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由貴が御伽衆御殿に戻ってきた。一月ばかりを湯治場で過ごした由貴は顔がふっくらとし、すっかり元気になって戻ってきたという話だった。すぐにでも訪ねようと思いながら、なぜか源次郎はそうできないまま数日を過ごした。
そうしているうちに、家中上げての花見同様、恒例になっている春の上覧試合の日を迎えた。この日は一日かけて、藩士達が剣術、弓術、それに馬術の腕前を当主である貴之の前で披露する。事前に選りすぐられた者達が、厳しい冬の間も怠らず磨いた技の限りを尽くし、勝利者には貴之直々に褒美を与える決まりだ。
選ばれただけでも名誉のこの上覧試合で、若くして軍事の重役にある琢馬は、模範を示すかのように、ここ数年剣術の部で負けなしだという。御伽衆からは弓がよくできる四郎が選ばれていた。
「源次郎殿、挨拶が遅れて申し訳ない。このとおり、おかげさまで元気になって戻ることができもうした」
控えの間で、由貴が源次郎を見つけるなり声をかけてきた。
誰に対しても腰が低い由貴らしい、丁重な挨拶。笑顔はさっぱりとして明るく、由貴はこの一月で身体はもちろん精神も、湯治で磨いたように思われた。
「こちらこそ、すぐうかがうべきところをご無礼いたしました」
思わず、源次郎は由貴の顔を見つめてしまう。
穏やかな表情に、すっと一本筋が入ったような安定感がある。それは、琢馬が与えたものなのだろうか。
「上覧試合は初めてでござろう、見応えがあるぞ」
「はい、楽しみにしておりました」
由貴と話したいのに、言いたいことも多い気がするのに、それ以上言葉が出てこない。しばらく黙ったままでいると、目の前の由貴がさらりと衣ずれの音をさせた。
「どうなされた?」
はっとして視線を上げたその先に、屈託ない笑顔。ちり、と心の端が焦げるような感覚。湯治場での一月を、由貴は幸せのうちに過ごしたのだろう。その間、由貴は貴之のことを思う瞬間があっただろうか。
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