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「いえ、なんでもございません」
その一言で、気持ちを切り替える。そろそろ参ろうか、という由貴の声に、源次郎もその後に続いて庭に面した座敷に通った。源次郎も由貴も、中央に貴之の席を空けて居並ぶ重臣達の後ろに席を与えられている。
「殿のお成りでござりまする」
しばらくすると、高らかに小姓が声をあげ、貴之が姿をあらわした。座敷に居並ぶ者も庭を取り巻いて立っている藩士達も、いっせいに頭を下げる。
さざ波に似た衣ずれの音が広い庭を包みこむ。その厳粛さと貴之の威厳に、源次郎は鳥肌が立つような気持ちの高ぶりを覚えた。貴之が背負う九万石の領地と大勢の藩士達の重みだ。
まずは馬術の披露だった。進藤一家を大井家に呼んだ張本人、家老の明石が一番手で、その登場に場はそれだけで沸いた。いかにも文人といった線の細い外見に似合わぬ見事で豪快な技に、思わずため息が漏れる。
人は一つ二つ、意外なものを隠し持っているものだ。由貴の秘め続けた恋も、貴之の弱さも、それだ。
自分は、と源次郎が考えようとした時、庭に四郎が弓を持って出てきた。白い筒袖に漆黒の袴が凛々しい。
ふと、やけに全身に力が入っている田山の姿が目に入る。田山は一喜一憂を隠さず、試合を心から楽しみ、応援していた。それを笑みを含んで見ているうち、いつの間にか四郎の番が終わってしまった。
「剣術の部は、四半刻(約三十分)の休憩の後といたしまする」
上覧試合が一番盛り上がるのは、当然手練れの剣士達が激しくぶつかりあう剣術の部で、藩士達の楽しみもそこにある。係が告げた途端にざわめく藩士達の顔には、高揚が見てとれた。
貴之が控えの間へと去り、それに続いて重役達も席を立つ。源次郎と由貴も連れ立って、割り当てられた控えの間に行き茶を飲んだ。
「いよいよトリの剣術試合、楽しみでござりますね」
「さすがに、今年も神道無念流の宮崎琢馬が優勝とはいかないだろうな」
ふわ、と笑い、さらりと琢馬の名を自ら口にする由貴。源次郎は驚きに呆けて、由貴の顔を見た。
さらばだ、と言った笑顔が思い出される。美しかったあの笑顔。今同じく笑う由貴は、心中なにを思っているのか。
「湯治場では暇ゆえ、これ幸いと稽古に励んでおったが、そう毎年勝ってもつまらぬ」
「はあ、それはそうでござりますが……」
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