がいいかな。ちょっと待って」
ラフィが立ち上がると、デュッカが察して、部屋の外の小間使いに、筆と紙を持ってくるよう伝えた。
その間にミナは、ジェッツィの持つ冊子を確認して選んだ、別の彩石を取り出して、今度はパリスに頼み、彩石の中の失われた力を取り戻させるよう、誘導した。
どこかに行った小間使いは、すぐに戻って、デュッカに、書いたものを消せる炭筆(すみふで)と、消せない墨筆(すみふで)と、炭筆用の字消しと、紙を渡した。
ラフィはそれらを受け取って、机で術語を紙に書くと、その紙をブドーとジェッツィに見せて説明を続けた。
「循環はこう書く。まあ、これは難しいよな。そのうち覚えるといい。これは、おぎなう、と読む。補充するって聞いたら、判るか?」
「あっ、うん。ほじゅう、真名はよく覚えてないけど、こんなだったかも」
「そうか。補うというのは、足りないところに、足りないものを足すっていうこと。だから、この場合は、1曲流すと、それを流すための力がなくなるから、その力を、君のなかから吸い取って、彩石の中に入れ直す」
「あっ、うん!分かった!」
「それが、一連の流れ、ひとめぐりだ」
「うん!」
「じゃあ、やってみてくれ」
「分かった!」
ブドーは、ひと息吸って、渡された紙を見ながら、術語を紡いだ。
「循環作動。1曲放ち、我、ブドー・セエレンの風を補う。始め」
すると、術が作動し、先の音と変わらぬ音が流れ始めた。
ブドーとジェッツィは、再び、じっと動かず、母の声を聞いていた。
やがて曲が終わると、ラフィは透虹石が保持する力に変わりがないことを確かめ、ミナに渡して、確認してもらった。
「うん、うまくいったね。成功だよ。じゃあ、もうひとつやっておこう」
ミナは、そう言って、ラフィを促し、準備ができたところで、もうひとつの彩石の中身を放たせた。
今度は、かわいらしい恋の歌で、ぽんぽんと跳ねるような楽器の音も楽しめる、軽快な曲だった。
それも、同じ術で、透虹石に録音され、ミナは今度は、ジェッツィに発動させた。
問題なく作動し、透虹石には、変わらぬ力量が保たれる。
「よし。これなら良さそうだね。ブドー、ジェッツィ。これから、終業してからとか、この3人の手が空いている時だけになるけど、順に複製していこうね」
「うん!ありがとう!よろしくお願いします!」
2人の喜びを含む元気な声に微笑んで、3人は、こちらこそよろしく、と言って頷いた。
「私からも、よろしくね。じゃあ、少し休んで、ご飯にしようか。3人とも、食べていってくれる?」
「お言葉に甘えて」
パリスは、即座にそう言ったが、ラフィは、ええっと…、と、返答を迷い、ユクトは、いいんですか?と、聞き返した。
「うん、もちろん。何か用事があれば残念だけど…」
そう聞いて、ラフィは頷いた。
「え、いえ、ないです。ええと、じゃあ、お邪魔します…」
「俺も、お邪魔します」
ユクトも続けて、承知してくれたので、ミナは笑って頷いた。
「はい。それじゃ、下に行こうか。ブドー、ジェッツィ、2人とも、おいで。少し休むといい」
ブドーとジェッツィは、新たに手に入れた複製を、もう一度聞いてみたかった。
それぞれ、透虹石を握りしめる2人に、ミナは穏やかに笑って、言った。
「ほら、おいで。透虹石は持っておいで。あんまり再生すると、まあ、あなたたちの力量なら、滅多なことはないと思うけど、力を使うことに変わりはないからね。ほどほどにしないと」
「うん…」
2人とも、残念そうだったが、透虹石を握り締めて、ともに部屋を出た。
居間に下りると、ミナは起きていたレジーネを抱いて、長椅子に座った。
ほかの者たちも適当に近くの椅子に座り、ミナはブドーとジェッツィに、鍵は問題なく形状を変えられたよ、と言った。
「鍵って言うか、まあ、錠だね。あとで確かめてごらん。自分たちの選んだ棚は、昨日、渡した鍵で開くし、複製の置き場の錠は全部統一して、2人のどちらの鍵でも開くような形にしたから。錠の部分を、形を作ったあと、二度と異能で変化しないっていうサイセキに付け代えたの。あとは、保護の術を考えて、仕掛けようね」
「うん。色々、考えてくれて、ありがとう」
「ありがと、ミナ」
礼を言うジェッツィとブドーに、にっこりと笑顔を見せて、ミナは言った。
「うん。ほかにもたくさん、手伝ってもらえて、嬉しいね。一段落したら、何か、お礼をしたいね」
「何をしたらいい?」
「まあ、考えてみるといいよ。私も考えてみる。リィナは、特に、あなたたちのためでもあるんだろうけど、自分のためでもあるし、あなたたちの、お母さんのためでもあるんだと思うから。そういうこと、考えてみるといいね」
「…えっと…」
うまく理解できないらしい2人に微笑んで見せ、ミナは、レジーネの様子を見た。
目を閉じて、眠っているようだが、その小さな手は、ミナの服の端を強く掴んだまま、放さない。
ひととき、幸せに浸って、ミナはジェッツィを見た。
「そうだ。ジェッツィ。踊るのが好きって言ってたよね。取り敢えず、舞踏室を使うといいよ。あと、デュッカ、あの部屋の隣に、舞踊室を作ったらどうかと思うんですけど。床を補強する必要があれば、そういうことをして」
「ああ、分かった」
「ジェッツィ、そういうことだから、舞踊室に何が必要か、考えてみてごらん。お母さんの声を聞きながら踊りたいなら、その彩石を置く場所を作った方がいいだろうし」
ジェッツィは、その状況を思い描いて、目を大きくした。
「部屋の中で、踊っていいの!」
「うん、そのための部屋を作るから。外で踊る方が、気分がいいかもしれないけど、イエヤ邸の庭は、ちょっと殺風景かもしれないね」
「ううん!広い場所があれば、どこでもいいよ!あの、リィナが踊ってくれた、舞台ぐらい!」
ミナは、ちょっと驚いたが、確かに、そのくらいは、必要なのだろう。
デュッカを見て、聞いてみた。
「ふた部屋、いや、3部屋かな。壁を抜いて、作れますかね」
「大工師に聞いてみればいい。もし無理なら、そうだな、この敷地内に舞台小屋を作るか、隣か向かいの敷地を買って、建てるといい」
「さ、さすがにそれは…、いやでも、いっそ、その方がいいのかな…」
遠い場所の敷地や建物を借りたり買ったりするぐらいなら、近所に建てた方がいい。
仕事でもなく、ただの楽しみに対して、成長途中の子に使うには、行き過ぎな金額となりそうだが、幸い、その金は余裕で持っている。
この場合は、やりたいことをなんでもさせてやる甘やかしでは、ないと思うのだ。
これまでしてきたことを、場所がないという理由で、断念させることは、手足をもぎ取るようなものだと、ミナは感じた。
「そうですね。もしものときは、そうしましょう。取り敢えず、大工師に相談しましょうね」
「ああ。今週中に依頼できれば、ザクォーネ国に行っている間に、かなり進むだろう」
「あっ、そうですね!それはいいです!」
そういうことで、早速、大工師と連絡を取って、明日、ミナたちの終業後に来てもらえることになった。
そこまで手配すると、食事の時間になったので、楽しく夕食を摂り、食後、ユクトたち3人を見送ると、ミナたちは、また、話し合った。
「ブドーは、士官学校に行きながら、ブログナー武術場に通うんだね」
ブログナー武術場とは、退役騎士たちが所属して、個別に門弟子を持ち、武術を教えるところだ。
ミナに聞かれて、ブドーは頷いた。
「うん、まだ、一回も行ってないから、どうなるか分かんないんだけど。最初から両方行くんじゃなくて、何年か士官学校だけでやってみてもいいかもしれないって言われたんだ」
これに、デュッカが頷いて言った。
「そうだな。士官学校の教えは、足りないわけではない。ただ、独力でできることに差があるだけだ。あとは、時間をどのように使うのかということ。武術場に通うなら、師の都合に、ある程度合わせる必要があるからな。それは、誰かに教わるということなら、当然そうなる」
「うん。とにかく、明日の朝は、武術場に行きたいんだ。行っていい?」
「ええ、いいわ。でも、何時ぐらいなの?」
「うん。約束したのは、6時半ばに家を出て、7時前に着くように、大通りで待ち合わせして行こうってこと。もし、通うことに決めるなら、手続きは20歳以上の大人にしてもらわなきゃいけないんだって」
「そっか、じゃあ、付いて行った方がいいか。ジェッツィは、明日の朝、用事はある?」
「うん。明日は、朝は楽器を触りたいんだ。あ、それで、フレイとシェナが、迎えに来てくれるんだって。7時に」
「ああ、ちょっとだけ遠くはなるけど、通り道の範囲だものね。じゃあ、ジェッツィ、明日は、先に出るね」
「うん、平気」
「それで、ジェッツィは、奏楽館にはもうちょっと、様子を見に行った方がいいんじゃない?声楽だけじゃなくて、器楽も、興味あるなら、種類が色々あるし、それに踊りが好きなら、舞踊師のことも、見に行けるなら行った方がいい」
「うん!私、舞踊師、見たい!」
ミナは、困って眉根を寄せた。
確か、舞踊関係は、奏楽館のような館があるという話は聞いていない。
「舞踊師は、どこに行ったら会えるのかな…」
デュッカが応えて言った。
「舞踊師は一応、舞踊館がある。ただ、踊りは舞台によるからな。背後に壁があって、正面だけ見せるものもあれば、壁のない舞台なら、前後に関わらず見せなければならない。だから、大抵は、各々で選んだ舞台に出入りして学ぶ」
「そうなんですか…、ジェッツィの方は、確かめなきゃいけないことがたくさんですね。それじゃ、学習場にいる期間を延ばしてもらった方がいいのかな?」
「そうだな。もし、声楽も器楽も舞踊も修めたいなら、技能学校に通う余裕はないだろう。もう少し基礎知識を増やしながら、どこに所属して何をするか、考えるといい」
ジェッツィは、少し迷うような目をした。
「あの。でも、私、働かないわけにはいかない…」
ミナは、ちょっと笑って、そうだね、と言った。
「いずれ、働いた方がいいと、私は思うよ。働かなくても、私たちで養うけど、働いて生活できるお金を稼ぐということは、自立するということだ。自分の足で、立った方がいい。だれにも頼っちゃいけないと言うのじゃないの。支えが必要なら、もちろん支える。でも、誰かに掴まってでも、自分の足で立てれば、自分の好きなところへ、どこへだって行けるの」
ミナは続けた。
「私は、あなたたちに、あなたたちの好きなことをできる、力を付けてもらいたい。ひとつの仕事で身を立てるということは、それができるという、周囲に向けて、何より自分自身に向けての、証明だし、力そのものでもあるんだ」
言葉を切って、ブドーとジェッツィを、交互に見る。
「ブドー、ジェッツィ。働くということは、しなくちゃいけないことじゃない。あなたたちが生きるために身に付ける、力なんだ。そうしてほしいと私が思うのはね。ほんの数年のことだとしても、私たちには、あなたたちに手を差し出すことが、できない日が来るからだよ」
ブドーとジェッツィは、急に心細くなった。
ふたりは、無償で差し出してくれる腕を、なくしてしまったことを、強く意識した。
ミナは笑って言った。
「そんな顔しないで。ちゃんと、あなたたちが、新たな家を建てるまで、待っているから」
「新たな家…」
「そう。どんな形であれ、あなたたちが、守られるのではなく、守る者を得たとき、それは作られるのではないかな」
「守る者…」
「ん。それはまた、そのときにね。それで、話を戻すけど。今はまだ、仕事をするときではないよ。まず、身の回りのこと知らなくちゃいけないし、それからやっと、これからどうするか、考えることができると思う。考えたら、今度は、色々試して、また、試したことについて、考えなきゃね。アルシュファイドでは、早い段階で見習いとして働くことはできるけど、責務を求められるのは、20歳からなの。16歳から、見習い、という言葉を外される職業が多いけど、それは責務を求めているのじゃなくて、一人前として、仕事ができるということを、認めるということなの」
息を継いで、ミナは続ける。
「だからそれまでは、いろんな経験をしていいんだよ。もちろん、選んだ道で、自立できるほどには稼ぐことができないなら、それでも構わない。ただ、20歳を過ぎたら、定職には就けなくても、自分で食べる分程度は、稼ぐようにした方がいいね。その方が、自由に動けるから。言っていることが、理解できる?」
ジェッツィは、自信なさそうに、ミナを見た。
「試したことが、仕事にならなくても、いいの?」
ミナは深く頷いた。
「そうだよ。どうなるか判らないから、みんな試すの。私だって色々したけど、結局、今でも使える資格は、彩石選別師資格だけ」
「でも、ミナは…判定師、だよね?」
「そうだよ。判定師も、まあ、言ってみれば彩石騎士と似た感じかな?そういう能力があるから、そうなっただけ。なろうと思ったんじゃないの。そういう、流れに乗るしかないときもあるし。どうしても、やりたいって思うことが、これからあなたたちには、あるかもしれないね」
ブドーとジェッツィは、言われたことに、どのような理解をするのが正しいのだろう、と考えた。
ジェッツィは、言われたことを順に遡りながら思い返して、自分にとって何が大事なんだろう、と考えた。
「私…、今は、歌って、踊りたい。仕事にならなくても。もっと、上手に、もっと、自由に、もっと、思うように」
「うん」
「それをして、いいの?」
「うん。そのために、毎日の時間を使っていいんだよ。学習場で教わることは、生活するためのことだから、これから、例えば歌詞を作ろうと思ったら、学習場で教わる以上の、たくさんの言葉を知る必要がある。それなら、歌って踊るほかに、そのための時間を作らなくちゃいけないよね」
「うん…、うん!なんだか、分かってきたと思う!私、言葉も、もっと知らなくっちゃ!」
「そのためには、技能学校の、言葉について詳しく教えてくれる講義を受けた方が、あなたにとって都合がいいかもしれない。でも、それだけの講義しか受けないんなら、技能学校に所属するのは、ちょっと違うよね」
「うん!奏楽館では、技能学校の、こうぎも、受けられるって言ってた!こうぎ、って、授業ってこと?」
「うん、そうだよ。ちょっと色々理由があって、学習場で教わることは授業、学校で教わることは講義って呼んでいるの」
「ふうん…。でもそしたら、私は、奏楽館に、所属、した方がいい?」
「そうかもしれないね。私も、奏楽館のこと知りたいな。あと、舞踊館のことも」
デュッカが言った。
「奏楽館や舞踊館は所属はしない。利用登録するだけだ。そうしておけば、自分に都合のいい情報を与えてくれる」
「そうなんですか」
「ああ」
「それってどういうこと?」
ジェッツィの疑問に、デュッカが答えた。
「自分の都合で、館で行われていることを利用する。どの講義を受けるも受けないも自分の選択だ。その講義に、自分が、時間を取りたいと思うかどうか。その講義を受けたからと言って、資格が取れるわけではない。ただ、身に付けるだけだ」
「それって、何か困る?」
「そうだな。国に認められた資格と違って、奏楽師であること、舞踊師であることは、本人の実力次第だ。だから、奏楽師だから、という理由で、仕事を頼む者はいない。まずは、実力を見せろと言われる」
「んー…。見せたら、雇ってもらえる?」
「いいや。そうとは限らない。だから、約束された、一定の金を得ることは難しい」
「そっか…」
ミナが言い添えた。
「奏楽師や舞踊師で稼ぐ気がないのなら、何か資格を選んで、それだけでも取れるようにしたらいいね。そうなると、技能学校でどんな資格を取れるかは、調べた方がいいよね」
「うん…。じゃあ、奏楽館にあった、就職相談室って言うのは、技能学校で資格取るためのものなのかな?」
「どうだろう。その辺りはまた、確認した方がいいんだろうね。じゃあ、そうだな…、ザクォーネ国から戻ったら、また奏楽館に行って、一緒に色々見て回ろう」
「ミナも?」
「うん。知りたいし、時間はいつでも取れると思うからね。明日は、大工師さんと話すから、明後日、じゃ遅いか…、デュッカ、そちら、学習場に行く時間、明日に取れますか?」
「ああ。2人の学習進度などを確認して、今後の相談をしてくればいいんだろう」
「はい。お願いしていいですか?私も行きたいけど、行く時間を取るとしたら、半の日になってしまうので」
「任せろ。風の宮は放っておいても構わん」
「いや、それはだめですって」
久し振りの遣り取りに、ミナは、くすりと笑ってしまう。
ジェッツィは2人の会話を聞いて、迷惑とは言わないまでも、何か、手間を掛けさせているのだと察した。
「あの…、いいの?大丈夫?」
「大丈夫。こういうことこそ、私たちの役目だし、何より、あなたたちの進む道に、関わらせて欲しいから」
その気持ちは、ブドーとジェッツィには理解できなかったが、ただ、なんと言うのだろう。
包まれている感覚が、した。
「あとは、と。サシャスティが、あなたの覚えている曲を知りたいのだったよね。残したい、だったか。それじゃ、それは1階の奏楽室でやってもらってね。別の場所でして、帰りが遅くなるのは避けたい」
「分かった」
「ほかは何かあったかな」
「ううん、ないと思う」
「よし。それじゃ、ちょっと早いけど寝ようか。あと1回ずつぐらい、あの複製を聞いてから寝てもいいよ」
ブドーとジェッツィは、笑顔で、うん!と声を合わせた。
「おやすみなさい!」
そう叫ぶように言って、居間を駆け出る。
ミナはそれを微笑んで見送ると、じゃあ寝ましょうかとデュッカに声を掛けて、膝に乗せていたレジーネを抱き上げようとした。
「俺が抱く」
「あ、はい」
そうして、2階に上がると、ミナは自分の部屋に入って、眠るための、夜の衣に着替えた。
隣室に繋がる扉を開けて、なかに入ると、レジーネが寝台で両腕を、うようよ動かしていた。
覗き込んで、小さな手に触れる。
体が重くなるような、疲れを感じたが、気持ちは何か、満たされていて、心地よかった。
「大丈夫か」
声を掛けられて、体を起こした。
「あ、はい。ちょっと疲れてますけど」
「そうか」
デュッカはミナを促して、寝台に横たわらせた。
「デュッカ」
ミナは腕を伸ばして、その広い背中に腕を伸ばした。
しばらくそうして、ぎゅっと力を込めていたが、やがて満足して、腕を緩めた。
自由になったデュッカが、ミナの目を見つめて、視線を少し落とし、唇を求める。
手で体の線をなぞるデュッカに、待ってと声を掛けて、ミナは起き上がった。
そのまま、ふたりの寝室を出て、小箱を保管している部屋に入る。
「ミナ、デュッカ」
それぞれ、1人掛けの寝椅子に、横たわるように体を預けていたブドーとジェッツィが、2人を見る。
「ここで眠ってるのかと思っちゃった」
「ううん。ちょっとここにいたかっただけ。もう寝る。ジェッツィ」
「うん。寝る。おやすみなさい…、あ、さっき言ったっけ」
ミナは笑って、はい、おやすみなさい、と言った。
4人でその部屋を出て、それぞれの自室に戻ったブドーとジェッツィは、寝支度を済ませると、寝台横の小机の上に置いていた透虹石を手に取り、寝具に潜り込んだ。
透虹石を握りしめて、静かに目を閉じる。
聞くことはできるけれど、なんとなく。
まだ耳に残る、母の声に、身を預けていたかった。
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